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井手は、須藤邸のトイレを拝借していた。
緊張で小便がしたくなった、というわけではない。
仕事の準備をするためだ。
井手は、忍ばせていたワルサーPPKを取り出した。
便器の水を流して音を出し、サイレンサーをセットする。
ワルサーをジャケットの右ポケットに収め、スーツを整える。
「よし」
小さく言って、井手はトイレを出た。
廊下では、肘井が待っている。
「よろしいですか」
「ああ、どうも」
「須藤博士がお待ちです。書斎へご案内しますので」
肘井は、井手を先導する。
廊下を歩きながら、井手は周囲の様子に目を配る。
どうやら、家の中にボディーガードはいないようだ。
監視カメラの類が設置されている様子も無い。
「何か?」
キョロキョロしている井手に気付き、肘井が尋ねる。
「いえ、別に。いい家だと思いまして」
心にも無い誉め言葉で、井手は取り繕う。
階段を上り、廊下の右側にあるドアの前で、肘井は立ち止まった。
「ここが博士の書斎です」
肘井は、そう言ってドアをノックした。
「どうぞ」
中から須藤の声がする。
ドアを開けた肘井は、井手を招き入れた。
井手は、正面を見据える。
須藤が机の向こう側で、革張りの椅子に腰掛けている。
「博士、井手様をお連れしました」
肘井が、うやうやしくお辞儀をする。
「ありがとう。下がっていいぞ」
座ったままで、須藤が言う。
「はい」
肘井は井手をチラッと見やってから、部屋を出た。
井手は、素早く部屋を見回す。
書斎というだけあって、両側の壁には背の高い本棚が3つずつ並んでいる。
「久しぶりだな、井手君」
須藤は言葉で歓迎の意思を示し、椅子から立ち上がった。
「ええ、お久しぶりです」
井手には、須藤がやや緊張しているように見えた。
(まさか気付いているのか・・・・・・?)
かすかな不安を抱きつつ、井手は須藤に歩み寄る。
「もうすぐ学会があるので、そこで発表する論文をまとめていたんだ」
そう言って須藤は、パソコンの画面を指差した。
井手は横目で画面をチラッと覗く。
一瞬、驚きが顔に浮かぶ。
彼は首を伸ばし、顔を捻った無理な姿勢で画面に視線を向ける。
「どうだい、この論文は」
「薬学は門外漢ですから、良くは分かりませんが」
姿勢を戻し、淡々とした口調で井手が言う。
「そうか、そうだな」
「また新たな解毒薬の研究をしているんですか」
「ああ、もちろん。体が動く内は研究を続けるつもりだよ」
「まだまだ意欲が旺盛ですね」
喋りながら、井手は椅子にクッションが置いてあるのを確認する。
腰痛を和らげるためのものだろう。
「ところで井手君、わざわざ私の元へ来るからには、何か特別な用事でもあるんだろう?」
須藤の方から、そんなことを切り出した。
その顔は、さらに緊張が増しているように見える。
「ええ、実は大事な用がありまして」
そう言いながら、井手は右手をポケットに入れ、ワルサーを握る。
「どんな用かね」
「何の恨みもありませんが、諸事情あって死んでもらいます」
「むっ?」
須藤がたじろいだ直後、井手は一気に距離を詰める。
素早くクッションを掴み、それを須藤の顔面に押し付けて大きな声が出せないようにする。
ワルサーを構え、クッションに向けて引き金を引く。
ヒュン。
小さな発射音と共に、弾丸がクッションを貫く。
「うぐっ」
小さなうめき声が、須藤の口から漏れる。
クッションで顔を隠されたまま、須藤の体が椅子へと沈む込む。
井手は無表情で、須藤博士に背を向ける。
「終わったぞ」
マイクに向かって、井手が報告する。
「本当に殺すとはな。女のためなら人殺しも平気というわけか」
男が淡々と言う。
「お前がやらせたんだろうが。さあ、こっちは約束を果たしたんだ、そっちも約束を守ってもらおう」
ワルサーをポケットに戻しながら、急かすように井手が言う。
「約束?」
「とぼけるなよ、MG=フィンを外して、詠美の居場所を教えろ」
「ふふっ、そうだな。では、自分で場所を探して、勝手に助けるんだな」
男は、ややバカにしたような口調で言う。
「教えるつもりは無いということか」
井手は感情を高ぶらせることもなく、確認としての質問をする。
「博士の殺害が終われば、もうお前に利用価値は無い。そんな人間にエサを与える必要は無いということだ」
冷淡な宣告が、男から発せられる。
だが、井手はその答えを覚悟していた。
「そんなことだろうと思ったぜ」
井手は言い終わるや否や、マイクとイヤホンを乱暴に外した。
それらを床に置き、踏み潰して装置を破壊する。
そして彼は須藤に向き直り、言った。
「もう喋っても大丈夫ですよ」
「そうか」
須藤は目を開けて、深く呼吸した。
彼は死んでいなかった。
先程の井手の射撃は、博士を狙ったのではなく、角度を調整してクッションだけを撃ち抜いたものだったのだ。
「詳しい事情は分からないが、どうやら大変なことになっているようだな。森君からのメッセージを見た時には、まさかと思ったが」
須藤はそう言って、パソコンの画面に目を向けた。
そこには、森が送ったメッセージがあった。
「井手不二雄が別れた妻を人質に取られ、何者かに博士の暗殺を命じられました。井手がそちらに向かいますが、博士を殺すことはないでしょう。ただし、何か不可解な行動を取る可能性はあります。その時は、どうか彼に従ってください。なお、監視や盗聴の可能性がありますので注意してください」
そのような文面を、森は井手の事務所のパソコンから、須藤の元へ送っていた。
井手が書斎に来た時、須藤が見せたのは論文ではなく、そのメッセージだった。
それに気付いたため、井手は隠しカメラに画面が映らないよう、不自然な姿勢で覗き込んだのだ。
「すみません、博士を巻き込んでしまって」
「いや、謝ることは無いよ。しかし死ぬ時のうめき声は、少しやりすぎだったかな」
井手がワルサーを発射した時、須藤はその意図を理解し、死んだフリをしたのだ。
「いえ、いい芝居でしたよ。さすが博士だ、状況判断の能力に優れていますね」
「そう言ってもらえると嬉しいが」
「それで博士、もう少し芝居を続けてもらえますか」
井手は言う。
「というと?」
「まだ詠美は解放されていません。彼女を探すための時間が欲しい。ですから、しばらくは博士が死んだと敵に思い込ませておきたいのです」
「なるほど、つまり私は死体であり続ければいいんだね」
「ええ、外には出ないで、電話も受けないようにしてもらえると助かります」
「分かった、そうしよう。それで、君は奥さんの居所について、心当たりはあるのかい?」
「いえ、ありませんが、とにかく探さないと。それでは博士、また」
「ああ、では私は、死に続けるとしよう」
博士が椅子に座るのを目の端で確認しながら、井手は部屋を出た。
階段を下り、応接室の前を通ると、そこに肘井がいた。
ソファーに深く腰を掛け、廊下を凝視している。
「もうお帰りですか」
肘井は井手の姿を見て、パッと立ち上がる。
「ええ、また機会があれば来ますよ」
そう言って、井手は肘井の前を通り過ぎる。
「ご苦労様」
と肘井が言うが、井手は振り返らず、時計を気にする。
時刻は10時23分。
タイムリミットまで、残り37分。




