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「それで、その『AJ』へ行って何をすればいいんだ?」
井手は歩きながら、マイクを通して男に尋ねる。
「仕事に使う道具を渡す」
「武器だな。ライフルか、それとも爆弾か」
「待て。言葉には注意しろ」
男が厳しい口調で命じる。
「何のことだ?」
「通りすがりの人々が不審に思っては困る。爆弾だの、殺人だのと、物騒な言葉は使わないようにしろ」
「そっちは自由に喋って、俺には禁止事項があるのか」
「立場が違うからな。それと、あまり大きな声で喋るな」
「注文が多いな」
「何しろ事が事だけに、注文も多くなってしまうのだ。守ってもらえるだろうな?」
「ああ、守ってやるよ」
井手はしかめ面をしながらも、声を潜めて返答した。
「それで、道具ってのは何だ?」
「それは行けば分かる」
「どういう方法を取るのか、教えてくれないのか」
「せっかちな奴だな」
「早く教えてもらわないと、行動の計算が立たない」
「それは殺しの計算かな。それとも、この仕事から逃げるための計算かな」
男は、含みのある言い方をする。
「お前が俺に求めているのは、どういう仕事か分かっているのか」
井手は質問には答えず、言葉をぶつける。
「いきなり準備も無しに赴いて、簡単に出来るようなことじゃないんだぞ」
「そんなことは、君に説教されなくても分かっているよ」
淡々とした口調で男が述べる。
「だが、あまり早い段階で計画を全て明かすと、君は別の計算を始める危険性があるのでね」
「そんなことを言って、本当は何も考えていないというオチじゃないのか」
井手は挑発するように言う。
しかし、男は全く挑発に乗って来ない。
それどころか、ますます落ち着いた物腰になる。
「まあ、君はこちらの指示に従っていればいい。それで全ては上手く運ぶ」
「そう願いたいものだな」
井手は言いながら、辺りをキョロキョロと見回す。
自分を監視している人物がいないかどうか、確かめるためだ。
携帯電話を持って行こうとした時、男はそれを見抜いたかのような言葉を口にした。
それは、井手の近くに見張りがいたからなのか、それとも行動の先読みが当たっただけなのか。
少なくとも、その時点で見張り役らしき人物は見当たらなかった。
だが、瞬時に身を隠したのかもしれない。
見張りがいる疑いは、まだ完全に解消されたわけではない。
雑居ビルを出てからずっと、井手は辺りを注意深く観察している。
人通りは、それほど多くない。
それは、井手がそういうルートを選んで歩いているからだ。
もしも人通りが多いと、監視役がいても判別することが難しい。
井手は背後を歩く男に気付き、警戒心を強める。
だが、その男は早足で井手を追い越し、脇目も振らず去って行く。
何の関係も無い人物のようだ。
その男が去った後、周りに人通りは無くなった。
井手は周囲の建物を注意深くチェックするが、自分に視線を向けている人物は見当たらない。
遠くの建物に見張りがいるケースも無いとは言えないが、その可能性はゼロに近いだろう。
移動する井手を常に監視するためには、同じ場所に留まっていたのでは難しい。
相手も移動する必要があるはずだ。
(やはり、見張りの存在は無いようだな)
井手は、確信に近い考えに至った。
だとすれば、携帯電話に関する男の言葉は、偶然にも的中しただけということになる。
(いや、単なる偶然とは言い切れないな)
自分ならそういう行動を取ることを、相手が熟知していたのではないかと井手は考えた。
しかし彼は、そのことに関する思考を中断し、ある目的を持った行動を開始する。
井手は、『AJ』へ向かう道を外れた。
見張りがいないとすれば、マイクがあるので声や音に注意する必要はあるが、動きに関しては大丈夫だろうと考えたのだ。
彼は早足になり、自らの目的地へと向かう。
しばらく歩き、井手は目指す場所に接近した。
その時、イヤホンに男の声が聞こえてきた。
「おい、どこへ行くんだ?」
「どこって、『AJ』へ向かうんだろう?」
井手は落ち着き払った態度で答える。
それに対して、男は冷静に指摘した。
「だが、そっちに『AJ』は無いぞ」
その言葉を聞き、井手の動きが止まった。
(バレている・・・・・・?)
井手は、また辺りを見回した。
だが、周囲に人の姿は全く無い。
遠くのビルやマンションへも視線を向けたが、それらしき人影を見つけることが出来ない。
(だとすると・・・・・・)
井手は胸ポケットから箱型の装置を取り出し、凝視した。
「そうか、発信機だな」
「その通り」
男は小さく笑った。
「君に渡した装置には、発信機が取り付けてある。どこに行っても分かるぞ」
「用意がいいな」
「まあな。それで、どこへ行く気だった?誰かに助けでも求めようとしたのか」
「小便がしたくなったから、公衆トイレに寄ろうとしただけだ」
井手は心の動揺を悟られないように努めながら、釈明の言葉を捻り出した。
「ほう、なるほど」
男は、ゆったりとした口調で言う。
「しかし、ミリタリー・ショップは公衆トイレではないぞ」
「むっ」
井手は、うなった。
確かに、井出が辿り着いたのは、ガレージを改造したミリタリー・ショップだった。
ミリタリー・ショップ『フィッシャー』は既に営業時間が終わり、シャッターが閉まっている。
ガレージの左横には、縦に細長い店の事務所が隣接している。
「ふふっ、発信機に気付いたところまでは良かったが、それだけではないのだよ」
男が不敵に笑う。
「何だと?」
「ピンバッジ型のカバーに、超小型カメラが内蔵されているのだ」
井手は、視線をピンバッジ型カバーに落とす。
良く見ると、極小の穴が開いている。
「君ほどの男が、発信機にも隠しカメラにも気付かないとはな」
男は嬉しそうに言う。
「ヒッチを辞めて、感覚が鈍ったのかな」
「そうかもな」
井手は唇を歪める。
しかし発信機やカメラがあるのなら、道を外れた時点で分かったはずだ。
男は『フィッシャー』に辿り着くまで、わざと泳がせたということになる。
(こいつ、遊んでいるのか・・・・・・)
井手の脳裏に、顔の見えぬ相手の得意げな様子が浮かぶ。
「もう、妙な真似はするなよ。5秒以内に、そこから走って離れるんだ」
男の冷徹な命令が届いた。
「・・・・・くそっ」
井手は苛立ったように声を上げ、拳を壁に叩き付けた。
そして男に命じられた通り、その場から走り去った。
井出が去った直後、『フィッシャー』の事務所のドアが開いた。
中から、オレンジ色のスカジャンにジーンズ姿の男性が現われる。
『フィッシャー』の店主、尾西常斗だ。
大きな耳と鉤鼻が特徴的な、53歳の男である。
井手が壁に拳を叩き付けたのは、苛立ちから来る行動ではなかった。
そう思わせて音を立て、中にいる尾西に気付かせるためだったのだ。
尾西はガレージの前に出て、窪んだ目で辺りを見回す。
そして彼は、地面に落ちているキーホルダーを発見した。
革細工にモルガンコインが付いたキーホルダーだ。
尾西はキーホルダーを拾い上げ、つぶやく。
「これは、井手の物だな・・・・・」
この時、9時12分。
タイムリミットまで、残り1時間48分。