白牡丹
連休を利用して、恋人の美香と当てのない旅をしていた。
それは、琵琶湖から京都に向かう途中だった。何かに導かれるように、その名も知らぬ小さな駅に降り立った。
辺鄙な駅前に不平を溢しながら、傍らでべそをかいている美香に、長閑な雰囲気と自然の美しさを美点に挙げて宥めた。
駅を出て、売店と宿を探していると、突然の豪雨に見舞われ、急いで近くにあった古びた一軒家の軒先に雨宿りした。
と、その時、
「あの……」
女の声が背後からして、咄嗟に振り向いた。
三十前後だろうか、明かりが漏れる硝子戸の隙間から、女が顔を出していた。
「良かったら、入っておくれやす」
女はそう言って、手招きした。
俺はホッとすると、笑みを浮かべている美香と目を合わせ、急いで家に入った。
「ありがとうございます」
透き通るように色の白い女に礼を言った。
「お邪魔します」
美香も続いた。
「濡れはったやろ? 今、手ぬぐい持ってきますよって」
女はそう言って、下駄を脱いだ。
古い家の中を見回すと、今どき見たことのない行灯が、淡い光を揺らしていた。
――いつの間に眠ってしまったのだろう……。目が覚めると、夏布団の中にいた。
六畳ほどの間取りであることを、襖の間から漏れる明かりが教えていた。
身を起こそうと、ふと、自分の体に触れて愕然とした。……全裸だったのだ。
どうして裸なのか、と朦朧とした頭で記憶を辿ってみたが、思い出せなかった。
あっ! 美香はどこだ?
「す、すいませーん!」
思い切り声を出した。
「はい」
女の声と共に襖が開いた。
「美香は?」
「はい。なんや怒られはって、先に帰りましたえ」
明かりを背後にした女の口許が、幽かに動いているのが見えた。
「帰った?……」
気分屋で気性が激しい美香の、プイッと怒ったいつもの顔が浮かび、納得がいった。
「あの……、なんで寝てたんですか? 俺」
「夕飯を済まされたあと、急に眠いと仰って」
「そうですか? 疲れてたのかな。……どうして裸に?」
「びしょ濡れやったさかい」
あっ、そうか! 確かにびしょ濡れだった。
どしゃ降りの雨と雷鳴が甦った。
自分で脱いだ記憶がないと言うことは、女に脱がされたことになる。
俺の中に妙な色気が芽生え、まともに女と目を合わすことができずにいると、
「風呂沸いてるさかい、入っておくれやす。あ、着替え持ってきますよってに。亡くなった主人のどすけど」
まるで、俺の心中を見透かすかのようにそう言って横を向いた女の顔は、楚々としていた。
湯から上がると、脱衣場に用意された作務衣を着た。その足で居間に行くと、酒を勧められ、嫌いじゃなかった俺は、言葉に甘えた。
「学生さんどすか?」
の、女が切った口火で、俺は大学の話やら、同じ大学の美香との馴れ初めなどをペラペラ喋った。
それは、酒が入っていたせいもあるが、大人の女の親しみ易さもあったに違いなかった。
酔いが回った頃。
「少し、蒸しますな」
女はそう言って、はだけた浴衣の衿を直すと、庭側の障子を開けた。
庭を見た途端、俺は目を見張った。
そこにあったのは、庭一面に咲き乱れる牡丹だった。
灯籠の淡い光に、その白さを際立てていた。
「……美しい」
俺は感嘆の声を漏らしていた。
「おおきに。丹精込めて育てたさかい、今年は特に綺麗に咲いたわ」
女はそう言いながら、団扇の風を俺の方に送っていた。
その風に合わせるかのように、牡丹に顔を向けている女の後れ毛が揺れていた。
俺は酩酊した目を、女の白い項に据えた。
そして、こっちを向いた女と目が合った。
俺の熱い視線に目を逸らして、女は俯いた。
羞じらうような素振りの女の腕を握った。
酔いに任せて、その火照った腕を引いた。
女の軆が傾いた。
傍に寄った女の、潤んだ唇に唇を重ねた。
震える女の背中が俺の指先にあった。
――女は俺の腕の中で、風に舞う牡丹の花弁のように、乱れ狂っていた。
女の熟れた肉体に溺れるのを、俺はアルコールで麻痺した脳で感じていた。
「……休みの間、ずっといて」
女の指先が俺の胸元をくすぐっていた。
一瞬、美香の顔がよぎったが、
「……いいの?」
女との快楽を選んだ。
「ぇぇ」
女は小さく返事をすると、俺の胸元にあった指先を、ゆっくりと腹の方に滑らせていた。
女は献身的だった。これまでに経験したことのない大人の女のもてなしに、俺の心は肉体と共に安らぎ、くつろいだ。
美香のことは気になったが、女との情交に耽溺していた。
それは、昨夜から降ったどしゃ降りの雨が止んだ翌日だった。女は買い物に出た。
庭を覗くと、雨粒をつけた牡丹がそよ風に揺れていた。
ふと、風に揺れる牡丹の葉先の間を見ると、何やら黒いものが土の中から出ていた。目を凝らすと、それは、
びっしょり濡れた髪に顔を覆った美香だった。――