ひと夏の思い出です。
「花火、はっなっびー。楽しみなのですう」
「おまえなあ……」
あんな大立ち回りを演じた後だと言うのに、碧子はちっとも堪えた様子もない。
ばあちゃんに髪を結い上げてもらい、落ち着いた青い柄の浴衣を着た碧子はとても大人びて見えたのに、子供っぽい言動がそれを台なしにしていた。
まあ、それも碧子か。
興味津々で屋台をのぞいたり、かと思うと駆け寄ってきてぼくにぶら下がったり。本当に楽しそうだ。
今宵の目玉である打ち上げ花火はなかなかの規模であるらしく、周辺の街からもたくさんの人が見物に来ていた。普段は淋しい町の人口が、五倍、いや十倍? 今日ばかりは別の町みたいだ。
見物客はどんどん増えて、人とぶつからずに歩くのが難しくなってきた。
「碧子。こっち」
「? なんですか?」
「手、つないで」
「あら、コウくんたら甘えんぼさんなのです」
「たわけ者。おまえが迷子になるからだ」
こいつときたら、犬っころと変わらない。リードを一瞬でも放したら即ロストすること疑いない。
「うみゅ~やっぱり犬猫扱いですか。恋人モードはないのですか?」
「おまえが大人になったらな」
そうは言いながらも、嬉しくないかと訊かれればそんなこともない。
萌葱さんとあづささんには申し訳ないけれど、こうして碧子といるのは楽しかった。
もちろん、ぼくの心の片すみには消えない傷があって、今も生々しく血を流している。
痛い。つらい。それに、申し訳ない。
こんなところで、のほほんと生き延びているのがつらい。
「コウくん。つらいときは、つらいって言っていいんですよ」
ぼくより小さいはずの碧子に、ふわりと包まれた気がした。
「我慢して我慢して、自分を責めなくていいんですよ。もっと自分のために生きていいんです。あたしのことなんか忘れて、あ、でもすっかり忘れられちゃうと淋しいかな」
えへへと碧子は笑って、
「コウくんの思い出に残れば……いい思い出だったなって思ってもらえれば、嬉しいです。
それでそれで、碧子との思い出もたくさん作ってもらえたら、嬉しいかな」
ああ、そうだった。
今ここにいるのは、碧子。
めぐ姉のことばかりで、碧子をないがしろにするのは、失礼だ。
「あっ! 上がった!」
碧子が空を指さした。
その先の暗闇に、ぱっと大輪の光の華が咲く。
一拍遅れて、腹に響く轟音。群衆がどよめいた。
「すごいすごい! あっ、また上がった!」
ふたたび轟音。
「きゃー! すごい音!」
大喜びの碧子。花火に負けないくらい輝く笑顔だ。
「碧子」
「なんですか?」
「……楽しいか?」
「はい! とっても!」
きゅっと手を握りなおして、
「コウくんと一緒だから」
嬉しそうな碧子を見て、
「そうか」
よかった。
こんなぼくでも、きみのいい思い出になれるんだ。
+ + + + +
ぼくらは手をつないで、花火に見入っていた。
ただ立って、花火を見ていただけ。とても緩やかな、贅沢な時間だった。
でも楽しい時間にも、いつか終わりが来る。
淋しいな……。初めてぼくは、そう感じた。
「はああ。すごかったですねえ。楽しかったです」
「ふふっ」
ぼくは思わず、碧子の頭をなでた。
碧子は黙って頭をなでられながら、
「コウくんと一緒に花火が見られてよかったです。これで心置きなく郷に帰れます」
「…………え?」
今、なんて?
「雪女はある程度の区切りで、幼生から成体に生まれ変わります。あたしはこれから、そのための山籠もりに入るんです」
「生まれ変わるって……?」
足もとの地面が突然なくなった気がした。立っていられなくなって、碧子にしがみつくように寄りかかる。
そのぼくを、碧子は意外としっかりした力で支えてくれた。
「今年の冬には、成体に生まれ変わって一人前の雪女になります。碧子の記憶も、もちろん恵美の記憶も、ほとんどなくなります。性格も変わるみたいです」
「そんな……」
それじゃあ。
ぼくのことも忘れてしまうのか。
一緒にはらはらしたことも。楽しかったことも。
なにもかも。
「心配いりませんよ」
碧子は笑って言う。
「コウくんのことは忘れません。ほんとは忘れてしまうかもだけど、でも今日の思い出は消えませんよ。それで充分です」
静かな微笑み。大人びていて、それでいて少し淋しそうな。
なんで……。せっかく生まれ変わることができたのに。
またぼくを置き去りに、行ってしまうのか。
きみは本当にそれでいいのか?
言えなかった。
その淋しそうな笑顔に、かける言葉なんか、なかった
我知らず、涙が流れた。碧子と会ってから、泣いてばかりだ。
「ふふ、コウくん。泣かないで。いい子いい子です」
碧子は笑いながら、ぼくをあやしてくれた。いつもみたいに。
いつもめぐ姉がしてくれていたみたいに。
「コウくんと一緒に居られて、碧子は幸せでした。
そしてコウくんと一緒に居られて、恵美も幸せでした。
その思い出は、消えません」
それはむしろ、自分自身に言い聞かせているみたいだった。
「碧子……、おまえ、大人だな」
「ふふん、これでもお姉さんだったんですよ、昔は」
碧子は少し自慢げだった。
祭りのあとの、人が去って行く道々。照明だけが残って、淋しさをかみしめる。
でもそれは決して悲しいだけではなくて。
ああ、これが余韻というのか。
いつかぼくも、時が過ぎるのを楽しめるようになれればいいな。
+ + + + +
「まったく。手を焼かせてくれたわね」
碧子が素直に戻ると言ったので、萌葱さんもそれほど怒ってはいなかった。
氷室の中で、雪女は完全復活していた。残念ながら(?)裸ということはなく、伝統的とも言える白い着物をまとっていた。冷気のバリエーションでその位はできるみたいだ。
「じゃあコウくん。元気で」
振り返る碧子に、ぼくはなんと言っていいか分からなかった。
胸が痛い。また堪え難い別れを経験しなければならないのか。
ぼくはこの辛さを乗り越えられるのだろうか。
「コウくん。ひとつお願いがあるんです」
碧子がぼくの手を取って言う。
「?」
「あたしもいい思い出がほしいです。だから最後は笑ってお別れしませんか? あたしは死んじゃうわけじゃなくて、生まれ変わるんですから。あたしの門出を祝福して下さい」
笑顔を向ける碧子の目の隅に、涙がにじんでいた。
なんだ、自分だって泣いてるじゃないか。
「わかったよ。うまく笑えるかどうか、わからないけど」
碧子は泣き笑いで頷いた。
「それでは、コウくん。碧子は立派な雪女に生まれ変わります」
「またドジ踏んで溶けるなよ」
「はい」
泣き笑いの雪女の幼生の笑顔は、可愛らしかった。
お騒がせな雪女は、姉さまたちに連れられ、去って行った。
+ + + + +
ぼくはとぼとぼと、一人家路についた。
「ただいま」
「おかえりなさい……あら、碧子ちゃんは?」
「郷に帰った」
「そう……」
ばあちゃんはそれ以上何も言わなかった。
一人で部屋に引き取り、布団にもぐり込んだ。そして、泣いた。声を押し殺して。
胸が張り裂けるかと思った。息をするのも苦しかった。香奈と別れたときでさえ、こんなにつらくはなかった。
思い出した心の傷。めぐ姉を失ったときに出来た傷。
そして今、碧子を失ったことで出来た傷。
つらい。本当につらい。
とても堪えられると思えなかった。これがいい思い出になるなんて、信じられなかった。
(お願いだ)
ぼくを一人にしないで。
気がついたときは、朝だった。
枕元を見やる。当然のことながら、碧子はいなかった。
寝返りを打って、ため息をひとつ。ずいぶんと泣いたおかげか、心がすこし軽くなった気がした。
(結局、なんだったんだろうな)
自分の都合でばたばたと押しかけて、ばたばたと去って行った自称雪女。
ほんとに何しに来たんだろう? 花火を見に来ただけか?
そう思ったら、なんだか急に可笑しくなった。ぼくが泣いていようと笑っていようと碧子には全然関係なくて、あいつはあいつの好きなように生きていて。
そしていつも笑っていた。
ある時は本当に楽しそうに。
ある時は優しく労るように。
そう、いつも笑っていたのだ。たとえ自分が死んだという記憶を持っていたとしても、笑っていたのだ。
自分が一度死んでしまったという記憶は決して嬉しいものじゃないと思う。むしろつらいだろう。心残りもあっただろう。でも碧子は笑っていた。つらいとか、悲しいなんて言わなかった。それは忘れたわけではなくて、きっとそれを受け止めたうえで、前を見て生きようとしていたんだと思う。
かなわないな。
ぼくは素直にそう思った。
あんなポンコツに負けるなんて。でも悔しいとは思わなかった。自分にできるかどうか分からなかったけど、ぼくもそうなりたい。
そしたら、次にどこかでめぐ姉に会えた時、碧子に会えた時、胸を張って会える気がする。