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タイムリミット7200  作者: 古川ムウ
6/23

<6>

 須藤昇一博士は、リビングのソファーに深く腰掛けている。

 彼は遅い食事を取った後、紅茶を堪能していた。

 今年で75歳になる須藤は、医者からアルコールを控えるよう言われ、今は紅茶が食後の楽しみになっている。

 朝はウバ、夜はダージリンを、最近の彼は愛飲している。

 須藤はライト・ブラウンのツイード・ジャケットにボタンダウンのシャツ、ゴーデュロイのズボン、ペーズリー柄のネクタイという格好だ。

 家の中でも、彼が砕けた服装に着替えるのは就寝する時だけだ。


 「ふうっ、やはり家は落ち着くな」

 真っ白になった頭髪を軽く撫でて、須藤は静かに息を吐く。


 彼がいるのは、96坪の邸宅だ。

 本人の稼ぎで建てたわけではなく、亡くなった両親の代からあったものだ。

 須藤の両親はいずれも医者で、家庭は裕福だった。

 邸宅は2階建てで、広い庭がある。

 庭には、ひょうたん型をした池が作られている。

 錦鯉でも泳いでいそうな池だが、魚は飼っていない。

 その代わりというわけではないが、池の真ん中にはミニチュアの竜宮城が建っており、周りでは擬人化された銅製の鯛やヒラメが舞っている。

 それは須藤が作ったのではなく、父親の趣味だ。

 塀に沿うようにして、何本もの松の木が生い茂っている。

 その前には木の棚があり、盆栽の鉢植えが幾つも飾られている。

 こちらは須藤の趣味だ。


 須藤は数年前から米国で暮らしており、日本には1年に数週間しか戻って来ない。

 それでも日本の自宅は売却せず、たまに帰国した時には、そこで生活することにしている。

 「ホテル暮らしが嫌いだから」というのが、家を売却しない理由だ。

 留守中に家を放っておくわけにはいかないので、友人に管理を任せている。

 その友人のおかげで、盆栽は手入れが行き届いており、池の水も澄み切っている。



 須藤は、かつて東京の大学で教授として勤務していた。

 毒物の権威と呼ばれるようになったのは、その頃だ。

 その業績を高く評価したアメリカの研究機関にスカウトされる形で、須藤は渡米した。

 現在は通称“スドウ・ラボ”と呼ばれる自身の研究所を設立し、後進の育成に力を入れている。

 研究者として一線を退いたわけではなく、今でも解毒薬の開発は続けている。

 アメリカの政府機関にも協力しており、太いパイプが構築されている。


 この年になっても、須藤は独身だ。

 結婚したことは一度も無い。

 同性愛者というわけでもないし、女性と結婚するチャンスが無かったわけでもない。

 ただ、彼は若い頃から仕事が恋人で、結婚に対して何の願望も沸かなかったのだ。


 それなりに料理も出来るし、家事が苦にならないということも、独身貴族のまま老齢になった一因だろう。

 最近は多忙のために外食が多くなったが、朝は必ず自分で味噌汁を作り、魚を焼いて食べる。

 上手だとは思っていないが、料理は好きな方だ。

 今日の夕食も、作ったのは彼だ。

 サバのみりん焼きに肉じゃが、なば菜のお浸しというメニューを作った。 



 「肘井、お前も紅茶を飲まないか」

 須藤は白髪交じりの髪をそっと撫でながら、傍らに立っている秘書の肘井慶里に告げた。

 彼はダークネイビーにグレーのストライプ柄が入ったスーツを着て、背筋をピシッと伸ばして立っている。

 ピッチリとしたセンター分けの髪は、ジェルでガチガチに固めてある。

 「いえ、私は結構です」

 肘井は堅い表情で、紅茶を遠慮した。


 36歳の肘井は、1年前から須藤の秘書として働いている。

 須藤は、懇意にしているアメリカの上院議員から、肘井を秘書として勧められた。

 プリンストン大を卒業した後、上院議員の選挙スタッフとなり、秘書を務めていたというのが肘井の経歴だ。

 肘井は須藤の講演を聴いて感銘を受け、近くで働きたいと思うようになったらしい。

 ちょうど娘を秘書に起用したいと考えていた上院議員としては、渡りに船だったわけだ。


 それまで須藤は秘書を起用せず、研究助手が秘書代わりを務めていた。

 特に秘書が必要だとも考えていなかった。

 しかし、知人の紹介とあって簡単に断ることも出来ず、

 「とりあえず会ってみるだけ会ってみましょう」

 ということで、肘井と顔を合わせた。


 その時も須藤は、適当に理由を付けて断るつもりだった。

 だが、あまりにも熱心に肘井が秘書を志願する気持ちをぶつけてくるので、それに押される形で雇うことにしたのだ。

 今となっては、須藤は肘井を雇用して良かったと思っている。

 秘書がいることで、これほど日々の仕事が楽になるとは思っていなかったのだ。


 それまでの研究助手がずさんな仕事をしていたわけではないが、肘井が来てから格段に須藤の負担が減った。

 それはしかし、秘書を雇ったからではなく、肘井だったからだろうと須藤は思っている。

 秘書の起用が初めてなので他者との比較は出来ないが、須藤にとって肘井は非常に優秀な人材だ。

 スケジュール管理はもちろんのこと、関係者との交渉や講演先の下調べ、研究所の財務管理、新しいスタッフの選定、あらゆる方面で肘井は「かゆい所に手が届く」という仕事ぶりを披露した。

 仕事の部分だけでなく、須藤の私生活においても細かいところまで気を配る。

 まるで長く連れ添った妻のように、須藤が次に何をしたいのか、何を望んでいるのかを先読みし、的確に行動する。

 今では須藤も、完全に肘井を信頼し、公私両面に渡って全てを委ねている。


 「せめて、座って落ち着いたらどうなんだ」

 須藤は、直立不動の肘井に告げる。

 「立っているのは、苦痛ではありませんから」

 「頑固だな」

 須藤は、苦笑した。

 「あの出来事があってから、ちょっと神経質になりすぎじゃないのか」

 「事が事ですから、神経質になりすぎるということはありません」

 肘井は、キッパリと言い切った。



 あの出来事というのは、暗殺未遂事件のことだ。

 それは、1ヶ月ほど前に遡る。

 須藤が親しくしている刑事から、暗殺計画があるらしいとの情報が入った。

 出所したばかりでケチな盗みをやらかした男を逮捕した時、

 「見逃してくれるなら、いいネタを教える」

 と言って、暗殺計画について漏らしたのだという。

 その窃盗犯は、刑務所にいる時に同房の囚人から計画の存在を聞いたらしい。

 だが、その犯人や動機、具体的な計画については全く分からないという。

 刑事は、その窃盗犯が口から出まかせばかりを言う奴だと良く知っていた。

 そのため、須藤に話した時も、

 「こんなバカなことを言う奴がいる」

 と笑っていた。


 その話しぶりから、須藤も本気にしなかった。

 しかし、その1週間後、気になる出来事が発生した。

 須藤が運転していた車のブレーキが、急に効かなくなったのである。

 危うく事故死しそうになった須藤だが、ガードレールに衝突したものの、奇跡的に軽症で済んだ。

 警察は、車の故障だと断定した。

 だが、須藤は刑事の言葉が頭に浮かび、何者かが細工したのではないかと疑いを持った。

 その出来事があって以来、肘井は神経質になっている。

 それから今日まで、特に狙われるようなことは無かったが、モヤモヤした気持ちは須藤の中にある。



 「もしも本当に暗殺の標的になっているとすれば、私だって怖いさ」

 須藤は、静かに言った。

 「しかし、ここは日本だぞ。アメリカならともかく、暗殺者が日本まで追い掛けてくるとは思えない。だからこそ、帰国の予定を早めたのだから」

 「それでも、万が一ということはありますからね」

 「そういうことを考えて、ボディーガードまで雇ったのだ。お前はリラックスしていればいい」

 須藤が言う。


 彼は帰国に際して、ボディーガードを雇っている。

 依頼した先はアメリカの警備会社だが、同行したボディーガードは全て日本人だ。

 時間を区切って人員が交代しながら、24時間ずっと警護に当たっている。

 今の時間帯は、夜間担当の2人のボディーガードが家の正門前に立っている。

 訪れる者には、ボディーチェックをしてもらうようになっている。

 ただし、それは須藤が求めたわけではなく、ボディーガードを派遣した警備会社が決めたことだ。

 そこまでしなくてもいいのではないかと須藤は言ったが、会社側が

 「警護するからには最善を尽くすのが任務です」

 と主張したので、受け入れることにしたのだ。


 「もちろん、ボディーガードは信頼していますが」

 肘井が口を開く。

 「しかし私も秘書として、いざという時には博士をお守りしなければいけませんからね」

 「そこまで秘書に求めてはいないよ。もう少し肩の力を抜かないと、疲れるぞ」

 博士は呆れたように首を振り、立ち上がった。

 「どこへ行かれるのですか?」

 「書斎だよ。しばらく中で仕事をしている。何かあったら呼んでくれていい」

 「分かりました」



 時刻は9時27分。



 タイムリミットまで、残り1時間33分。


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