2年目の記念日
――僕は今、彼女に胸倉を掴まれている。
「誠悟くん……あたしのことナメてるの?」
「ミサキちゃん、誤解だよ……」
何故こんな事になっているのか。
事の発端は3分前に遡る。
僕はミサキちゃんと買い物デートを楽しんでいた。
今日は付き合って2年目の記念日という事もあり、ミサキちゃんの思うままに買い物を進めていき、やがて閉店時間を回った。
そして僕達は店の外へ出ると、僕の目に一組の外人カップルが飛び込んだ。
見事な筋肉を纏うガタイの良い彼氏が、スタイルの良い女性を連れている。
絵に描いたような二人だが、問題はそこじゃない。
彼氏の着ているTシャツがあまりにも奇抜だったのだ。
Tシャツには“いい国作ろうキャバクラ幕府”とプリントされ、思わず僕はTシャツに書かれた光景を想像してしまった。
キャバクラでいい国を作る……いや、キャバクラ幕府という店名だろうか?
そんなくだらない妄想で暫し僕の足が止まる。
すると彼女は僕の視線の先を辿り、キッと僕を睨みつけた。
「誠悟くん! 今、あの女の人の事をじっと見てたでしょ?」
「えっ? み、見てないよ!」
「嘘よ! じゃあなんで立ち止まったの!」
「いや、それはキャバクラば……グフッ!」
「キャバクラぁ!? 誠悟くん……あたしのことナメてるの?」
彼女は僕の胸倉を勢いよく掴んだ。
――こうして冒頭に至るわけだ。
「ミサキちゃん、誤解だよ……」
「誤解じゃないわ! だってそうでしょう? あたしという完璧な彼女がありながら、それでも他の女に目移りするなんて……」
彼女の感情はヒートアップしていく。
こうなった彼女は手に負えない事を僕はよく知っている。
そんな事を考えている間にも、彼女の手は僕の首を徐々に締めていく。
「ミサキちゃん、きもい……」
「はぁ?」
「あっ……」
しまった! うっかり地元の方言が漏れてしまった。
僕の地元では、“きもい”とは辛い、苦しいという意味を指す。
彼女の怒りは最高潮に達し、僕は彼女に突き飛ばされた。
「痛ったー!」
抱えている荷物が崩れ、地面に散らばる。
その音に周囲の人々が気付き、僕達に冷やかな視線が突き刺さっていく。
だが、彼女は周りが見えていないようで、顔を痙攣らせながら、尻餅をついた僕を見下す。
「誠悟くん、立ちなさい……」
「えっ?」
「いいから立ちなさい……」
「う、うん……」
僕はゆっくりと立ち上がると、恐る恐る彼女へ視線を向ける。
「ミサキちゃん……」
「誠悟くん……パシッ!!」
彼女と目が合った瞬間、僕は頬を平手でビンタされた。
「大間くん、さようなら!!」
彼女は地面に散らばった荷物を纏めると、足早に立ち去ってしまう。
僕は頬を抑えながら、唖然とした表情で再び尻餅をつく。
暫しの時が経ち、半ば放心状態になりながら静かに立ち上がると、行き交う人々の冷たい視線に晒されながら、トボトボと当ても無く歩き出した。
どのくらい街を彷徨っただろうか。
気がつくと、腹がグウと鳴り出した。
ただ歩いていても仕方がない。
少しでも気分を紛らわす為に食事を摂ることにしよう。
辺りを見回すと、一件の寿司屋が目に入った。
どうやら他に飲食店は無い。
高級そうな寿司屋だが、そんな事を気にする余裕など今の僕には無かった。
寿司屋へ入ろうと歩を進めると、店内から掛けられた“営業中”の札が“準備中へと返されてしまった。
僕は慌てて店の引き戸を開ける。
「すいません! まだ空いてますか!?」
店内へ飛び込むと、“私服姿で20代中盤の男性店員”が、カウンターに立つ“調理服姿で二十歳くらいの女性店員”へ向け視線を送った。
女性店員の隣には、一点を見つめて微動だにしない40代くらいの“調理服を着た男性店員”が立っている。
店内にはこの三人しかおらず、閉店を迎えた店内に僕の存在はとても異質なものに思えた。
男性店員は静かに首を横に振ると口を開く。
「お客さん、ごめんね。今日終わりなんだよ……」
やっぱりダメだった。
僕はガックリと肩を落とし退店しようとする。
その時、思わず心の声が漏れ出てしまう。
「そう……ですか……彼女に振られ、夕飯も食べそびれ、今日はついてないなぁ、はぁ……」
すると、背後から20代の男性店員の声がする。
「あー、わかった。今日は特別だ、入ってくれ!」
彼女に振られ精神的にボロボロだった僕には、男性店員の言葉が大きな励みになった。
そして気分の高揚と共に踵を返す。
「わぁ! ありがとうございます!」
店内へ進むとカウンターへ着席し、ふぅと溜息を吐く。
ふと視線を左へ向けると、巨大な水槽に様々な種類の魚が泳いでいた。
魚たちは僕を励ましてくれているように思え、徐々に気持ちが落ち着いてきた。
暫く水槽を眺めていると、突然イカの動きがピタリと止まる。
怪訝に思いイカを凝視していると、イカは勢いよく墨を噴きながら水槽の外へと飛び出した。
僕は目を丸くしながらその動きを目で追うと、イカは放物線を描きながら調理服の男性店員の前に置かれた俎板へと綺麗に着地した。
「イカが……飛んだ!?」
すると調理服の男性店員は全く動じる事なくイカを捌き始める。
見事な手付きでイカを捌き終えると、直後に水槽からバシャリと水音が聞こえてきた。
咄嗟に左へ視線を向けると、今度はイワシが俎板へ向け放物線を描いていた。
「イワシ!?」
驚愕のあまりこれ以上の言葉が出てこなかった。
魚が自ら捌かれに行くこの光景は異常だ。
しかし、そんな僕の反応を余所に調理服の男性店員は黙々とイワシを捌いていく。
やがてイワシがショーケースへ並ぶと、再び水槽から水音が響く。
見上げれば、今度は秋刀魚が天井付近を滑空していた。
「サンマ!? こ、こんな事って……」
秋刀魚は綺麗に俎板へ着地すると、調理服の男性店員によって首が切り落とされ、暴れる事なく刺身にされてしまう。
手際の良い包丁捌きに見惚れていると、気付けばカウンターには寿司下駄に盛られた握りがズラリと並んでいた。
ふと壁に視線を向けると、壁に貼られた全てのネタに“時価”と記されている。
僕は顔を青くして焦った。
何故なら今日は買い物の後にミサキちゃんとディナーに行く予定だったのだ。
最悪な事に昨今の無断キャンセルの対策として、予約時に先払いをしなければならないと言われ、渋々支払いを終えていた。
その為、今の僕は懐がとても寂しい。
こんなに出されても……と、拒もうと思ったが、時既にお寿司。
調理服の男性店員の手が止まり、調理の終了を示唆していた。
これだけの寿司を前に、一体いくらになるのか?
状況を理解するに連れて、背中への悪寒が増す。
「どうしたんだよお客さん、浮かない顔して……」
僕の顔色を察したのか、私服の男性店員が声を掛けてきた。
思わず本音が溢れてしまう。
「いや、お金足りるかなって……」
すると、私服の男性店員は僕の肩を叩くと静かに微笑んだ。
「お客さん、今日はサービスだ。どれだけ食っても千円でいいよ!」
千円という怪しい価格設定に疑問を持ち、私服の男性店員へ念を押す。
「ええっ!? あの……後から10万円とか言われても、僕、お金無いですよ……」
だが、私服の男性店員は苦笑しつつ首を横に振る。
「そんなぼったくりバーみたいな事はしないから安心しなって。さぁ、好きなだけ食いな!」
その言葉を鵜呑みにするべきか迷ったが、もしも高額な費用を請求されたら逃げれば良いし、店内の様子からは、ぼったくられそうな空気は感じられなかった。
どういう風の吹き回しか知らないが、暫し考えた後、お言葉に甘える事にした。
微かに動くゲソを見つめながら、マグロ一貫を箸で掴む。
そしてネタに醤油を軽く浸すと、口の中へ運び静かに咀嚼した。
すると、口腔内に衝撃が走る!
歯で噛むよりも前に、舌で触れた時からマグロが崩れ始めたのだ。
さらに赤身の旨味や風味も漂ってくる。
赤身特有の鉄の様な臭みは一切無く、素直な旨味のみが鼻腔を通り抜けた。
味、匂い、食感の三拍子揃った完璧な寿司だ。
あまりに美味い寿司に自然と涙が溢れる。
「んー! うまーい!!」
気付けば無心で寿司を頬張り、舌、鼻、喉で目の前に出された芸術品を堪能していた。
そして名残惜しく最後の一貫を嚥下すると、最高のディナーが終焉を迎える。
暫く食休みをした後ゆっくりと席を立つと、恐る恐るレジへと向かった。
「お会計お願いします!」
暖簾の奥に設置されたレジに疑問を抱きつつ、レジの前に立つと女性の店員がレジを打ち始める。
液晶には千円と表示され、僕は安堵の溜息を吐き千円を支払った。
直後、頭からひんやりとした感覚が走る。
「ごちそうさん」
私服の男性店員の声が聞こえると、数瞬後、今度は温かいような何かに襲われる。
訝しみつつ振り返ると、私服の男性店員が僕の背後に立っていた。
何かの聞き間違いだろうか?
僕は首を傾げながら私服の男性店員へお礼を言う。
「ごちそうさん? こちらこそ、ご馳走さまです!」
そして軽く頭を下げると、笑顔で店を後にした。
今思えば怪しい寿司屋だったけど、味は死ぬほど美味しかった。
そんな事を考えていると、ポケットのスマホが鳴り出す。
ミサキちゃんからの着信だ。
「……もしもしミサキちゃん?」
「あの……」
ミサキちゃんは弱々しい声で言い淀んでいる。
こういう時は自身の非を認めつつも口には出せないといういつものパターンだ。
「ミサキちゃん、僕が悪かったよ」
「誠悟くん、あたし……」
「今から、ミサキちゃんの家に行って良いかな?」
「うん……いいよ」
「そうだ、良いお寿司屋さんを見つけたんだ! 今度ミサキちゃんを連れてってあげるよ!」
「ほんと!? 行きたい!!」
「じゃあ後で詳しく教えてあげるよ!」
「うん、わかった! 待ってるね!」
色々あったけど、何とか丸く収まりそうだ。
鈴木と書かれた部屋の扉をそっと開ける。
すると中ではミサキちゃんが俯きながら申し訳無さそうに立っていた。
「誠悟くん……」
「わかってる。ミサキちゃん、ごめんね……」
僕はそっとミサキちゃんを抱きしめると、ミサキちゃんは僕の胸に顔を埋める。
暫くして、ソファーでミサキちゃんと別れてからの話をすると、ミサキちゃんは興味津々で僕の話を聞いてくれた。
懐は寒くなってしまったけど、心は暖かい記念日となり、そしてこの先もミサキちゃんと居れたら良いなと思いながら、ミサキちゃんとアツい2年目の夜を楽しんだ。