雪女、隷属契約です。
駄菓子屋の裏手には大きな大きな冷凍庫、氷室があった。
ここに氷がたくさんしまってあって、売り物にもしている。
ひんやりした空気が気持ちいい、と思えたのは一分くらい。氷点下の室温に寒気を覚えながら、ぼくは氷の欠片――碧子であったものを、大きな氷の上に丁寧に置いた。
氷は一貫目(3.75kg)。ブロック塀に使われるブロックくらいの大きさの直方体だ。クーラーボックスに入れて使ったりもする。
その大きな氷の上に、ちょこんと乗っかっている、碧子。下の氷と違って濁ったところはなく、わずかに青みがかっていて、とても綺麗だ。
大丈夫。ただの氷には見えない。きっと雪女の魂か何かが宿っているはず。
ぼくはそう信じた。
左手の小指を残りの指でぎゅっと押さえつける。押されて膨れた小指の第一関節、その先端をマチ針で突いた。
じわり、と小さな深紅の粒が盛り上がってくる。右手で指を絞り、氷の上にその粒をたらす。
紅の粒はすぐに氷の欠片に吸われ、色を失った。
うん、ちゃんと吸ってる。間違いなく生きている。ぼくの血に霊力があるかどうかわからないけど、こんなのでも力になるなら、もう少し……。
また血を絞って、たらす。すぐに吸われて氷に同化する。
これで効くのだろうか。ぼくはどきどきしながら、息をつめて氷を見つめていた。お願いだ、どうかもう一度……。
どのくらい待っただろうか。五分は経っていないと思う。
気がつくと、氷を中心にほんのわずか、人の形が浮かび上がっていた。よく見なければわからないくらいの、薄もやに映った影みたいなおぼろな形だった。
氷の置かれていた所が胸回り、心臓の辺りになるのだろうか、ほかよりも濃い肌色に見えた。いや、肌色というにはあまりにも透き通った、青白い色合い。間違いない、碧子の肌の色だ。
よかった、助かる。ぼくはそう思った。
思ったとたん、力が抜けて、ぺたりと尻もちをついてしまう。
すでに氷は碧子の身体に取り込まれて、見えない。
だけどまだ、影が薄い。多分、一貫目の氷だけじゃ、身体をつくる材料が足りないんだ。
外に飛び出して、たらいを借りてきた。まだこんな物があるのだ、この辺りには。
たらいに水を張ってもう一度氷室に戻り、氷を投げ込んだ。二個、三個。そうやって氷水を作り、手ですくって碧子の手の辺りに慎重に流しかけた。
小さな手が、みるみるしっかりした輪郭を形づくる。ぼくはその細い指を押し戴くようにして、静かにたらいの氷水に浸した。
ハンカチが水を吸い込むように、氷水が碧子の身体に吸われていく。身体の輪郭がはっきりしてくる。細くてすらりとした手足。形が見えてもなお、透きとおるような白い肌。平たい胸には、わずかなふくらみが柔らかく形づくられる。そしてくびれた細いウエスト。そのプロポーションのせいで、とても大人びてみえるのだ。
(綺麗だ……)
ぼくは思わずため息をついた。美しかった。神々しいと言ってよかった。人ならざるもの、雪女。それは確かに人間離れした美しさだった。
やがて。
長い睫毛に縁どられた眼がゆっくりと開かれた。薄く目を開いた碧子は、静かに、音もなく立ち上がる。その佇まいは、『降臨』という言葉を思い起こさせた。美しい裸身に見とれたまま、ぼくは呆けたように座り込んで見上げるばかりだった。
半目を開いた碧子はわずかに両手を開き、そして、言った。
「問おう……。あなたがわたしの、マスターか?」
びしっ。
「いった~い!」
額を押さえてうずくまる、マッパの少女がそこにいた。
「あほかお前は!? 死にかけのところをやっと生き返ったってのに、開口一番がそのネタか!」
「だってぇ~、『現界したときに言うセリフ』なんて、ほかにいつ使うんですかあ。今でしょ?」
びしっ。
「いった~い! また死にそうですう」
デコピンくらいで大げさな。
「こっちは死ぬほど心配したんだぞ! 自分の血まで捧げたのに」
おまえが助かるなら全ての血を捧げてもいいくらいの覚悟でいたのに。
それに報いたのが文字通り身体を張ったネタかと思うと、腹が立つやら情けないやら、泣きたくなった。
「大丈夫ですよう。核が残ってれば、雪女は再生できます。コウくんが核をキープしてくれて、助かりました。それは感謝してますって」
にこにこ顔で軽く言われたぼくは、不覚にも本当に涙を流してしまった。
「あわ、あわわ、コウくん、大丈夫ですか?」
「知るかっ!」
両の手のひらで、ごしごしと目をこすったが、涙は止まらない。
「もう、おまえなんか知らないっ! おまえなんか……。えぐっ……」
みっともない。小さな子供みたいだ。
やたらと目をこすったけど、感情の昂ぶりは収まりそうにない。
「コウくん……」
ふいに細い指が、ぼくの頭に触れた。ひんやりした白い腕が、同じくひんやりした胸にぼくの頭を導いていく。
「コウくん。泣かないで。いい子いい子です」
ぼくを優しく抱きしめる碧子の身体は冷たかったけど、言葉は柔らかく、ほんのり暖かかった。
ああ、懐かしい感触。遠い昔を思い出す。暖かくて、ほんのちょっとどきどきして、胸が痛くなるような、でももっと味わっていたい、不思議な感触。なぜ忘れていたんだろう。
(コウくん。なかないで。いいこいいこ)
本能がその言葉を拒絶して、ぼくは碧子を突き放した。
「きゃっ」
碧子が驚いて小さく叫ぶ。
「あ、ごめん」
とっさに謝ったけど、今までにないほどどきどきしていた。
何かが警告していた。そこにいてはいけないと。
「あ……も、もういいよ、大丈夫だから。離して」
「ダメですよ。もう少しだけ……」
「寒い。離して。雪女にひっつかれたままじゃ、こごえる」
「ひどっ!」
少しだけ大人びて見えた少女は、あっという間に元の碧子に戻った。
「そりゃ助けてくれたのは感謝しますけども! 雪女が冷えぴたなのも認めますけども! けども!!」
「ああ、わかったわかった」
「裸まで見られちゃったのに!」
そこは謝る。非常事態ではあったけど、すまなかった。
もっとももう何回も裸を見ているのだが。そこはツッコミたいところだが、今回ばかりは飲み込んで謝ろうとすると、
「命を賭けた渾身のネタをスルーされたのは納得いかないです!」
……怒るとこ、そこかよ。
「いいから、もう出るぞ。早く服着て」
「さっき脱げちゃったから、服、ないですう」
やれやれ。
「服取って来るから、おとなしくここで回復してろ」
+ + + + +
『生還記念』と、駄菓子屋のおじさんにかき氷を振る舞ってもらったこともあって、碧子はご機嫌だった。
ぼくはおじさんおばさんにお礼を言って、やっとひと息。
氷室ですっかり冷えてしまったので、温かいお茶をもらっていた。
もう本当に、身体も冷えたけど、肝が冷えたよ。
だけど無事復活してくれて、本当によかった。このままいなくなったらどうしようって、本気で心配した。
そんな風に眺めやるぼくの心境を知ってか知らずか、碧子はぼくを見返して身を乗り出す。
「コウくん、コウくん」
「……なに?」
「あたし、新しいスキルをゲットしちゃいましたあ」
まあ、妖の者だから、何か人にはできないこともできるんだろうけど。
「我が必殺のスキル、とくと見よ! やっ!!」
両の手の指先から、水がぴゅうっと吹き出した。公園の水飲み場の水みたいな感じだ。
確かに、人ならざる技。
「普通雪女ってさ、雪とか氷とか、冷気なんかを操ったりするんじゃないの?」
それで男を氷漬けにしてみたり。
「それは雪女の成体ならできます。幼生にそんな能力はないです。
だからこのスキルだって、すごいんですよ~」
そうなのか。だからにこにこなんだ。
でも扱えるのが雪や氷になり切れない水、というのがいかにも碧子らしい。
「どうですか? すごいでしょ? すごいでしょ?」
「……昔の古い曲芸師みたいだな」
「ひどっ! なんかすごく、けなされてる気がします!」
だって、吹き出る水のしょぼさが、そんな感じなんだもの。