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清水は、井手のメモに記されていた有布アパートを訪れた。
月極駐車場の横の細い道を入り、その奥にある建物だ。
かなり古びた2階建ての木造アパートである。
1階と2階に、それぞれ4つずつの部屋がある。
部屋は6畳の和室と2畳の台所で構成されており、風呂とトイレは共同だ。
1階が1号室から5号室、2階が6号室から10号室だ。
4号室と9号室は存在しない。
5号室の隣に風呂とトイレがあるが、明らかに後から設置したものだ。
アパートの前の敷地は、雑草が生え放題になっている。
清水は、メモにあった“3”が3号室のことだろうと考えた。
3号室の前に行くと、ドアの隣にある小窓から明かりが漏れている。
住人は中にいるようだ。
だが、表札が無いため、それが森という人物かどうかは分からない。
清水はドアをノックする。
返事は無い。
もう一度、清水はドアをノックした。
しばらく待つと、少しだけドアが開いた。
チェーンを掛けたまま、中から男の顔が半分だけ覗く。
「誰だ?」
男は極度に警戒した様子で、清水をジロジロと見る。
「お前が森か?」
清水が尋ねた。
その途端に、男はバタンとドアを閉めた。
すぐに鍵を掛ける音がする。
「おい、開けろ」
清水はドアノブを回すが、もちろん施錠されているので開くはずもない。
「森、ここを開けるんだ」
激しくドアをノックするが、返事は無い。
「くそっ、何なんだ」
清水は、顔をしかめる。
「おい森、井手のSOSだ」
メモの言葉を思い出し、清水はドア越しに叫んだ。
すると数秒後、ガチャリと開錠の音がして、再びドアが少しだけ開いた。
ただし、まだチェーンは掛けられた状態だ。
「今、井手のSOSと言ったのか?」
男は、清水に疑惑の眼差しを向ける。
「ああ、これを見ろ」
清水はポケットからメモを取り出し、男の前に掲げた。
男はドアの隙間から手を伸ばしてメモを奪い取り、三白眼で凝視する。
「なるほど、確かに井手の字のようだ」
彼は、小さくうなずいた。
「どうやら、無視して追い払うわけにはいかないようだな」
そう言って男はチェーンを外し、ドアを大きく開けた。
「とりあえず、入ってくれ」
男は清水を招きいれた。
清水が中に入ると、玄関には本が山積みになっている。
ほとんどは洋書だ。
それも文学作品ではなく専門書のようだが、清水には良く分からない。
玄関は本に占領されており、何とか1人が通れる程度のスペースしか無い。
「倒さないでくれよ。それでも一応、整理してあるんだ」
男は清水に注意を促す。
「どうして玄関に本がたくさんあるんだ」
「部屋に入り切らないから、仕方が無い」
そう言われて奥へと目を向けた清水は、納得した。
部屋の中は、幾つもの機械で埋め尽くされている。
しかし機械に詳しくない清水には、何がどういう装置なのか全く見当も付かない。
パソコンが3台あることだけは、清水にも分かった。
「悪いが、話は台所でしてもらおう」
森は玄関を入って左側の台所へ、清水を手招きした。
「向こうへ入れるわけにはいかない。機械類を変にいじられて、壊れたら大変だからな」
「それは俺も勘弁だな」
清水は同意し、靴を脱いで、狭い台所へ入る。
「お前が森で間違いないんだな」
「ああ」
森は小さくうなずいた。
彼は森秀嘉、48歳。
ギンガムチェックのネルシャツにスラックスという服装。
無精ヒゲを生やし、髪はボサボサだ。
「それでアンタは何者だ?井手とは、どういう関係だ?」
森が尋ねる。
「俺は清水剛一。城南署の刑事だ」
「刑事だと?冗談だろう」
森は、大げさに反応した。
「本当だ、ほら」
清水は警察手帳を提示した。
「なるほど、本物のようだな」
森は顔を近付けて確認した。
「それでアンタ、井手とどういう関係だ?」
「それほど親しいわけじゃない。捜査の絡みで2度会っただけだ」
「それだけの関係か。友人でも何でもないんだな」
「ああ、奴とは少々の因縁があるが、赤の他人と言ってもいいぐらいだ」
「あの井手が、ほとんど知らない間柄の刑事に助けを求めるとはな」
森は意外だという顔をした。
「それで、お前は井手とどういう関係なんだ?」
今度は逆に、清水が聞く。
「まだ今のところ、それは言えないな。そこまでアンタを信用できない」
森は回答を拒否する。
「それより、このメモだ。どういう経緯で手に入れた?」
「刑事に対して、一方的に質問ばかりする態度はどうなんだ?」
清水は、少し苛立った。
「いいから早く教えろ」
「分かった、教えてやる」
清水は手短に事情を説明した。
はね付けても良かったのだが、井手の残した“SOS”の言葉が頭をよぎり、とりあえずは森に事情を語った方が賢明だろうと判断したのだ。
ただし事情と言っても、詳しいことは分からない。
清水が話したのは、町で井手に出会い、相手がいきなり握手を求めてきてメモを渡し、逃げるように去ったということぐらいだ。
「なるほど、そうか・・・・・・」
森は額に手を当てて、考え込んだ。
「どうやら、ヤバいことになっているようだな」
「どういうことだ?俺には何が何だか、サッパリ分からん」
清水は、素直な心境を口にした。
「井手が刑事に助けを求めるのは、普通なら有り得ない。それも、ほとんど面識の無い刑事に助けを求めるというのは異常だ」
「一般人が刑事に助けを求めるのは、当然のことだがな」
「世の中には刑事を嫌っている奴も一杯いるぜ」
「井手もそういう人間ってことか」
「いや、警察への不信感もあるだろうが、それだけじゃないな。井手は一般人であって、一般人ではないのさ」
「意味が分からん。奴は何者だ?」
「それも今は言えないな」
また森は回答を拒否する。
「それより、このメモの字を見ろ。この文字は明らかに殴り書きだ。ということは、落ち着いてメモを書くことさえ出来ない状況にあるということだ」
「どういう状況なんだ、それは」
「もしかすると、見張られているのかもしれないな」
森は腕組みをする。
「奴は何の助けを求めているんだ?何をして欲しいんだ?」
「それが分かれば苦労はしない。それを調べるために、行動すべきだろうな」
そう言いながら、森は玄関へ足を向ける。
「だったら、まず奴に電話を掛けたらどうなんだ?」
後ろから、清水が尋ねる。
「いや、それは避けた方が良さそうだ」
「なぜだ?」
「井手が異常な形で俺に助けを求めてきたということは、その動きを何者かに知られたくないのだろう」
「それで?」
「こちらが電話を掛けることで、井手が助けを求めたことが、その何者かにバレる危険性がある。詳しいことが分からない段階で、電話を掛けるのは危険だ」
「だったら、どうするんだ?」
「まずは、あいつの事務所に行ってみるとしよう。さあ、行くぞ」
森は、玄関のドアを開けた。
時刻は9時34分。
タイムリミットまで、残り1時間26分。