其の弐 ~the birth of...~
「お、落ち着いたかい? さっきは一体どうしたというんだ、サーニャ」
姿見を見て叫びながらその場にへたり込んだ俺に、父親は驚きながらも水を一杯持ってきてくれた。
「……はい、もう大丈夫です。怖い夢を見て、気が動転していただけです」
ということにしておこう。
しかしこの状況、何が起こったというのか?
家のソファで寝て、起きたら見知らぬ女の子になっていた。名前や顔付きからして日本人ではないようだし……。
「……昨日のことが、原因かい?」
「え?」
「今日はサーニャの十歳の誕生日だ。だから、誕生日プレゼントに魔導書をあげようと言ったら、サーニャは泣きながら自室に籠ってしまった」
そんなことがあったのか。
「魔術に興味を抱いているようだったから、喜んでもらえると思っていたのだが……本当は他に欲しいものがあったんじゃないか?」
うーん、そうは言われてもなぁ……と頭を捻る。
どれだけ思い出そうとしてもサーニャとしての記憶はさっき目を覚ましてからのものしか出てこない。
ましてや今の俺が欲しいと望むものは現状の説明くらいで、それを父親に求めるわけにもいかない。
どうするべきか、と思案していると
「……パパは、畑仕事に行ってくるよ。言いたくなったら、いつでもおいで」
そう言うと、優しく微笑んだ父親は、俺の頭を軽く撫でて部屋を後にした。
ジーン、と胸の奥が熱くなる。
産まれてこの方、家族以外に優しくされた覚えのないが故に、『他人』から受ける優しさ、愛情に滅法弱い。
思わず、体が動く。パパを追い部屋を飛び出す。
「待って、パパ!」
廊下の奥、吹き抜け階段を降りようとしていたパパへと叫ぶ。
「誕生日プレゼント、魔導書でいい……ううん、魔導書がいい!」
パパは目元に新たな涙を浮かべながら、顔を綻ばせる。
「良いのかい? 他に欲しいものがあったんじゃないのかい?」
確かに、さっきの話からして私には別の欲しいものがあったのかもしれない。
しかし、その情報が欠如している今、俺がやるべきは、私と家族の関係を良好に保つことだ。
「うん……でも良いの。パパが私のことを考えて、魔導書を選んでくれたんだもの。それだけで十分嬉しいの! 昨日は心配かけてごめんなさい」
「サーニャ……」
父は堪えきれなくなった涙を頬に伝わせながら、一言「ありがとうな」とつぶやき階下へ消えていった。
「パパ、か」
一度部屋に戻った俺は――
「ああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
枕に顔を埋め叫んでいた。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!
二十歳過ぎの男がパパと呼ぶなんて普通なら気持ち悪い以外何もない!
「このまま、元に戻れないのだとしたら……女の子らしい振舞いに慣れないといけないのか……?」
ふと、可能性が頭を過る。
今俺が見ているものは、夢なのではないか?
ここまでリアルに感じる夢があるのかは知らないが、ナルコレプシーになったことが関係して見ている夢かもしれない。
しかし、それを確認する手段なんて……。
解決策を求め部屋中を彷徨っていた視線が、
自身の身体で止まる――
いやいやいやいや、そんなこと許されるはずが無いだろ!
確かに、この身体には俺には無いものが有って、有るものが無いわけだから、これが夢なら触った感触や感覚がフィードバックされるはずはないわけで、だけど、しかし、客観的に見れば非モテを極めた成人男性が十歳の幼気な少女を弄んでいるようにしか見えない行為であって、でもそれを理解しているのは俺だけな訳で――
頭の中で天使と悪魔の激しい攻防が繰り広げられ、動悸が激しくなり、理性の壁が段々と崩れ去っていく。
……どちらにしろ、夢か現か確認しないといけないんだ。
そう、これは不可抗力だ、確認するため仕方のないことなんだ。
決して好奇心に負けてしまった訳ではない!
詭弁を積み重ね、自身に言い聞かせていく。
頭の中がぐるぐる回り、平衡感覚が歪む中、ゆっくりと、震える手を伸ばしていく。
得も言われぬ罪悪感が込み上げてくる。
「……ご、ごめんなさっ」
届くはずのない謝罪の言葉と共に指を――
「――っ!?」
軽く触れただけで全身にビリビリと強烈な電流を流されたような感覚に、声にならない悲鳴をあげてしまう。
「はぁはぁっ、はぁ……」
荒くなった呼吸を必死に整え、乱れた思考を正常へと引き戻す。
「これは、駄目だな……」
全身が汗ばんでいる。
一瞬でこんなに強い衝撃を食らう行為、心臓に悪い。
今後は控えなくては。
「しかし、これで確定か」
夢乃出流がどうなったのか、何が起こったのかは未だ見当も付かないが、少なくとも夢ではなさそうだ。
ベッドから天井を見上げつつ、今後について思案に暮れる。
仮に元の世界へ戻れるとして、戻っても仕事を辞めて、しばらく療養生活。
生活保護の申請をしたら、ダラダラ無為に生きていくだけ……。
申請しない場合、親に助けを求めることになり迷惑が掛かる。
しっかり療養できるまで仕事探しも儘ならない上に俺の経歴だ、まともな所に就けるかも怪しい。
またブラックに、となれば療養の意味も無くなる……。
「……はぁ」
考えていてだんだん虚しくなってくる。
それならばいっそ、このまま少女として新たな人生を歩んだほうが良いのでは――
ぐうぅぅ~。
……徐に時計を見ると、起きてから彼此四十分経過していた。
「こんなに時間が経っていたのか。そりゃ腹の虫も鳴くわけだ」
起き上がり部屋を出ると、階下から良い匂いが漂ってくる。
「まずは腹ごしらえを済ませよう。情報収集はその後だ」