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清水剛一は井手の背中を見送った後、考え込んでいた。
相手は明らかに、怪しい動きを示していた。
普段の清水なら、追い掛けて捕まえようとしただろう。
だが、長年の経験で培った勘が、「追うな」と彼に指令を出していた。
「例の男だな」
清水は、井手のことをハッキリと覚えていた。
数度しか会ったことの無い相手だが、非常に印象深い男だったのだ。
井手と言葉を交わしたのは、密輸犯を張り込んでいた時が初めてである。
だが、実はそれ以前にも、清水は一方的に井手を目撃していた。
最初の対面から遡ること、約2週間前の出来事だ。
その日、清水は刑事課長の東武亮人と共に、近所のラーメン店で昼食を取った。
東武は、まだヒラの刑事だった頃、たった1人で凶悪な犯罪組織を壊滅させたという伝説を持つ人物だ。
しかし彼は部下からその事件について尋ねられても、
「自分は何もしていない」
と全面的に否定した。
その後も東武は何度も大きな事件を解決しているが、決して自慢するようなことはしない。
「まだまだ自分には足りないところが多い」
と、常に自己反省を忘れない。
部下には厳しく接することも多く、例え事件を解決しても手放しで誉めることは無い。
だが、部下を心から信頼しており、批判から守るために自分が盾になることもいとわない。
そんな東武を、清水は心から尊敬している。
食事を終えた清水と東武は、ラーメン店を出た。
署に向かって歩き出そうとした清水は、後方で東武が立ち止まっているのに気付き、振り向いた。
東武は、通りの反対側を歩く男に目を留めていた。
気になった清水は、
「知り合いですか?」
と声を掛けた。
すると東武は、
「いや、何でもない」
と答えて男から視線を外した。
その時、東武が見ていた相手が井手だった。
些細な出来事だが、それは清水の記憶に強く刻み込まれた。
というのも、その時の東武の表情が、初めて見るものだったからだ。
その表情の意味するところを、清水は簡単に言い表すことが出来ない。
まず、東武は明らかに驚きを示していた。
過去を思い出しているようにも見えた。
井手に対する眼差しには、何らかの引っ掛かりがあるように思えた。
清水は、東武と井手の関係が気になった。
だが、深く問い詰めることは何となく悪いような気がして、それ以上の質問はしなかった。
キャバレーで井手を見掛けて尋問したのは、その時のことを思い出したからだ。
清水は、東武と井手が友人や知人といった関係ではなく、もっと因縁めいたもので繋がっているような気がしていた。
正直に言って、密輸犯との関係よりも、井手本人について知りたいという気持ちが強く働いたのだ。
初めて近くで井手と対面した時、清水は瞬時に
(こいつ、只者ではないな)
と感じた。
まず、その眼光が異様だった。
一見すると、それは鈍いものだ。
だが、その奥に隠された恐るべきマグマを、清水は見逃さなかった。
さらに清水は、井手の全身から滲み出る“気”に神経が行った。
それは、危険な修羅場をくぐり抜けて来た者だけが放つ“気”である。
井手は穏やかな調子で素性を語ったが、清水はそこに強烈な圧力を感じた。
探偵だという説明を受けても、容易に受け入れることは出来なかった。
井手が放つ鋭利な刃の如き感覚は、探偵には必要の無い類のものだからだ。
これまでに清水が出会った多くの人間の中で、同じような匂いをさせていた者が2名いる。
1人は暴力団のヒットマン。
もう1人は、腕利きの公安刑事だ。
しかし、それら2人と比較しても、井手の放つ“気”は圧倒的だった。
清水は井手に任意での同行を求めたが、
「それは遠慮しておきましょう」
と即座に断られた。
「任意ですから、拒否しても構いませんね」
井手は、そう付け加えた。
その態度は、とても柔和なものだった。
しかし、そこに込められた強い意思を、清水はビシビシと感じた。
清水の返事を待たずに、井手は
「それでは、ごきげんよう」
と軽く頭を下げて立ち去った。
何の理由も無く強引に連行するわけにもいかず、清水は黙って井手を見送った。
しかし後になって、
(あの時、自分は気圧されていたのではないか)
と清水は考えた。
否定したい気持ちもあったが、しかし事実だった。
井手は、特に高圧的な態度だったわけではない。
むしろ穏やかな佇まいを保っていた。
にも関わらず、清水は相手の凄みを感じ取っていた。
目に見えない何かが、その時だけは、刑事としての牙を清水から抜き取ってしまったのだ。
何となく、清水は敗北したような感覚になった。
そのことに、彼は歯がゆさを覚えた。
それからしばらくして、清水は再び井手と顔を合わせることになった。
今度は単なる通りすがりの不審者ではなく、井手は殺人の容疑者となっていた。
清水は取調室へ赴き、連行されてきた井手と対峙した。
(あの時の借りを返すチャンスだ)
そんな風に、清水は思った。
別に借りなど無いのだが、清水は一方的に、井手に対する執念のような感情を燃やしていた。
是が非でも井手を屈服させ、そのすました顔を崩してやろうと意気込んだ。
しかし結果としては、完全な返り討ちだった。
「前にも会ったことがあったな」
清水は余裕を見せ付けながら、そんな第一声で入った。
しかし井手はそれには答えず、質問を投げ掛けてきた。
「アンタは今回の事件、どう思うんだ」
真剣な顔で、彼は言った。
井手の言葉からは、前回のような敬語が消えていた。
「何だと?」
意外な言葉を受けて、清水は面食らった。
「つまり犯人像、犯人の動機、殺人の方法など、事件全般について、どのように考えているんだ」
井手は、自分の質問の意図を詳しく説明した。
「そんなことは、こっちが聞きたい」
思わずカッとなった清水は、机に拳を叩き付けた。
「そう興奮するなよ。まだ取り調べは始まったばかりだ」
井手は、なだめるように言った。
「最初からそう簡単に気持ちを乱されていたら、容疑者にナメられるぞ」
「お前が言うな。何が犯人像だ。お前が犯人なんだから、自分が一番良く分かっているだろうが」
清水の激情は収まらない。
「アンタ、普段からそんな風に、すぐ頭に血が昇る性格なのか?」
「ほっとけ」
「いや、違うはずだ」
井手は首を振り、自身の質問を否定した。
「アンタは、いつもなら相手を見て戦法を練り、時にはなだめすかしたり、気心を許すように仕向けたり、そういうことも出来るはずだ」
「知ったような口を」
「だが、今日は自分のペースが狂っている。なぜかは知らないが、俺に対して何か思うところがあるようだな。そして最初の俺の言葉によって、完全に感情のコントロールを失った」
心を見透かしたかのような井手の発言は、さらに激しく清水の感情を高ぶらせた。
「偉そうに。お前のような奴に、何が分かるというんだ」
「刑事さん、アンタは何に対して意地になっているんだ?この事件のことより、俺に対する意識が先走っているぞ」
「そんなことは、どうだっていい。余計なことを喋っている暇があったら、事件のことを話せ」
清水は必死で尋問を優位に進めようとするが、もはや完全に手遅れだった。
いや、実際には、例え清水が冷静に尋問を進めたとしても、井手に太刀打ちすることは不可能だっただろうが。
「そっちが質問に答えてくれたら、こっちも分かっていることは教えよう」
井手は清水の怒りを受け流すように、淡々とした口調で告げた。
「対等の立場で物を言うな。お前は容疑者で、こっちは刑事だぞ」
「立場の違いは分かっている。しかし頭ごなしに拒否せず、まずは話だけでも聞いてみたらどうだ」
そこで清水は、ブチッと切れてしまった。
「ふざけるなよ」
清水は井手の首根っこを掴み、憤怒の表情で顔を近付けた。
彼は井手の顔を凝視したが、相手は全く目を反らそうとしなかった。
無抵抗で、井手は清水の顔を見つめ返した。
それは挑発的な顔ではなく、むしろ無表情に近かった。
次の瞬間、清水はパッと手を離し、一歩下がった。
井手の目の奥に、得体の知れない恐怖を感じたのだ。
ゾッとしたのだ。
「ぐっ・・・・・・」
清水は、唾の奥で短くうめいた。
「どうした、刑事さん?」
井手は眉一つ動かさず、清水を見据える。
「あ、後で、また来るぞ」
清水は逃げるように、取調室を出た。
激情は、一気に冷めていた。
部屋の外に出た彼は、両腕の鳥肌に気付いた。
背中は冷や汗でグッショリと濡れていた。
清水はそのまま東武の元へ行き、井手が犯人に違いないと主張した。
何の証拠も無かったが、そう言いたい気持ちになっていたのだ。
しかし東武は冷静な態度で、
「いや、彼はシロだよ」
と、あっさり否定した。
その言葉には、確信めいたものがあった。
「どうして、そう言い切れるんですか」
清水は反発した。
すると東武は、
「理由は簡単には説明できないが、ああいう殺人はやらないタイプの人間だな」
と、はぐらかすように言った。
結局、井手は釈放され、しばらくして犯人は捕まった。
だが、なぜ東武がシロだと断言できたのかは、清水には分からずじまいだった。
清水は回想から意識を呼び戻し、握っていた右手を開いた。
そこには、クシャクシャに丸めた紙があった。
先程、井手が握手した時に握らせたのだ。
清水は、その紙を開いた。
そこには、何やら文字が書かれている。
それは井手がポケットの中で鉛筆を動かし、走り書きしたメモだった。
「井手のSOS、有布アパート3の森に連絡を」
メモには、そう書かれていた。
短い時間の中では、それだけ書くのが精一杯だったのだ。
「SOSだと・・・・・・」
清水は、井手が消えた方向に視線を向けた。
だが、既に彼の姿は無い。
時刻は9時22分。
タイムリミットまで、残り1時間38分。