季節も人も巡ります。
のんびりと田舎の夏休みを過ごすつもりが、思いがけず騒がしくなってしまい、気付けば夏も終わろうとしていた。
おかげで、ずっと逃げ続けていた思い出と向き合うことができた。まだ受け止め切れたとは、とても言えない。けれど少なくともちゃんと向き合うことができた。
それをさせてくれた少女、碧子。
彼女は二度、ぼくを救い上げてくれた。
一度目はぼくの命を。二度目はぼくの心を。
その結果生き延びたぼくがこの先どう生きるかは、ぼくの問題になる。
だけど、もう一度二人に会った時、笑顔で胸を張って会いたい。そう思った。そしたらきっと二人とも喜んでくれる。
別にものすごい偉業を成し遂げるとか、そんなことではない。ただ、ちゃんと生きて、出会った人と一緒に過ごし、思い出を積み重ねていく。それは自分一人でできることではなかった。関わる人と、きちんと向き合わなくてはならない。
毎日毎日、ひとりひとり。きっとぼくは自分一人で生きているのではなくて、周りの人が生かしてくれている。めぐ姉がそうしてくれたように。碧子がそうしてくれたように。
その人たちとちゃんと向き合って、歩いていこう。
そう思えたから、夏休みが明けて香奈と会った時、「おはよう」って笑って声をかけることができた。
香奈はちょっと戸惑っていたけど、「おはよう」って返事してくれた。
これからぼくらがどうなっていくのか、まだわからない。けど、どうなったとしても、それは思い出になる。忘れることなく、積み重ねていくものになる。
+ + + + +
冬。ぼくはスキーに来ていた。
田舎の家はスキー場にほど近く、子供の頃からそこを宿泊地にさせてもらってはスキー場に繰り出していた。けれど、今年ほど長くいたことはないかも知れない。
昼間はスキー場で滑り倒し――ばあちゃんがおにぎりを持たせてくれた。これでお金もほとんどかからない――夜に帰ってきて寝て、翌日また出かける。そんな生活をしていた。
ある日、ひと通り滑ってひと息つこうとロッジに戻った時のこと。
ぼくはストーブの回りが不自然に濡れていることに気がついた。
(なんだろう?)
何故か気になってぼくはしゃがみ込んだ。ストーブ回りの敷物に手を触れてみる。
かなり濡れていた。まるでバケツの水でもこぼしたみたいだ。
辺りを手で触れて回っていると、何かが手に当たった。ごくごく小さなものだ。
例えば氷の欠片のような。
(まさか……?)
それを両手に持ってぼくは外に出た。
ロッジの外は寒い。あたりには山ほどの雪。言うまでもないが今は冬だ。
雪の上に氷の欠片を転がした。自分の身体をさぐって見つけた安全ピンで小指を突き、氷の欠片に血を落とす。
そして待つことしばし。
「……ふにゃあ。助かりましたあ」
(やっぱり)
「おまえ、こんなところで何やってんだ?」
そこには数か月前に別れを告げた雪女、碧子がいた。
裸のまま、雪の上に座り込んでいる。ぼくは目のやり場に困った。服はどうした?
「いやあ、コウくんいるかな~って待ってたんですけど、ストーブの前でうっかり眠りこけちゃって、溶けちゃったんですよう。服は片づけられちゃったみたいですね」
……あほか。
さすがに人目もある。ぼくは急いで自分のウェアを脱いで碧子に着せた。
「おまえなあ。少しは命の危険を感じろよな」
半ば呆れ、半ば叱るように、ぼくは言った。
「たまたまぼくが見つけたからいいようなものの、見つけてもらえなかったらどうするつもりだったんだ?」
「えへへ。大丈夫ですう。コウくんがきっと見つけてくれるって信じてましたからあ」
にこにこ笑っている碧子の能天気さに、ぼくは額に手を当ててしゃがみこんだ。ものすごく虚しい気分だ。こんな奴に少しでも敬意を抱いたことが、自分の人生最大の間違いであるような気がしてくる。
「だいたいおまえ、大人の雪女になるって言ってたじゃないか。それはどうしたんだよ?」
雪女の成体になると記憶もなくなる。まったく別の固体に生まれ変わると言っていたのに。
今の碧子は、前とちっとも変わらない。見た目もそのままだし、中身のポンコツさ加減もまったく改善されていない。
「ええと、それがですね」
碧子はちょっと困ったような表情になる。
「成体になりそこなっちゃいまして」
「はあ? なんで?」
碧子は言いにくそうだ。
「実はですね。雪女が再生するのに、人の血は必ずしも必要じゃないそうなんですよ。だけど前に再生する時にコウくんの血をもらったじゃないですか。人の血が混じったことで、あたしは半妖、純粋な雪女じゃなくなっちゃったんです」
「…………」
「もう大人の雪女になれないそうなんてすよ。それで郷を追い出されてしまって……。あの、怒ってます?」
「いや」
今の話が本当なら、責任の一端はぼくにある。文句を言える筋合いじゃない。
けど、何だろう、この半端ない残念感というか、やり切れない気持ちは?
元はと言えば、おまえのドジが招いた結果だろうと言ってやりたかった。
しかし問題はそればかりじゃない。
「事情はだいたいわかったけど……。それで、これからどうするんだ?」
もう雪女にはなれない。
かと言って人間でもない。
行くあてのない碧子はどうするつもりなのか。
「そう、それでコウくんですよ。
碧子がお嫁に行けない身体になってしまったのは、コウくんの血のおかげなのです。なのでコウくんにも責任の一端はあるのです」
「表現が不穏当なうえに正しくない。訂正を要求する」
嫁うんぬんは、どこから出て来た?
つっけんどんに言い放ってはみたが、碧子の言い分にも一理あることは認めざるを得なかった。
郷を追い出されたという碧子は今、寄る辺ない身の上だ。
「そんな、照れなくてもいいですよう。もう幾度も熱い夜を過ごした仲じゃないですかあ」
びしっ。
「いった~い!」
「おまえ今の絶対『言ってみたかっただけ』だろ?」
妙になじんだデコピン。
……、いかん、なにかよからぬ性癖に走りかねない危うさを感じてしまう。
とは言え、このまま放置して帰るわけにもいかない。
碧子が気の毒、というより、こやつの世話を押し付けられる人が憐れでならないからだった。
「とりあえずばあちゃんに、飼っていいか訊いてみる」
「ひどっ! あたしは犬猫扱いですか!?」
ぼくの中では、犬猫以下の扱いだけどな。
なかば涙目の碧子を見やって、ぼくはため息をついた。
冷酷にして妖艶、はかなくも毅然とした、気品あふれる妖、雪女。
ミステリアスなそのイメージを、碧子は粉々に打ち砕いてくれた。
このやり場のない怒りを、どうしてくれよう?
+ + + + +
「ばあちゃん、ただいま」
「お帰りなさ……あら、碧子ちゃん?」
「はい、ただいまなのです」
「お帰りなさい。ご飯できてるわよ。食べるでしょ?」
「わーい」
ちょっとばあちゃん! 適応力高すぎ! 少しは事情を確認するとかしないの?
「まあまあ、話はご飯食べてからでいいでしょ? 後でお父さんとお母さんに連れて帰っていいか相談するにしても」
「って、ぼくが連れて帰るの、これ?」
「こんな田舎で年寄と暮らすより、若い人のいる都会に一緒にいた方がいいでしょ」
「うーん……」
そういう問題なのだろうか?
「ばあちゃん、簡単に言うけど、犬猫じゃないぞ」
「ひど! いつも犬猫扱いですか?」
抗議する碧子をよそに、ばあちゃんも動じない。
「じゃ、責任もって大人になるまで面倒見てあげてね。あ、大人になるまで手を出しちゃだめよ」
「ちょっとばあちゃん!」
「わーい。ふつつか者ですがよろしくお願いします」
碧子は畳に手をついてぴょこんと頭を下げた。
「却下」
「なぜっ!?」
「うちじゃペットは飼えません」
「ペットじゃないです。雪女ですってば」
「やれやれ……」
「ふふ」
ばあちゃんが楽しそうに笑っている。
「なに?」
「コウくん、やっぱり碧子ちゃんといる時の方がいい顔してるわよ」
「そう?」
気づかなかった。
「明るい顔してるわよ。だから碧子ちゃんと一緒にいなさい。
碧子ちゃん、コウくんをよろしくお願いするわね」
「はい、お願いされました!」
自分の知らないところで、話がどんどん進んでいる気がする。
「それと、せっかくだから帰る前に二人でお墓参り、してらっしゃいな」
「お墓参り……って、誰の?」
「恵美ちゃんの」
息が止まるかと思った。
思わずぼくは、ばあちゃんを見返した。
もしかしてばあちゃんは、全て知っているのだろうか。
+ + + + +
うっすらと雪が積もる、寒々しい墓地。
ほかに人がいない敷地の一角、墓石の前に、ぼくと碧子は並んで立っていた。
「どうだ? 自分の墓を眺める気分というのは?」
「う~ん、別に」
「なんだ、張り合いのない」
「お墓は死んだ人のためじゃなくて、生きている人のためにあるのです。生きて遺された人は悲しみを思い出に変えていくんです。長い時間をかけて。自分で」
「……おまえ、たまにいい事言うな」
「渾身の決めゼリフが台なしです。リテークを要求するです」
ぼくはまだ自分の悲しみを思い出にできていない。きっとまだまだかかる。もしかすると一生かかってもできないかも知れない。
でも、悲しみだけじゃない。
ぼくは知っている。
この墓の中に、めぐ姉はいない。めぐ姉の魂は今、生きてぼくの隣に立っている。
ぼくは「今、生きてある人」と、新しい思い出を作っていかなくちゃならない。
碧子がぼくの手を握った。雪女だから、ひんやりする。
でもその奥に、ほんのりとしたぬくもりを感じた。
「おまえさ、もしかしてさっきので更に人間ぽくなってない?」
ぼくの血が追加されて、より人間に近づいている?
「も一回溶かして固めたら、ちゃんとした人間になるとか?」
「なんか、いろいろひどいです。あたしはアイスクリームか何かですか?」
ふくれっ面の碧子。その様子が可愛らしくて、思わず頭をなでる。
それでもややご機嫌ななめなのは、犬猫扱いするなということらしい。
「でももしちゃんとした人間になれたら、コウくん、責任取って下さい」
「責任て?」
「人間になったのはコウくんのせいなのですから、責任取ってちゃんとお嫁にもらってくれないと駄目なのです」
「嫁の前にまっとうな人間になろうな。もう少しポンコツじゃなくなったら考える」
「む~、ひどいです」
ぼくは墓に向き直った。
――ありがとう、めぐ姉。
めぐ姉の思い出はここに置いていくよ。
忘れられるわけないけど、でも立ち止まってはいけないから。
これから碧子と、新しい思い出を作っていくよ。
でもきっとまた、思い出してしまうと思う。足を取られて立ちすくむと思う。その時は――。
つんつん、と、碧子が手を引っぱる。
「なに?」
「コウくん、いい顔してますよ」
「そうかな?」
「そうですよ」
碧子はにかっと笑って、
「恵美も嬉しいです」
雪女なのに、夏の陽射しを感じさせる笑顔だった。
きたる夏の日を。