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井手は『AJ』がある3丁目に入った。
公園の表門から真っ直ぐ進み、突き当たりを右に折れる。
男が言った通り、そこに店はあった。
「着いたぞ」
井手はマイクに告げる。
扉には“Jazz Bar”と書いてある。
「ジャズバーか・・・・・・」
ポツリと井手がつぶやく。
「ジャズは好きかね」
男が尋ねてくる。
「普通だな」
井手は抑揚の無い返事をする。
「そうか、それは良かった」
「どういう意味だ?」
「嫌いになっているかと思ってね」
「んっ?」
「ジャズバーで素晴らしい出来事があったという情報を聞いているのでね」
「なるほど、大した情報網だよ、全く」
井手は眉をしかめる。
彼は前の仕事をしていた頃、ある出来事にジャズバーで遭遇している。
ただし、それは素晴らしいと表現する類のものではない。
むしろ全く逆だ。
瀕死の重傷を負い、詠美と別れる遠因になる事件が起きたのが、ジャズバーだった。
(それを知っていて、わざと皮肉めいた言い方をしたな)
そう井手は感じ取った。
「では、店に入ってもらおうか」
男が指示を出す。
「ああ」
井手は短く答える。
その店を相手が武器の受け渡し現場に選んだことを、井手は重要なポイントとして捉えていた。
普通に考えれば、店の関係者が絡んでいる可能性が高いということになるからだ。
そこから犯人像を絞り込む作業も可能になる。
ただし、もちろん詠美を助けることが先だ。
井手は店の扉を開けた。
中は20坪ほどの広さで、床には赤紫のじゅうたんが敷いてある。
正面にカウンターがあり、その向こう側に酒のボトルが並んでいる。
向かって右側には、3つの丸テーブルとソファーが置いてある。
左の壁には、スタン・ゲッツやセロニアス・モンクなどのアルバム・ジャケットが飾られている。
「どうだ、君のために用意させてもらった場所だ」
「俺のために?」
「さすがに同じ場所とはいかないが、似たような店を用意させてもらったつもりだ」
「ああ、そういうことか」
井手は理解した。
言われてみれば、事件が起きた店と良く似ている。
「思い出さないか、ヒッチ時代の事件を」
「さあな」
井手は、あえて冷たい言い方をした。
その時、カウンターの奥から1人の女性が姿を現した。
賀庄美奈だ。
井手は面識が無いので、もちろん誰なのかは分からない。
「どうも、井手さん」
美奈は屈託の無い笑顔を浮かべて挨拶し、カウンターにポーチを置いた。
「ああ、どうも」
適当に返事をしながら、井手は相手を観察する。
名前を呼んだということは、男の仲間だろう。
すぐに感じたのは、この店の雰囲気に彼女が馴染まないということだ。
とてもジャズバーの女主人には見えない。
「アンタ、若いな」
井手は美奈を見て告げる。
「ええ、井手さんよりはずっと若いわね」
「アンタはマックス・ローチとバディー・リッチなら、どっちが好みだ?」
「何のこと?何かのブランド?」
「いや、別にいいんだ」
今の質問で、井手は美奈が店のマスターでもなければ関係者でもないと断定した。
ジャズバーの関係者なら、有名なジャズ・ドラマーであるマックス・ローチやバディー・リッチの名前を知らないはずが無い。
「余計なお喋りはやめて、その女から道具を受け取れ」
イヤホンから指示が出る。
「彼女が、受け渡しの担当ということか」
井手は男に対して告げ、美奈に視線を戻す。
「アンタが道具を持っているらしいな」
「ええ。あなたが使うのは、これよ」
美奈はポーチを開けて、中から拳銃を取り出した。
井手が動こうとしないので、美奈は拳銃を持ったままカウンターから出た。
「さあ、どうぞ」
彼女は銃口を井手に向け、差し出す。
井手は反射的に、少し身をかわす。
美奈は無邪気に笑った。
「バカね、弾は入ってないわよ」
「そうかい」
そう言って、井手は拳銃を受け取った。
(この女、素人だな)
井手は思った。
拳銃の扱いに慣れている人間ならば、例え弾丸が入っていなくても、相手に銃口を向けるようなことはしない。
「この女、お前の愛人か何かなのか?」
井手は、マイクに向かって質問した。
「それに答える必要は無い」
男はピシャリと言った。
だが、愛人かどうかはともかく、力関係が対等ではないことは分かった。
イヤホンから話し掛けている男が、この計画のボスだと考えて間違いないだろう。
井手は改めて、拳銃に目を移す。
ワルサーPPKだ。
(どうやら、相手はヤクザの類ではなさそうだな)
井手は考える。
ヤクザなら、トカレフやマカロフ辺りを渡しそうなものだ。
ワルサーPPKは、要人警護に当たる警官や軍の士官らが良く使う拳銃だ。
(こんな銃を入手できるということは、警察か軍部の人間でも関与しているのか?)
そんなことを井手が考えているとは露知らず、美奈はポーチの中に手を突っ込んでゴソゴソと漁っている。
取り出したのは、弾倉とサイレンサーだ。
「こっちが弾で、こっちが」
「説明しなくても分かっている」
井手は、ぶっきらぼうに告げ、弾倉とサイレンサーを奪い取った。
「ああ、そうですか」
ふくれっ面で、美奈はポーチの口を閉じた。
「ここで俺に弾を渡して、この女を射殺するとは考えなかったのか」
井手は弾倉を銃に取り付けながら、男に問う。
美奈はドキッとした表情になるが、イヤホンの向こうで男は高笑いした。
「ははっ、有り得ない話をされても困るな」
「有り得ないと思うのか」
「脅しのつもりなら、やめておくんだな。君に主導権は無い」
スッと重厚な口調に戻り、男が言う。
「君が握っているのは主導権ではなく、人質の命運だ」
「上手いことを言いやがるぜ」
井手は詠美の顔を思い浮かべる。
「この女を撃つことはしないが、しかし射撃の練習はさせてくれるのか」
ワルサーのバランスを確認しながら、井手は尋ねる。
「自分の腕が落ちているのが心配なのか」
「そうじゃないさ。この拳銃の性能を確認したいだけだ。照準が合っているのかどうかも分からないしな」
「それは大丈夫だ、こちらで確かめてある」
「準備は万全というわけか」
「そういうことだ。後は、君が我々の期待に応えてくれればいいだけだ」
「努力はしてみるさ」
井手は、ワルサーをスーツの内ポケットに収めた。
「そうそう、大事なことを教えておこう」
男が、やや大げさな口ぶりになった。
「何だ?」
「その店は、1週間前から休業中だ。マスターが海外出張に行っていてね」
「それで?」
「その情報を掴んだので、勝手に店を拝借して、銃の受け渡し現場に使わせてもらった」
「何が言いたいのか分からんな」
「つまり、『AJ』と私は何の関係も無いということだ。もしも君が、その店と私を結び付けようと推理を巡らせているとしたら、無駄なことだと思ってね。念のために言ったまでだ」
「わざわざ教えてくれるとは、親切だな」
井手は、嫌悪感剥き出しの表情で言った。
「これぐらいのサービスはしてもいいだろう」
男は小さく笑った。
井手の推理は、ある部分では確かに無駄になった。
店から犯人像に辿り着くというラインは切断されたことになる。
ただし、分かったこともある。
(仲間の女が姿を見せたということは、俺を生かしておく気が無いな)
心の中で、井手はつぶやく。
女はマスクやサングラスで顔を隠すことも無く、変装することもなく、素顔で井手の前に現われた。
(例え顔を見られても、仕事が終われば俺を始末するから平気だと考えているんだろう)
井手は確信した。
そして、見えてきたことがもう1つある。
それは、男が2つの目的を持っているということだ。
(この男、完全に楽しんでいるな・・・・・・)
井手は想像する。
時刻は9時40分。
タイムリミットまで、残り1時間20分。