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タイムリミット7200  作者: 古川ムウ
16/23

<16>

 井手は、須藤邸のトイレを拝借していた。

 緊張で小便がしたくなった、というわけではない。

 仕事の準備をするためだ。


 井手は、忍ばせていたワルサーPPKを取り出した。

 便器の水を流して音を出し、サイレンサーをセットする。

 ワルサーをジャケットの右ポケットに収め、スーツを整える。

 「よし」

 小さく言って、井手はトイレを出た。

 廊下では、肘井が待っている。


 「よろしいですか」

 「ああ、どうも」

 「須藤博士がお待ちです。書斎へご案内しますので」

 肘井は、井手を先導する。

 廊下を歩きながら、井手は周囲の様子に目を配る。

 どうやら、家の中にボディーガードはいないようだ。

 監視カメラの類が設置されている様子も無い。


 「何か?」

 キョロキョロしている井手に気付き、肘井が尋ねる。

 「いえ、別に。いい家だと思いまして」

 心にも無い誉め言葉で、井手は取り繕う。

 階段を上り、廊下の右側にあるドアの前で、肘井は立ち止まった。

 「ここが博士の書斎です」

 肘井は、そう言ってドアをノックした。

 「どうぞ」

 中から須藤の声がする。


 ドアを開けた肘井は、井手を招き入れた。

 井手は、正面を見据える。

 須藤が机の向こう側で、革張りの椅子に腰掛けている。

 「博士、井手様をお連れしました」

 肘井が、うやうやしくお辞儀をする。

 「ありがとう。下がっていいぞ」

 座ったままで、須藤が言う。

 「はい」

 肘井は井手をチラッと見やってから、部屋を出た。


 井手は、素早く部屋を見回す。

 書斎というだけあって、両側の壁には背の高い本棚が3つずつ並んでいる。

 「久しぶりだな、井手君」

 須藤は言葉で歓迎の意思を示し、椅子から立ち上がった。

 「ええ、お久しぶりです」

 井手には、須藤がやや緊張しているように見えた。

 (まさか気付いているのか・・・・・・?)

 かすかな不安を抱きつつ、井手は須藤に歩み寄る。


 「もうすぐ学会があるので、そこで発表する論文をまとめていたんだ」

 そう言って須藤は、パソコンの画面を指差した。

 井手は横目で画面をチラッと覗く。

 一瞬、驚きが顔に浮かぶ。

 彼は首を伸ばし、顔を捻った無理な姿勢で画面に視線を向ける。


 「どうだい、この論文は」

 「薬学は門外漢ですから、良くは分かりませんが」

 姿勢を戻し、淡々とした口調で井手が言う。

 「そうか、そうだな」

 「また新たな解毒薬の研究をしているんですか」

 「ああ、もちろん。体が動く内は研究を続けるつもりだよ」

 「まだまだ意欲が旺盛ですね」

 喋りながら、井手は椅子にクッションが置いてあるのを確認する。

 腰痛を和らげるためのものだろう。


 「ところで井手君、わざわざ私の元へ来るからには、何か特別な用事でもあるんだろう?」

 須藤の方から、そんなことを切り出した。

 その顔は、さらに緊張が増しているように見える。

 「ええ、実は大事な用がありまして」

 そう言いながら、井手は右手をポケットに入れ、ワルサーを握る。

 「どんな用かね」

 「何の恨みもありませんが、諸事情あって死んでもらいます」

 「むっ?」


 須藤がたじろいだ直後、井手は一気に距離を詰める。

 素早くクッションを掴み、それを須藤の顔面に押し付けて大きな声が出せないようにする。

 ワルサーを構え、クッションに向けて引き金を引く。

 ヒュン。

 小さな発射音と共に、弾丸がクッションを貫く。

 「うぐっ」

 小さなうめき声が、須藤の口から漏れる。

 クッションで顔を隠されたまま、須藤の体が椅子へと沈む込む。

 井手は無表情で、須藤博士に背を向ける。


 「終わったぞ」

 マイクに向かって、井手が報告する。

 「本当に殺すとはな。女のためなら人殺しも平気というわけか」

 男が淡々と言う。

 「お前がやらせたんだろうが。さあ、こっちは約束を果たしたんだ、そっちも約束を守ってもらおう」

 ワルサーをポケットに戻しながら、急かすように井手が言う。

 「約束?」

 「とぼけるなよ、MG=フィンを外して、詠美の居場所を教えろ」

 「ふふっ、そうだな。では、自分で場所を探して、勝手に助けるんだな」

 男は、ややバカにしたような口調で言う。


 「教えるつもりは無いということか」

 井手は感情を高ぶらせることもなく、確認としての質問をする。

 「博士の殺害が終われば、もうお前に利用価値は無い。そんな人間にエサを与える必要は無いということだ」

 冷淡な宣告が、男から発せられる。

 だが、井手はその答えを覚悟していた。

 「そんなことだろうと思ったぜ」


 井手は言い終わるや否や、マイクとイヤホンを乱暴に外した。

 それらを床に置き、踏み潰して装置を破壊する。

 そして彼は須藤に向き直り、言った。

 「もう喋っても大丈夫ですよ」


 「そうか」

 須藤は目を開けて、深く呼吸した。

 彼は死んでいなかった。

 先程の井手の射撃は、博士を狙ったのではなく、角度を調整してクッションだけを撃ち抜いたものだったのだ。


 「詳しい事情は分からないが、どうやら大変なことになっているようだな。森君からのメッセージを見た時には、まさかと思ったが」

 須藤はそう言って、パソコンの画面に目を向けた。

 そこには、森が送ったメッセージがあった。

 「井手不二雄が別れた妻を人質に取られ、何者かに博士の暗殺を命じられました。井手がそちらに向かいますが、博士を殺すことはないでしょう。ただし、何か不可解な行動を取る可能性はあります。その時は、どうか彼に従ってください。なお、監視や盗聴の可能性がありますので注意してください」

 そのような文面を、森は井手の事務所のパソコンから、須藤の元へ送っていた。

 井手が書斎に来た時、須藤が見せたのは論文ではなく、そのメッセージだった。

 それに気付いたため、井手は隠しカメラに画面が映らないよう、不自然な姿勢で覗き込んだのだ。


 「すみません、博士を巻き込んでしまって」

 「いや、謝ることは無いよ。しかし死ぬ時のうめき声は、少しやりすぎだったかな」

 井手がワルサーを発射した時、須藤はその意図を理解し、死んだフリをしたのだ。

 「いえ、いい芝居でしたよ。さすが博士だ、状況判断の能力に優れていますね」

 「そう言ってもらえると嬉しいが」

 「それで博士、もう少し芝居を続けてもらえますか」

 井手は言う。

 「というと?」

 「まだ詠美は解放されていません。彼女を探すための時間が欲しい。ですから、しばらくは博士が死んだと敵に思い込ませておきたいのです」

 「なるほど、つまり私は死体であり続ければいいんだね」

 「ええ、外には出ないで、電話も受けないようにしてもらえると助かります」

 「分かった、そうしよう。それで、君は奥さんの居所について、心当たりはあるのかい?」

 「いえ、ありませんが、とにかく探さないと。それでは博士、また」

 「ああ、では私は、死に続けるとしよう」


 博士が椅子に座るのを目の端で確認しながら、井手は部屋を出た。

 階段を下り、応接室の前を通ると、そこに肘井がいた。

 ソファーに深く腰を掛け、廊下を凝視している。

 「もうお帰りですか」

 肘井は井手の姿を見て、パッと立ち上がる。

 「ええ、また機会があれば来ますよ」

 そう言って、井手は肘井の前を通り過ぎる。

 「ご苦労様」

 と肘井が言うが、井手は振り返らず、時計を気にする。



 時刻は10時23分。



 タイムリミットまで、残り37分。


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