雪女のお姉さまです。
「おはようございますっ! コウくん!」
「……って、おまえはまた人の寝床にもぐり込んでっ!」
きゃあきゃあ言いながら飛び出していく碧子を、ため息で見送る。
お年頃の乙女じゃないのか、おまえは?
雪女の年齢をはかるのは馬鹿々々しいかも知れないけど、それでもそういうお年頃っぽさはないのか?
……ないな。
ぼくは頭を振った。
なにしろ昨夜も懲りずに溶けかけてるし。
それでもって、ぼくに裸を見られてるし。
「おはよ。ばあちゃん」
「あら、おはよう。顔洗った?」
今日もじいちゃんばあちゃんと囲む食卓。その席に当たり前のようにいる碧子。
ずっと昔からいる従姉妹みたいな存在。ゆるゆると流れる普通の時間。
ここでの時間は長いこと途切れていたはずなのに。
……途切れたのは、いつからだっけ?
「コウくん。ご飯食べたら遊びに行きます!」
「ああ。気をつけて行ってこいよ」
「コウくんも一緒です!」
「だめ。まず宿題」
「え~~~」
たちまちふくれっ面の碧子。
人間様はいろいろ、憂き世でやらなきゃならいことが多いんだよ。
ぼくは横眼でちらっとばあちゃんを見る。
「それじゃあ碧子ちゃん、その間に浴衣合わせてみようか? 花火の時に着て行くでしょ?」
ばあちゃんが上手いこと合いの手を入れてくれた。
「わあい、浴衣っ!」
ちょろい。
+ + + + +
「これ、かぶってろ」
「ふみゅ」
碧子の頭に帽子をかぶせた。大きなつばの麦わら帽子だ。中には保冷材が入っている。
上に着せたパーカーにも、ポケットや裏地のひだの間に保冷材がいくつも仕込んである。午前の陽射しはすでに凶悪な暑さだけど、これならそう簡単には溶けないだろ。
「あ~、とっても気持ちいいですう」
碧子は麦わら帽子のつばを押さえて、踊るようにくるりと一回転。相変わらずテンション高いな。
ぼくらは川へ向かって歩いていた。
大きな川じゃない。小川だ。だけど河川敷や周辺が開けていて、そこで花火が上げられる予定になっている。
「花火、花火~。あさってですよね? 楽しみだなあ」
碧子は本当に嬉しそうだ。
「そんなに珍しいの?」
ぼくが訊くと、碧子は「ん~」と人さし指をあごに当てて、
「長い間の約束ですから」
謎めいた笑みを浮かべる。約束? なんの?
開けた道を曲がると、かすかに水音が聞こえた。その先に人が二人、佇んでいる。
その人を見たとたん、碧子は急に動きを止め、急いでぼくの後ろに隠れた。
「? どうした?」
「う~~~」
唸ったまま、碧子は動こうとしない。
そのうち、二人組の方から近づいてきた。
二人とも女性。
ひとりは茶髪の、眼の大きなひと。ノースリーブのブラウスにミニスカート、ヒールの高いサンダル。オトナの女性の魅力全開な人だ。
その少し後ろから、白と水色のワンピースの、長い黒髪の女性がついてくる。こちらは年上のお姉さん、という感じ。
ぼくにとってはどちらも年上に違いなさそうだ。そしてどちらも、この土地の人じゃなかった。
この町の全員が知り合いというわけではないけれど、知らない顔というのは何となくわかる。
その二人が真っ直ぐぼくらを見据えて近づいてくる。ぼくの知り合いじゃないと思う。とすれば碧子の知り合い。だけどその意味するところは。
「こんなところで、何やってんの、碧子? 帰るわよ」
少し離れて立ち止まった二人のうち、茶髪の女性が声を発した。
+ + + + +
碧子はびくっと身を竦める。まるで悪戯を見つかった子供みたいだ。
「なに? 知り合い?」
碧子がぼくのシャツの裾をぎゅっと掴む。
「萌葱姉さまと、あづさ姉さま。大人の雪女です」
やっぱり。
ぼくは二人の雪女を見た。それから碧子を見て、また二人を見た。
「……なに?」
ぼくの行動に茶髪の雪女さんが訝しげな視線を向ける。こっちが萌葱さんかな。
「いや、みんな雪女っぽくないなあって思って」
二人ともいたって普通の、今風の女性のファッションだ。顔立ちもそれぞれ違いはあるけれど、このまま街に紛れ込んでも違和感がない。つるぺた……いやそのなんだ、みなさんスレンダーでスタイリッシュでうらやま――。
「今たいへん失礼なことを考えていなかったか? 少年?」
「いえ、その……」
下からのぞき込むように見上げられる。大きな目がぼくの心を見透かすように突き刺さった。心臓が奇襲攻撃を受けて、思わず視線が泳いでしまう。
「まあしょせん、わたしたちは人が生み出した幻みたいなもんだから、人に似ているのは当然だし、人を超えられるものでもないわ。日本人体型なのは仕方ないわね。
でも今の人の生活や風習もちゃんと知っているわ。わたしたちだって日々生活しているのよ」
腕を組んでぼくを斜めに見ながら、萌葱さんが言う。
「男を捕まえて食ったりしない?」
「しないわよ! わたしたちをなんだと思ってるの!?」
「化け物かと」
「きみ、本当に失礼なやつだね」
「すみません。碧子のボケが染ったみたいです」
「ひどっ! あたしのせいですか!?」
後ろでくすくす笑っているもう一人の雪女、あづささんが口を開く。
「でも子を産むときは男の精が必要だから、たまにやりすぎちゃうことはあるけど。ね、萌葱?」
切れ長の目でいたずらっぽく萌葱さんを見やりながら言う。この人の方が雪女っぽいかな。
「今まで何人『食べた』かしら?」
「うるさい! 相手も満足してるんだから、いいでしょ」
これはいわゆる、艶っぽい『オトナの会話』なんだろうか。
確かに萌葱さんの躍動的な大きな目や、あづささんの可愛らしい小さな唇はとても魅力的だ。手招きされたら、ふらふらついて行ってしまいそう。
いや、しかし、今の話だと萌葱お姉さまは……子持ち?
「コウくん、騙されてはいけません」
ぼくの背中から顔を出して、碧子が言う。
「萌葱姉さまはこう見えて、御年四十五歳の美魔女――」
「せいやっ!」
「はうっ!」
裂帛の気合いとともに踏み込んだ萌葱さんの指先が、碧子の額に正確にヒットした。
「女の歳を軽々しく言うんじゃない」
「はう~、姉さまのデコピンは年季が入っていて、痛いですう~」
額を押さえてうずくまる雪女。こちらは幼生。
ていうか、やっぱりデコピンなんだ? こやつの面倒を見る保護者の苦労をいっとき共有した気がして、ぼくは思わず、
「萌葱さん、グッジョブ」
「なに二人で意気投合してサムアップしてるんですか!?」
涙目の碧子をよそに、萌葱さんはぼくに向き直った。
「とにかく、むやみやたらに人を取り殺したりなんてしないわよ。だから安心なさい。とは言え」
萌葱さんが再び碧子をにらむ。
「わたしたち雪女は、人とは違うの。だからみだりに人里と交わらないこと。里長に言われているでしょう? 帰るわよ」
「いやです。萌葱姉さま」
「み~ど~り~こ~?」
腰に両手を当てて、お姉さまはお説教モードだ。
「いやです」
萌葱さんは黙って碧子をにらんだ。萌葱さんの鋭い視線にたじろぎながらも、碧子はかたくなだった。負けずにひたむきに見返している。
「碧子」
あづささんに優しく声をかけられて、びくっと震える碧子。さらにぎゅっとぼくにしがみついたところを見ると……こっちのお姉さまの方が怖いんだな。
「聞き分けないこと言わないでちょうだい。里長が言うことにはちゃんと理由があるのよ。人さまに迷惑かけないうちに帰りましょう」
「いやですっ!」
碧子が叫ぶように言い返す。
「ここにいたいんです! いくらあづさ姉さまが百数十年生きてる超絶美魔女だからって――」
「はぁあっ!」
「うぎゃ!?」
ずいっと踏み込んできたあづささんの必殺の一撃。碧子にしがみつかれているぼくは左右にも後ろにも逃げられず、碧子の盾となって一撃を受け止める羽目になった。
「女の歳を軽々しくお言いでない!」
「げほごほ」
「ほら、人さまに迷惑をかける」
「今のは、あづさ姉さまのせいだと思います」
「ごめんなさいね。大丈夫?」
優しく言いながら、あづささんはぼくの頬を両手で包んだ。かすかにいい匂いがして胸の高鳴りを押さえられない。こんな美人に間近でのぞき込まれたら、どきどきしないはずがない。
「あら可愛い」
どうしようもなく顔を赤らめているぼくを見てあづささんは笑い、そして碧子の方を見た。
「言うことを聞かないなら、この子、凍らせちゃいますよ」
「だ、駄目です!」
「氷漬けにして一緒に持ち帰れば、あなたも郷までついてくるかしらね?」
艶っぽい微笑みのあづささん。だが早くもぼくの頬にはひんやりと氷がつき始めた。背筋を恐怖が突き抜ける。
――殺される?
もがこうとしたが、身体が動かない。すでに身体の芯から冷やされて、自由を奪われてかけている。だめだ。本当にとり殺される。
「さあ、どうする、碧子? 帰る気になった?」
「あ……、あう……」
「早くしないとこの子、凍ってしまいますよ。いいの?」
「嫌……だめ……」
碧子がぼくの視界の隅っこで、涙目で震えているのが見える。
今のぼくには何もできない。助けてやりたいのに、もう言葉さえも出せなかった。
「さあ、どうするの?」
「だめぇっ!!」
震えていた碧子がふいに絶叫した。
「コウくん! 死んじゃだめぇっ!!!」
そのとたん。
「きゃあっ!」
叫び声があがった。
突如、雪女たちの背後から大量の水が湧き上がり、あたりの全てを飲み込んだ。突然の鉄砲水が二人を押し流す。
ぼくも巻き込まれた。
足が地に着かない。それほど大量の水だった。泳ぐにも水の勢いがありすぎて身動きすらままならない。どちらが上かすら、よくわからなかった。
息ができない。おぼれる。
恐怖が喉もとまでせり上がってくる。どうしたらいいのかわからなかった。パニックになる寸前、誰かにぐっと手首を掴まれた。
水がもの凄い勢いで身体の回りを流れ過ぎていく。そしてすぐに、なくなった。
「げほげほ」
気がつけば、濡れた地面の上に四つん這いになっていた。肺がやっと空気を得られて、気管に入った水を吐き出そうと咳込んだ。
「コウくん! 大丈夫ですか? コウくん!?」
頭上から声がした。
ぼくの腕を掴んでいたのは、碧子だった。
「立てますか? 早くここから逃げましょう」
喉を鳴らして荒い息をしているぼくを、碧子が引っ張り上げた。ぼくはふらふらと立ち上がった。ぼくも、碧子も、頭からびしょ濡れだ。
かまわず碧子は、ぼくの手をぐいぐいと引っ張る。ものすごい力だ。ぼくはついて行くほかなかった。
「今の水……。碧子がやったのか?」
「はい。新しくコウくんにもらったスキルです」
ぼくのせい、なのだろうか。
どうやら碧子が水を操ったらしい。あんなにたくさんの水は出せないはずだから、近くの川の水を引っぱったんだろう。その水で萌葱さんとあづささんを押し流した。
取り敢えず氷漬けの危機は脱した。でもひどい格好だ。あやうく溺れるところだった。
溺れる?
ふいに何かの記憶がフラッシュバックして、ぼくはバランスを崩し、つまずいた。
「コウくん!」
碧子が手を引っぱるが、立てない。ぼくは両ひざを突いたまま震え出した。
「コウくん……?」
碧子が異変に気付く。ぼくが震えているのは、水に濡れたからじゃない。恐怖だ。
ぼくは何かを思い出そうとしていた。
いや、記憶を無理やり引きずり出されようとしていた。
思い出したくない。
だけどぼくは、前にもこんな目に会っている。遠い昔。小さな子供の頃。
それもここ。この町で。
「コウくん? どうしました?」
震えたまま、ぼくは必死でもやもやした記憶をたどった。
見るな、思い出したくない、そう心が叫んでいる。でも頭はこの中途半端な状態を解決しようと必死に回転していた。
それはいつだった? どこだった? 一体何があった?
少しずつほころびる記憶。
ぼくはよくこの田舎に遊びに来ていた。ずいぶん長いこと祖父母の家に泊まり、地元の子たちと毎日遊んでいた。楽しかった。こんな日が毎日続けばいいと思った。
なぜ忘れていた?
森で遊んだ。川にも行った。そこで遊んでいるうち、ぼくは溺れて……。
「……めぐ姉?」
ぼくを助けてくれた人。いつも一緒に遊んでくれて、いつもぼくを守ってくれて、命まで救ってくれて……。
めぐ姉。
なぜ忘れていた!?
違う。
思い出したくなかったんだ。
なぜって、めぐ姉は……。
「ぼく、が……死なせた……から?」
「コウくん?」
「……だれ?」
ぼくを見つめる女の人。
誰だったか、思い出せない。
『コウくん! 死んじゃだめぇっ!!!』
絶叫が耳に残る。さっき聞いた、でも初めてじゃない。
「めぐ姉……なの?」
目の前のその人は、答えなかった。ただぼくを見返すだけ。
その目が合った瞬間、感情が振り切れて、ぼくは叫んでいた。
「めぐ姉! めぐ姉! ぼくのせいで、ぼくのせいで! ぼくが死なせたんだ! ぼくが! ぼくがいなければ! あんなことしなければ! ぼくが!」
涙がぼくの顔をぐしゃぐしゃにしていた。荒れ狂う感情を、ぼくはどうしようもなかった。
そのぼくを、めぐ姉はそっと抱き止めてくれた。
「コウくん。コウくんは何も悪くないです。誰も悪くないんです」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
ぼくは彼女の胸にすがって、号泣した。泣き喚いた。泣き疲れて倒れてしまうまで。