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名砂恵理は自宅マンションを出て、駐車場へ向かっていた。
彼女が暮らす高級マンションは、賃貸ではなく分譲だ。
恵理は38歳、アメリカ人の祖母を持つクォーターで、英語・ドイツ語・フランス語が堪能だ。
パステルブルーのコットンストレッチジャケットに、ホワイトのパンツルック。
厚い唇と口元のホクロが印象的な女性だ。
彼女は8年前から、笹島成人の個人秘書として働いている。
かつては複数の秘書を同時に雇っていた笹島だが、現在は恵理だけだ。
年齢を感じさせない若さと美貌から、恵理には笹島の愛人という噂があるが、肉体関係は何も無い。
恵理が採用された時点で、笹島は80歳を越えていたし、さすがに性欲も減退していた。
笹島は、恵理を娘のように可愛がっていた。
愛人という噂が消えないのは、たぶん恵理が独身だということも影響しているだろう。
寄って来る男がいなかったわけではないし、交際した男性も少なくない。
しかし恵理の気の強さが原因で、全て上手く行かなかった。
もう彼女は結婚を諦め、仕事に生きようと心に決めている。
今の部屋を購入したのも、これから乗ろうとしているフェラーリF430を手に入れたのも、それと関係している。
1人で生きていくことを決めてから、自分へのご褒美として積極的に金を使うようになったのだ。
駐車場にやって来た恵理は、フェラーリに歩み寄った。
その時、彼女はいきなり何者かに背後からナイフを突き付けられ、手で口を塞がれた。
「騒ぐな、俺だ、森秀嘉だ」
森は、耳元でささやくように言う。
「いいか、手を口から離すが、騒ぐなよ」
そう言われて、恵理はコクリとうなずいた。
「よし、こっちを向け」
森はナイフをかざしたまま、恵理と正対した。
「お久しぶりね、森さん」
恵理は唇を手の甲で拭いた。
どこか余裕を感じさせる態度だ。
「相変わらず、勝ち気な女だな」
森は、眉をひそめた。
恵理は笹島の個人秘書をしていた関係で、ヒッチのことは知っているし、森とも面識がある。
ただし、笹島は数人の秘書を雇っていたが、全員がヒッチについて知らされていたわけではない。
笹島はヒッチ担当の秘書を1人に絞り込み、それ以外の面々には何も知らせなかった。
そのヒッチ担当秘書の二代目が、恵理である。
初代の秘書が参議院議員に転身したため、彼の紹介で恵理が新たに雇われたのである。
前任者が辞めた時、既に雇われている別の秘書が新たなヒッチ担当者になるだろうと、森や尾西らは噂していた。
ところが、新しく入ったばかりの若い女性がヒッチ担当者になったため、彼らは戸惑いを隠せなかった。
「あんな女に何が出来るのか」
という考え方を抱く者も、ヒッチの中には存在した。
笹島がいない時には、恵理を煙たがる態度を露骨に見せる者もいた。
ヒッチ担当を辞めるよう、追い込もうとしていた者さえいる。
尾西も、そこまで酷くはなかったが、あまり好意的な態度は示さなかった。
それに対して森は、最初の戸惑いこそあったが、特に嫌な顔をすることもなく普通に接していた。
井手はどうかというと、前任者と同じように接していた。
それはつまり、特に仲良くするわけでもなく、適度な距離を置いて事務的に接するということだ。
それだけでなく、恵理に嫌がらせをするメンバーに対して
「カッコ悪いことはやめておくんだな。たぶん彼女は、お前らに負けるようなタマじゃないぞ」
とクールに言っていた記憶が、森の中には残っている。
実際、井手が言った通り、恵理は負けなかった。
ヒッチの複数メンバーによる意地悪な態度にもめげず、厳格な態度を貫いた。
屈するようなことも、泣き言を言うようなことも無かった。
最初は嫌がる態度を示していた面々も、次第に彼女を受け入れるようになっていった。
「悪いな、手荒な真似をして」
森が言う。
「こういうことは慣れていないんだが」
「でしょうね。ナイフの構え方が、なっていないわよ」
恵理は、冷たい目で森を見据える。
護身術を学んでいる恵理にとって、森の襲撃は甘すぎるものだった。
その気になれば、背後から襲われた時に投げ飛ばすことも容易に出来た。
だが、相手が誰なのかを知って、抵抗するのをやめたのだ。
「何しろ緊急事態なんでね。ちょっとアンタに頼みたいことがあるんだ」
「人に何かを頼むにしては、失礼な態度ね」
「だったら命令と受け取ってくれてもいい」
「命令ですって?」
恵理の声が幾分高くなる。
「今すぐに、笹島の邸宅に行ってもらおうか」
「笹島の邸宅へ?」
「ああ。俺が1人で出向くのは賢明じゃないだろうからな」
「こんなことをしなくても、普通に行けばいいんじゃないの」
「そうかな?普通に行ったら、抹殺されるんじゃないか」
「どういう意味よ」
「ニュースで見たぞ、富士見捨夫が自殺したと。元ヒッチの仲間だった富士見だ」
森が言う。
作家の富士見捨夫も、かつてはヒッチのメンバーだったのだ。
「ああ、そうらしいわね」
恵理は淡白な言い方をした。
「何が自殺だ。あいつが自殺するはずが無い。笹島が誰かを使って殺させたんだろう。どんな理由か知らないが、ヒッチのメンバーを始末していくつもりか。隠蔽工作か何かなのか」
「ちょっと、頭がおかしくなったの?そんなこと、するわけがないでしょう」
恵理は苦笑した。
「誤魔化すなよ。喜範の元秘書が警察の事情聴取を受けたらしいが、それと関係あるんじゃないのか」
「あれは全く別の問題よ」
そんな言葉に耳を貸さず、森は矢継ぎ早に言葉を畳み掛ける。
「井手の女房を拉致し、須藤博士の抹殺を奴に命じたのも笹島だな。何の目的だ?なぜ須藤博士を狙う?」
「ごめんなさい、言っている意味が良く分からないわ。用事がそれだけなら、私は急ぐから、これで」
恵理は突き放すように言う。
「とぼけるな。こんなことが出来る人物が、笹島以外にいるかよ」
森はナイフを突き出して凄んだ。
その様子を見て、恵理は顔を引き締める。
「どうやら、本当に緊急事態らしいわね」
言葉のトーンも、真剣になった。
「さっきから言ってるだろう」
「井手さんが人質を取られて殺人を命じられたって、本当なのね」
「本当だ。しかも、あまり時間が無いんだ」
「その話は信じるわ。だけど、私は本当に何も知らないのよ」
その言葉を受けて、森は恵理に顔を近付けた。
恵理も目を反らさず、見つめ返す。
「よし、その言葉、信用しよう」
森は、静かにナイフを下ろした。
「どうやらウソは言っていないようだな」
「そう、信じてくれてありがとう」
「全く耳が動かなかったからな」
「耳が?」
「アンタは昔から、ウソをつくと左の耳がわずかに動く癖があるんだ」
「本当に?まるで気付かなかったわ」
「俺も最初は知らなかったよ。井手に教えてもらったんだ」
「へえ、そうなの」
恵理は、思わず左耳に手をやった。
「そんなことは、どうだっていいんだ。それより、アンタが知らないとしても、笹島が密かに指示を出している可能性だってあるぞ」
「笹島が?それは有り得ないわ」
「アンタ、笹島の全てを把握していると思っているのか。それは思い上がりかもしれんぞ」
「そんなつもりは無いけど」
「敵は、井手の過去の経歴を知っている。ヒッチのメンバーの素性は、笹島と数名の関係者しか知らないはずだ。しかも敵は一般の人間が入手不可能なMG=フィンを使用し、須藤博士の暗殺という大きな計画を立てている。それも笹島なら可能だろう。奴以外に、犯人は有り得ない」
「考えが飛躍しすぎよ。むしろ、笹島が犯人なんて有り得ないわよ」
即座に恵理が否定する。
「何か証拠でもあるのか」
「証拠と言われても」
「ほら見ろ、証拠は無いだろう。さあ、早く笹島の家へ行け」
「分かったわよ」
恵理は諦めたように言う。
「だったら、あなたの望み通りにしましょう」
彼女は、車のドアを開けた。
「急げよ、時間が無いんだ」
「時間って、どれぐらいなのよ」
そう言いながら、恵理は腕時計を見る。
時刻は10時16分。
タイムリミットまで、残り44分。




