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井手は『AJ』へ向かいながら、敵の正体について考える。
生半可な相手でないことは明白だ。
ここまで手の込んだ計画を実行に移せるということは、プロフェッショナルな人間と考えていいだろう。
いや、例え素人であっても、ひょっとすると聞きかじりの知識や旺盛な好奇心だけで、上っ面だけは似たようなことをやれる人物がいるかもしれない。
しかし、今回の殺人指令を下した相手は、何らかの特殊な稼業に関する豊富な知識と経験がある。
(こんな計画を実行し、しかも俺の過去を知っているとなれば・・・・・・)
該当する人物は多くないというのが、井手の判断だった。
そして、そのような人物が犯人だとすれば、何らかの組織が絡んでいる可能性が高い。
(いずれにせよ、単独犯でないことは確かだな)
井手は思った。
敵は相当に手強い。
ただし、どれほど完璧に計画を立てても、どんなに正確な行動を心掛けても、余程の人物で無い限り何らかのミスは犯す。
計画が大きければ大きいほど、ミスは起こりやすい。
そのミスに付け込むことが出来れば、チャンスはある。
(そして、既に敵は小さな失敗を犯している)
そう井手は考えていた。
それは先程、『フィッシャー』の前で敵が言った言葉だ。
男は箱型の装置に発信機が取り付けてあることを認め、ピンバッジ型カバーにマイクが内蔵されていることを自ら語った。
だが、もしも井手が敵の立場なら、そこは明らかにすることを避けただろう。
発信機や隠しカメラの存在を認めたことで、敵が井手の位置を特定する方法は明らかになった。
そうなれば、それを前提にして対策を練ることも出来る。
しかし、発信機や隠しカメラの存在を知らなければ、もしかすると見張りがいるのかもしれない、あるいは居場所を特定する別の方法があるのかもしれないと、あれこれ考えざるを得ない。
そのことにより、井手の不安が強くなったかもしれない。
敵はそんなミスに気付かず、優越感に浸って余裕の態度を見せている。
(その優越感が、不用意な発言を生む)
井手は、そう思っていた。
敵の不用意な発言を捕まえれば、反撃のきっかけに出来るかもしれない。
例えピンホールほどの小さな穴であっても見逃さないよう、井手は神経を研ぎ澄ます。
過去の自分が持っていた感覚を、彼は呼び起こそうとしていた。
「もう余計な道草を食うのはやめることだな」
考えを巡らす井手のイヤホンに、静かな脅し文句が聞こえてきた。
「今度やったら、その瞬間がタイムリミットになるぞ。どういう意味か、賢明な君なら分かるだろうな」
「卑怯な奴だな、貴様は」
井手は、すぐさま言い返す。
「ほう、私は卑怯かね」
「人質を取っただろうが。無関係の人間を巻き込みやがって」
「いや、無関係ではないだろう。君の奥さんじゃないか」
「もう10年も前に別れた女だぞ。関係無い」
「本当にそう思うのなら、依頼を受けなくてもいいんだぞ。彼女が死ぬだけだ」
「くそっ」
井手は舌打ちする。
「彼女に何かあったら、必ずお前を殺してやるからな」
「おお、怖い怖い」
おどけたように男が言い、井手の神経を逆撫でする。
井手は怒りに唇を震わせながら、先程の動画を思い起こす。
井手が部屋で開いたEメールの添付ファイルは、20秒ほどの短い動画だった。
そこに映っていたのは、どこかの室内だ。
一部分だけを映しているので部屋全体の様子は分からないが、かなり殺風景な空間のようだった。
動画に映っていたのは、窓際の一角だ。
厚いブルーのカーテンが閉じられているため、室外の様子は見えない。
だが、井手は部屋そのものに対しては、特に意識は向けなかった。
彼に衝撃を与えたのは、その部屋にいた人物だ。
1人の女性が、壁にもたれかかって座っていた。
いや、「座らされている」と言った方が正しい。
両手と両足はロープで縛られ、口はガムテープで封じられている。
その女性は井手の別れた妻、詠美だった。
井手は10年前、3年間連れ添った妻の詠美と離婚した。
だが、嫌いになって別れたわけではない。
その頃、特殊な職業に就いていた井手は、ある出来事で重傷を負った。
病院に担ぎ込まれた彼は、死の淵をさまよいながらも奇跡的に一命を取り留めた。
3ヶ月の入院生活を過ごす間に、井手は
(今の仕事を続ける限り、詠美の身にも危険が及ぶかもしれない)
と強く感じるようになった。
詠美を危険に巻き込みたくないという理由から、井手は離婚を申し入れたのだ。
「どうして?」
涙交じりで詠美から問われた時、井手は苦悩した。
その仕事については、例え家族や恋人に対してでも簡単には明かせないからだ。
「お前に愛想が尽きた」
井手が詠美に告げたのは、そんな言葉だった。
「もう限界だ、お前にはウンザリなんだ」
嫌悪感たっぷりの態度で、井手は告げた。
もちろん、嘘である。
それも、どう考えても上手くない嘘だ。
何しろ井手と詠美は結婚して3年間、喧嘩1つしたことのない円満な夫婦だったのだから。
こと恋愛に関しては、井手は嘘が下手な男であった。
「俺のワガママだ」
とか、
「君には俺よりふさわしい男がいる」
とか、そういった弁明も井手の中にはあった。
しかし、相手に良く思われるような別れ方よりも、あえて嫌われるようなことを言うべきだと井手は思ったのだ。
そうすれば詠美は、何の未練も無く次の恋愛に移ることが出来るだろうと、そう思ったのだ。
それは井手の、詠美に対する最後の優しさのつもりだった。
井手は恋愛に不器用な男だったが、誠実さだけは持っていた。
詠美は悲しそうな目で、井手を見つめた。
「そう、分かった」
と小さくうなずき、彼女は離婚を受け入れた。
詠美が別れの理由を信用したのかどうか、井手には分からない。
離婚という方法が本当に彼女のためだったのか、それも井手には分からない。
だが、ともかく井手は彼女と別れた。
その後も、井手は詠美のことを完全に忘れたわけではない。
新しい男を見つけて幸せな人生を歩んでほしいと、そう願っていた。
いや、本音の部分では、やはり未練もあったのだろう。
どうであれ、井手は特殊な仕事の時代も、私立探偵になってからも、詠美の現状は折に触れて調べていた。
詠美は井手と別れてから現在まで、再婚はしていない。
言い寄る男はいたし、数人とは交際もしたが、長続きしなかったようだ。
今は保育師として働きながら、1人で暮らしている。
既に井手は特殊な仕事を辞めているが、詠美とヨリを戻すつもりは無い。
1つには、辞めた後も危険が完全に去ったわけではないと考えているからだ。
しかし最も大きな理由は、もう詠美に近付かないことが、男としてのケジメだと考えているからだ。
だから井手は離婚して以来、一度も彼女と会っていない。
その詠美が、動画の中に映っていた。
井手を脅すための人質として、拘束されていた。
その両目は恐怖のためか焦点が定まらず、顔はブルブルと小刻みに震えている。
音声は入っていなかったが、助けを求めて叫ぼうとしていたかもしれない。
犯人に拉致された時も、その場所に連行されるまでの間も、ずっと震えていたのかもしれない。
逃げようと抵抗して、暴力を振るわれたかもしれない。
井手の想像力は、悲痛を強める方向へと膨らんだ。
しかも、ただ監禁されているだけではない。
彼女の首には、金属製の首輪が巻かれていた。
首輪の正面には、デジタル表示のタイマーが付いている。
その首輪の正体は、“MG=フィン”である。
それは時限爆破装置ならぬ、時限毒物注射装置だ。
かつて、ゲーム感覚で犯行を繰り返した大学生グループが作り出した物である。
タイマーで定められた時間になると、首輪に内蔵された注射針が飛び出してノドに刺さる。
その針から毒薬が注射され、首輪を付けている人間が死亡するという仕掛けだ。
大学生グループは、適当に選んだ人々を拉致してMG=フィンを取り付け、強盗などの犯罪を強要するという事件を起こしたのだ。
時限爆弾でなく注射にしたのは、MG=フィンを付けられた相手が自分達を道連れにしようと企てる可能性も考えてのことだった。
注射にしておけば、首輪を付けられた本人以外が犠牲になることは無い。
そのMG=フィンが、詠美の首に巻かれていた。
動画の途中で画面の左側から何者かの腕が伸び、タイマーをスタートさせた。
その時点では、タイマーは残り2時間だった。
すなわち、それが詠美にとっての、そして井手にとってのタイムリミットということになる。
井手は、詠美の顔を思い出す。
こうしている今も、彼女は確実に死へと向かっているのだ。
(俺のせいで・・・・・・)
井手の心は、歯がゆさに悶えた。
「どうする、今からでも依頼を断るか?」
男は井手をあざ笑うかのように、問い掛けた。
「彼女を見殺しにしてもいいということなら、断ってくれても構わないが」
「やってやるさ」
井手は男の声に被せるように即答した。
「仕事はやってやる。だが、彼女に何かあったら許さんからな」
「それは君の心掛け次第だよ」
イヤホンの向こう側で、男は不敵に笑った。
養陸勲は、無機質な部屋にいた。
35歳の彼は、赤く染めた髪をソフトモヒカンにしており、紫色のタンクトップにベージュのカーゴパンツという格好だ。
タンクトップを着ているのは、隆々たる筋肉を見せびらかしたいからだ。
マッチョな体は、まるでプロレスラーのようにも見える。
しかし実際にはレスラーでも格闘家でもなく、かつてシカゴの犯罪組織の一員だったという経歴を持つ男である。
体はマッチョだが、銀縁メガネを掛けた顔立ちはインテリ風だ。
そのアンバランスさが、何とも言えない不気味さを醸し出している。
養陸はゴロリと寝転び、漫画雑誌を読んで時間を潰している。
傍らには、何冊もの雑誌が山積みになっている。
部屋にはテレビもラジオも音楽プレーヤーも置いていないため、時間を潰すには漫画を読むぐらいしかやることが無いのだ。
テレビやラジオどころか、家具や調度品さえ一切無い。
ある物と言えば、ビデオカメラと置時計ぐらいだ。
ガランとした20畳のワンフロアである。
壁や天井は灰色で、何の飾り気も無い。
部屋には大きな窓が1つだけあり、カーテンが締め切られている。
「楽なことは楽だが、しかし暇だな」
養陸は大きな欠伸をして、チラッと視線を壁際に移した。
1人の女性が壁にもたれかかり、頭を落として座っている。
詠美だ。
ストレートの黒髪、淡いグリーンのカーディガンにカーキ色のロングスカート。
まるで死んだように動かないが、ちゃんと呼吸はしている。
つい先程、抵抗を試みて養陸に殴られ、気を失ったのだ。
右の頬には、その時に出来た赤黒いアザがある。
詠美の首には、MG=フィンが巻かれている。
正面のタイマーは、確実に時を刻んでいる。
首輪の後ろ部分には、ダイヤル式のロックが付いている。
4つの数字が合わないと、MG=フィンを外すことは出来ない。
しかも間違った数字にセットした状態で、MG=フィンを外そうとして引っ張ると、その衝撃で針が飛び出す仕掛けになっている。
つまり数字の組み合わせを順番に試していき、首輪を外そうと試みるのは自殺行為だということだ。
また、首輪は頑丈に作られており、通常の道具では切断することも不可能だ。
この部屋に詠美を拉致してきたのは、養陸だ。
帰宅する彼女を待ち伏せし、ライトバンに押し込んだ。
アーミーナイフを突き付けて脅し、この場所へ連行した。
そしてビデオを回し、タイマーをセットした。
その後は、次の指示があるまで、詠美の見張りも兼ねてその部屋で待機することになっていた。
とは言っても、詠美は気を失っており、特に神経を使う必要性も無い。
そもそも相手が弱々しい女性なので、逃げようとしても簡単に捕まえられるという自信が養陸にはある。
そのため、養陸はすっかり気を抜いている。
楽な仕事だという感覚よりも、退屈への不満が気持ちの多くを占めるようになっていた。
養陸は体を起こし、あらためて詠美を眺める。
30代後半という年齢にしては、かなり若く見える。
ほとんど化粧はしていないが、肌には張りがある。
典型的な美人顔ではないが、男を惹き付ける艶っぽさがある。
少なくとも、養陸は確実に性欲を刺激されていた。
人質に手を出すなという命令を受けている養陸だったが、退屈が判断力を低下させつつあった。
彼はゴクリと唾を飲み、ゆっくりと詠美に近付こうとする。
その時、玄関からガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえた。
養陸の体が、ビクンと緊張で強張る。
ドアが開いて1人の女性が姿を現し、養陸は息をついた。
「お前かよ、ビビらせるなよ」
養陸は、口を尖らせる。
「いきなり文句を言われる筋合いは無いわね」
訪れた女、賀庄美奈は、冷徹な視線を向ける。
その両手には、紙袋を抱えている。
「お腹が空くと困るだろうから、食料を買って来てあげたのよ」
「そうか、それは助かる」
養陸は立ち上がり、美奈から紙袋を受け取った。
美奈は25歳、ショートボブで、VネックのロングTシャツにデニムのショートパンツという服装だ。
小柄な体で、豊満な乳房と形のいい尻を揺らしている。
昔でいうところのトランジスター・グラマーだ。
詠美が漂わせるような大人の色香は無いが、健康的な色気がある。
「ちょっと、まさか殺したんじゃないでしょうね」
動かない詠美を見て、美奈は養陸を責めるような口調で尋ねた。
「殺すかよ。ただ騒ごうとしたから、殴って気絶させただけだ」
「ホントに乱暴なんだから。ちゃんと仕事はしてよね」
美奈は養陸が自分の胸元を見つめていることに気付きながらも、そ知らぬ素振りで言う。
「仕事?ああ、見張りのことか。一応、やってるさ」
養陸は、乳房から視線を離した。
「だけど仕事と言っても、ただボーッとしてるだけだからな。退屈でしょうがないぜ」
「ボーッとしてるんじゃなくて、見張りでしょ。退屈と言っても、それが仕事なんだから」
「でもさ、あの女、気を失ってるんだぜ。逃げる心配も無いし、見張りと言うほどのことでもないだろ」
養陸は両腕をダラリと伸ばして言う。
「勲、それでも仕事は仕事よ。命じられた以上、ちゃんとやってよね」
厳格な態度で、美奈は年上の養陸に指示を出す。
呼び捨てにされた養陸だが、それを甘んじて受け入れている。
「ああ、分かってるさ。仕事はちゃんとやる」
「それじゃあ、アタシは行くからね」
「えっ、もう行くのか」
「当たり前でしょ、用事は済んだのよ」
「しばらくいてくれよ。暇なんだよ」
「アタシがいても、することは無いでしょ。それに、アタシにも仕事があるのよ」
「何だよ、だったら、その仕事を俺にさせてくれればいいのに」
「それはリーダーが決めることよ。じゃあ、後は頼んだわよ」
美奈はそう言って、背中を向ける。
「ちぇっ、俺だって仲間なんだぜ。外れの仕事ばかりさせんなよな」
養陸は不満を漏らしながら、置時計に目をやった。
時刻は9時17分。
タイムリミットまで、残り1時間43分。