09 「トーマス」
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09 「トーマス」
ウォッカが息を引き取った後の静寂は、次第に強くなる雨音やそれを跳ね返す音も運んできていた。コルがシェパードの耳元でささやく。
「少尉、撤退するか、それなりの陣を組むか、ご指示を」
彼らが雨宿り場所に選んだ変電所は包囲されつつあった。線路側はまだ包囲が完成していなかったが、それはあえて空けてあると思った方がいいだろう。自分たちが包囲する側であったとしてもそうする。列車の通過する時刻に合わせて総攻撃を仕掛け、線路に飛び込まざるを得ない状況を作れば戦力を大きく削ぐことができる。生き残りは列車の通過した後にゆっくりと掃討すればいい。それを思ったシェパードは腹をくくった。
「コル、ガブ、ジョシュ、お前たちは生身の部分が多い。敵の赤外線ゴーグルにたっぷりと見せてやってくれ。シープはシードルを横っ腹に固定しろ。シードルの体温を見せるな。ブル、正面の草地を焼けるか?」
「少尉、申し訳ない。焼夷弾はない。照明弾ならある」
ブルの横っ腹が開いた。
「それでいい。一瞬でも一部でもいいから敵の装備がみたい。キム、俺たちが抜けられるぐらいの穴を二つ、線路側の金網に空けてくれ。俺の合図で作戦開始だ。…行け!」
照明弾が発射されると同時に、正面の金網ぎりぎりをうろうろしていたコルたちが後退し、キムとシードルを抱えたシープは線路側の金網に走った。草地に落ちた照明弾の火は一部を明るく照らしたが濡れた草に燃え移ることはなかった。しかしそれで充分だった。移動式の重火器はなく人間もいない。
「俺たち以外の部隊もあったのか!全員線路側に出るぞ!走りながら小隊のメンバーを確認しろ!」
シェパードは『俺たち』という言葉を自分の隊とボクサー隊という意味で使ったのだが、言いながら一つの疑念が浮かんだ。収容所で見せられた黒いボールは本当に…。ちょうどその時、彼と並走し自分の人工毛を絡ませてこようとする影が現れた。シェパードの疑念は晴れた。
「そうはさせるか、ボクサー!」
シェパードは足を突っ張り体を急停止させ、その影の頭をめがけてジャンプした。頭の毛は何かを絡めとるようにはできていない。その頭を踏み台にして彼は高く舞い上がる。有刺鉄線を越えるときに下で何か声がしたが、はっきりとは聞き取れなかった。何かが線路の上を猛スピードで走ってくるのに気を取られたからだ。
変電所から飛び出したシェパード隊は線路の両側に分かれ、間一髪その何かをやり過ごす。急ブレーキで止まったそれは黒いSUVだった。
「早く乗れ!」
声がすると同時に後部のハッチが開く。シェパード隊は素早く乗り込む。無言で互いを確認し合うと何も言わぬうちからハッチのドアが降りはじめ、車は再び走りはじめた。その瞬間ボクサーと黒いラブラドールが飛び込んできた。ボクサーはコルの左前足に噛みつき、ラブラドールはシープの右前足に噛みついた。
「くそっ!」
痛みで二頭が顔を歪めたのも束の間、ジョシュがボクサーの鼻に噛みついて食いちぎらんばかりに顔を横に振った。たまらずボクサーは開きかけたハッチから線路に転げ落ちた。一方のラブラドールはすでに死んだようになって後部ハッチにはさまっていた。
「死んだのか?」
コルが痛む足を舐めながらそうたずねると、
「いんや。猫ちゃんの麻酔だ」
シープもまた足を舐めながら答えた。シープの横っ腹に固定されていたシードルが例の麻酔爪で刺したのだった。ブルは少し気の毒になったのか、ラブラドールをはさんでいる後部ハッチに体を預けて押し上げた。麻酔のかかったそいつは、どさりと落ちてハッチは閉まった。
しばらく線路の上を走った車は大きく揺れて車道に降りた。その衝撃で我に帰ったシェパード隊が進行方向を向くと、運転席にはくせ毛の若い男が座っていた。
「お前、何者だ。なぜ助ける?」
そうシェパードがたずねる間に、シードルが猫らしく若者の膝の上に移って甘える。怪しい奴なら麻酔で眠らせるつもりなのだ。
「誰かこの猫どけてくれよ。ぼくに麻酔かけると運転する人がいなくなるよ。しゃべる犬を見て驚かないんだから、想像つくだろう」
そのセリフを聞いてシードルは助手席へ移り丸くなった。シェパードはというと、この若者のしゃべり方が気になっていた。覇気がないというか、心がないというか。かと言ってやる気がない感じや投げやりな感じもしない。この感じは知っているのだが誰だったか…。
若者は車線を変え、砂漠へ向かう分岐に入った。先手を打つように彼は口を開いた。
「砂漠にあった例の研究所へ向かうよ。ラミーはそこで待ってる」
全員の頭が上がった。
「ラミーは裏切ってはいなかったんだな?」
シェパードが念を押す。声には多少凄みを利かせたつもりだったが、その若者の抑揚のない感じは変わらなかった。一本調子な物言いで返してくる。
「ラミーは僕や君たちの生みの親じゃないか。なんで裏切るんだよ?」
驚きのあまり誰も言葉を発することができない。しばらく沈黙が流れ、やっとそれを破ることができたのはブルだった。
「いろいろと考えてみたが、さっぱり意味が分からん。お兄ちゃん、詳しく教えてくれないかな」
言い終わったブルは盛んに舌なめずりをする。サイボーグ犬だから喉は乾かないはずなのだが、どうやら落ち着かないようだ。バックミラー越しにブルを見た若者はにこりともせずに言葉を返した。
「僕には説明できないよ。それにすんなり砂漠に行かせてくれそうもないし」
若者はバックミラーを見ながら車のスピードを上げる。振り返ると似たようなSUVが猛スピードで追いつこうとしていた。
「少尉、吹っ飛ばしますか?」
車内が狭いのでブルはいつものようにランチャーの中身を見せびらかすことはできないが、気持ちを集中させるべきターゲットができて、かえって落ち着いたように見える。
「いや。民間人という可能性もある」
シェパードの喉元のマイクから出る声は人間だった頃の声に似せた電子音のはずなのだが、やや焦っているようにも聞こえる。それを感じているのかいないのか、若者が例の抑揚のない言い回しで口を挟んだ。
「こっちは時速75マイル(約120km/h)。向こうは100マイル(約160km/h)は出てる。どうみても民間人とは思えないけど。路肩に寄せてやり過ごしてみる?」
ハイウェイではなく一般道であるからこのスピードは目立つ。見渡す限り荒涼としたエリアに入るのはおよそ十五分後だ。時折過ぎる対向車を巻き込むようなことはしたくない。シェパードがウィリアム・ロックフォールとして義勇軍という名のゲリラと戦っていた頃は『必要な犠牲』と唱えれば多少救われるような気がしたが、犬になった今はとんなマジックワードも効力がない。少なくともシェパード本人にはそう思えた。
「向こうにスピードを合わせてくれ。追いつかれなければ、それでいい」
そう言ってシェパードは猫のように体を丸めた。
「スピードをあげるのはいいけど、夜だから三十分くらいで充電切れだよ」
若者はそう言いながらもアクセルを踏み込む。この頃はガソリンで走るのは大型トレーラーくらいで、大抵の車は電気で走っていた。発電塗料により太陽光でも充電できるため格段に航続距離も伸びた。しかし夜間の高速走行には限界がある。
「少尉、まさか捕まってやるつもりなんじゃないでしょうね?」
雑種のガブは体を震わせて水滴をはじき飛ばしたい衝動と戦いながら、シェパードの顔色をうかがった。
「そんなつもりはない。少し考える時間がほしかっただけだ。それにあの車が敵とは限らない…」
なにか思い浮かんだのか、シェパードは体を起こしながらガブの問いかけに答えた。次に運転席へ顔を向けて声をかけた。
「そういえばまだ名前を聞いてなかったな」
「僕の名前はトーマス・リンガだ」
…トーマス…やはりこの若者を知っているような。
「お前、マクナイト大佐の…」
「そうだよ。マスチフ中佐になってからも補佐官をしていた。彼がネバダ・プリズンに連れて行かれるまではね」
だがこの若者は自分もシェパード隊もラミーによって生み出されたと言っていた。いったいどういうことだ。シェパードの疑念を見透かしたかのようにトーマスが声をかける。
「いろいろ気になるだろうけど、向こうはまたスピードを上げたよ。電池が持たないんだろう。最期の賭けに出たみたいだ」
トーマスの言うとおりだ。まず当面の問題をクリアしなければ。
「シードル、トーマスの膝の上に乗ってトーマスの目になれ。トーマス、ライトを切って運転してくれ。見通しのいいところで対向車線に移るんだ。キムは後ろのハッチのガラスを外せ。外に落とさず内側に外してくれ。キム、ブル、お前たちのうちのどちらか、フレシェット持ってるか?」
「持ってます。タイヤを狙うんですね?」
キムが答えた。
「そうだ。エンジンにも打ち込めればなおいい」
シェパードの言うフレシェットとはライフル用フレシェット弾のことで、発射後に弾頭が開いて釘のような矢をまき散らす。本来は敵兵に負傷者を作り、行軍を遅らせるために用いる。
指示が出るとそれぞれが無言でことを進める。シードルは東洋の猫の置物のようにトーマスの膝の上に後ろ足だけで立ち、トーマスの左右の手の甲を押すようにして無灯火でのハンドル操作を助けた。キムがしっぽの酸でリアウィンドウのフレームを溶かすと、シープが肉球でガラスを吸い付け車内側にガラスを外す。正面に向き直ったキムが背骨のライフルを起こすと、ブルが照準を補正した。準備が整うとキムが口を開いた。
「少尉、いつでも」
「よし。打て!」
ダンッ、ガン、ガン、ガン、ガン。
キュルルルルル。
後方の車はタイヤを打ち抜かれ、バランスを崩すと、大きくスピンして車道を外れ急停車した。シェパードが徐々に小さくなる車影を確認した直後、こちらの車も大きく蛇行しはじめた。
「どうした?」
後方の監視はブルに任せてシェパードが進行方向に体を向けると、シープはコルの首をくわえており、運転席のシードルは必死に両手で交互にトーマスの手を押さえている。
「どうやら向こうも同じことを考えたようです」
そう報告すると、ジョシュは大きな体を丸めてしきりにコルの眉間の辺りをなめた。見れば車内にフレシェットの矢が刺さっている。一本は助手席のシートベルトホルダーに、一本は助手席のヘッドレストに、一本はダッシュポードのパネルに。この矢には血糊が付いている。止血フォームでの応急処置を終えたシープが頭を上げた。
「少尉、コルの首を貫通しています」
「大丈夫なのか?」
「止血はしましたが、神経を傷つけていれば体を動かすことはでぎねんでねえかと」
そう答えたシープは止血フォームの上から首をなめて、その固まり具合を確認した。そのタイミングで車は再び大きく蛇行し、シープは危うく自分の舌を咬むところだった。
「トーマス、どうした?」
シェパードが声を掛けるが、トーマスはまっすぐに前を向いたまま返事をしない。しかし理由はすぐに分かった。運転席のヘッドレストに穴があいている。おそらくトーマスの頭はヘッドレストに文字通りの釘付けになっている。ハンドルを持つトーマスの手の制御に集中しているシードルは状況が分かっていない。
「少尉、もう無理だ。トーマスの手に全然力が入ってない!どうなってるんです?」
「なんとか持たせてくれ。もうすぐ車の充電も切れる。ライトが付けられない以上お前の目だけが頼りだ」
スピーカーから出る合成音で話していることにシェパードは感謝した。肉声で話せていれば、このときのシェパードの声からは不安が感じ取れたはずだ。
「少尉、トーマスが!」
シードルの声と同時にトーマスの左手がハンドルから離れた。だが力無く離れたのではなく、震える指を伸ばしてコンソール上のボタンを押そうとしている。
「トーマス、どれだ。どれを押すんだ?」
シェパードが大声で話しかけるがトーマスは声を出さず、ただ一心に指を伸ばそうとしている。その震える指先は『通話』ボタンを指しているように見えた。シェパードはためらいつつも左前足でそのボタンを押す。発信音がなり、通話状態に入ったことを示すランプがついた。
ピー、トゥルルルルル。
二十一世紀に姿を消したファックスの呼び出し音のような音が出て、その後はかすかなジャミング音が流れてきた。その途端に車の蛇行はおさまり、トーマスの左手は再びハンドルへと戻った。
「少尉、トーマスの手に力が戻りました」
シードルの報告にシェパードが答えようとすると、先に車内のスピーカーから声がした。ナビゲーションマシンの声だった。
「少尉、トーマスはさっきの銃撃で体の機能をコントロールできなくなりました。この車の電話から聞こえる通信音で制御しています。だから通話を切らないでください。シードル、トーマスの視覚はもう役に立たないから引き続きハンドリングを頼む」
ナビゲーションマシンの音声ではあるのだが、彼らのことをよく知っているような口ぶりだった。
「お前は誰だ?ラミーか!」
シェパードが改めて口に出さずとも、ここにいる全員がそれを確信していた。ラミーに乗っ取れないマシンはない。
「少尉、時間がありません。人工衛星を介して制御しているため、位置は確実に知られてしまいます。あと半マイル進んだら車を車道から外して止めます。そうしたら車の正面から九時方向に二十マイル歩いてください。例の研究所が見えるはずです。それとトーマスは置いていってください。歩行は困難です」
「二十マイル!コルも負傷している。トーマスを置いてゆけというが捕まったらどうするんだ」
シェパードの問いに答えは返ってこなかった。細いジャミング音だけが車内に響く。その後すぐに車は車道からそれて、道路に対して鋭角を成すように止まった。
「コルの様子はどうだ?」
喉のスピーカーから出るのは合成音のはずだが、シェパードの声は明らかに疲れていた。
「少尉、歩くくらいならできますよ」
コルがゆっくりと頭を上げた。もし彼らに泣く機能があったなら、きっとシェパードは目に涙を浮かべていただろう。
「それに助手席の方からいい匂いがする」
生身の部分が多いコル、ガブ、ジョシュは車に乗ったときからその臭いが気になっていた。
「それくらいなら俺にも分かる。だがまずは車から離れなきゃならん。しばらくお預けだ」
助手席の足元には犬用のバックパックが一つ置かれていた。シェパードがそれを引きずり出して担ぐと彼らは急いで車を離れた。ラミーの指示どおりの方向に半マイルほど進んだところで、車は爆発した。
ありがとうございました