<10>
森は雑居ビルを出た後、すぐに携帯電話を取り出した。
彼はボタンを押し、ある人物に連絡を取った。
「もしもし」
相手が電話に出る。
「尾西か、俺だ」
森が掛けた相手は、井手が接触を試みた相手・尾西常斗だった。
尾西は、『フィッシャー』の事務所で電話を受けている。
彼は井手と同じように、事務所を住居としても使用している。
ただし井手と違って、生活スペースを区切るようなことはしていない。
「どうした、お前から電話なんて珍しいな」
ノンビリした口調で、尾西が言う。
「緊急事態なんだ。手を貸してほしい」
「何かあったのか?」
ピリピリした物言いを察したのか、尾西の口調も一気に鋭くなる。
「井手が別れた奥さんを人質に取られ、何者かに須藤博士の暗殺を命じられた」
「えっ?そうか、それで奴のキーホルダーが」
「何?」
「ガレージの前に、井手のキーホルダーが落ちていた。きっと、俺に何か伝えようとしたんだな」
「馬鹿野郎が」
森は、思わず尾西を罵った。
「簡単にお前と接触できないから、キーホルダーを落として、助けを求めていることを分からせようとしたんだろうが。それに気付かないとは、お前もヒッチを辞めて鈍くなったのか」
井手や森と同じく、尾西も元ヒッチのメンバーだったのだ。
「そうだな、すまん」
詫びの言葉が、尾西の口から漏れた。
「まあいい、今は井手を助けてやることが大切だ」
すぐに森は怒りを鎮めた。
「敵が奥さんの監禁現場を撮影した動画が、井手の部屋にあった。そっちのパソコンに送っておいたから、場所を調べてくれ」
「分かった、すぐに取り掛かる。だが、お前はどうする?」
尾西が聞く。
「犯人に心当たりがある。俺は今から、そっちへ向かう」
「心当たりだと?」
「ああ、他に考えられん。じゃあ、もう行くからな」
森は電話を切った。
尾西は森との通話を終えた後、ヒッチ時代のことを思い出していた。
15年前、笹島が私設の情報組織を設立しようと思い立ったのは、カルト教団が引き起こした大規模なテロ活動に関する裏情報を知ったことが引き金だ。
事件発生から数年が経過して、実は公安調査庁と警視庁公安部が、それぞれテロ計画に関する情報を掴んでいたことが判明した。
しかし互いの情報交換は全く行われず、さらに調査活動が疎かだったことから、テロを未然に防ぐことが出来なかった。
縦割りの関係によって硬直化した日本の情報機関に楔を打ち込むべく、既存の団体をクロスオーバーするような組織を目指して笹島が創設したのがヒッチである。
メンバーは、警視庁公安部の刑事、防衛庁情報本部の情報官、内閣情報調査室調査官、公安調査官など、様々な組織から笹島の独断で選出された。
後にメンバーの入れ替わりや増員はあったが、初期段階で集められたのは10名だ。
笹島は巨大化した組織の弊害を考え、少数精鋭の方針を取った。
集められた面々はヒッチ結成前に戦闘訓練を受け、エージェントとしての心構えを叩き込まれた。
エリート揃いのメンバーの中で、リーダーに抜擢されたのは井手だった。
ヒッチの人員が全て揃った後で、笹島は井手を連れて来た。
他のメンバーの経歴はハッキリしていたが、井手の過去だけは全く明かされなかった。
にも関わらず、笹島は井手をリーダーとして紹介した。
当然、他のメンバーからは不満の声も上がった。
経験もプライドもある面々にとって、どこの馬の骨とも分からぬ男に付いていくというのは許容し難いことだ。
フランス外人部隊の兵士だった尾西も、不満を抱いた中の1人だ。
だが、井手は最初のミッションにおいて、その優秀な能力を発揮して不満分子を黙らせた。
それは、南米某国の大使館員による大量の麻薬取引を阻止するというミッションだった。
入手した情報を元に、ヒッチは湾岸の倉庫を張り込むことになった。
しかし井手だけは、
「この情報は不自然だ。何か引っ掛かる」
と計画に反対を唱えた。
井手の意見にヒッチのメンバーは耳を貸さず、計画は予定通りに実行されることになった。
その時点では、井手はヒッチの中で完全に浮き上がった存在だったのだ。
と言うよりも、そもそもヒッチ自体が立ち上げ直後であり、まだ寄せ集めの状態で一枚岩になっていなかった。
井手は、メンバーの中で1人だけ同調の姿勢を見せた森と共に、別行動を取ると主張した。
尾西を始めとする他の面々は、勝手にすればいいと放っておいた。
計画の当日、尾西らは湾岸の倉庫を張り込み、大使館員や取引相手が来るのを待った。
だが、いつまで待っても、倉庫には誰も現われない。
そこへヒッチ本部から、ミッションが完了して麻薬を押収したとの知らせが届いた。
井手と森が、取引現場を急襲したのだという。
倉庫の情報が囮だと推理した井手は、独自の行動で本当の取引現場を突き止め、ミッションを成功させたのだ。
それ以来、ヒッチの面々も井手に従うようになった。
最初の内はギクシャクした関係が残ったが、それもすぐに解消された。
半年も経たない内に、井手は他のメンバーから全幅の信頼を寄せられ、尊敬される存在となった。
しかし結局、井手の過去については明かされないままだった。
元CIA捜査官だったとか、民間軍事会社の傭兵だったとか、様々な推測がメンバー内でなされたが、井手本人は過去について沈黙を守ったため、謎のままだ。
だが、経歴など無関係に、井手はヒッチのリーダーとして確固たる地位を築いた。
尾西が井手のことで最も印象に残っているのは、チャイニーズ・マフィアとの戦闘だ。
チャイニーズ・マフィアが小型爆弾を使った東京での犯罪計画を企てていたため、ヒッチは撃滅作戦を実行することになった。
兵士として幾多の戦いをくぐり抜けてきた尾西は、気合いが入っていた。
他のメンバーはヒッチ加入前に戦闘訓練を受けているとは言え、実戦で鍛えてきたわけではない。
戦闘に関しては自信のある尾西は、そのミッションでは自分が活躍しようと意気込んでいた。
ヒッチはチャイニーズ・マフィアのアジトに潜入し、号令と共に全員が動き、一気にカタを付ける手はずを整えていた。
ところが、潜入したことを敵に気付かれたため、その計画は破綻した。
ヒッチはひとまずアジトの外に退避し、篭城するチャイニーズ・マフィアとの間で激しい銃撃戦が開始された。
そんな中、尾西は単独での突入を試みた。
ミスを取り返したいという焦りからの行動だった。
敵に気付かれたのは、先を急いだ尾西が物音を立てたことが原因だったのだ。
しかし、突入しようとする尾西を止める者がいた。
井手だった。
彼は険しい表情で、
「今の状況で突っ込んでも、無駄に死を選ぶようなものだぞ」
と口にした。
「だが、このままではラチが明かない」
すぐさま尾西は、感情的に反論した。
すると井手は淡々とした口調で、
「誰かが突入しなければならないとしたら、その時はまず俺が行く」
と告げた。
実際、それから約5分後、銃撃が収まった一瞬のタイミングを見計らって、井手は先陣を切ってアジトに突入したのである。
「付いて来い」
井手の命令を受けて、尾西は後に続いたが、その辺りのことは良く覚えていない。
複雑な感情が入り混じった中で、がむしゃらに突き進んだという記憶だけが残っている。
我に返った時には、目の前でチャイニーズ・マフィアのボスが死体となって転がっていた。
呆然と突っ立っているところを、井手にポンと軽く肩を叩かれ、
「終わったぞ」
と言われたことだけは、今でも強烈に覚えている。
その時は自分がボスを射殺したのかと思ったが、後で他のメンバーに聞くと、逆に撃たれそうになったのを井手に助けられたらしい。
その一件があってから、尾西の中には
「井手には敵わない」
という意識が植え付けられたのだった。
ヒッチが解散したのは、突然のことだった。
体調を崩した笹島が、1ヶ月の療養生活を送った末に決定を下したのだ。
笹島がヒッチのメンバーに対して語った解散の理由は、
「もしも自分が亡くなった場合に、ヒッチをコントロールできる代わりの人材が見当たらない」
というものだった。
それならば、頭を失って制御不能になる前に無くしてしまおうというのである。
だが、その言葉を信じる者は、ヒッチの中には誰もいなかった。
笹島が息子の喜範を後継にしようと考えていたことは、誰の目にも明らかだったからだ。
尾西は、その頃になってヒッチという組織に歪みが生じ始めていたことが、解散の動機だろうと確信していた。
その大きな理由は、喜範である。
ヒッチが解散する1年前、笹島は喜範を総帥代理というポジションで組織に引き入れた。
笹島としては、いずれ自分のヒッチ総帥の座を譲りたいという気持ちがあったのだろう。
ところが、この喜範が笹島の期待を裏切る凡庸な人間だった。
時に喜範は笹島の代理としてヒッチに指示を出すことがあったが、要領を得ない文言、無駄の多い内容が目立った。
明らかに誤った命令を出すこともあり、そんな時は井手が独断で指示を変更し、ミッションを遂行していた。
しかし笹島は、息子可愛さゆえに判断力が鈍ったのか、そんな喜範の無能ぶりに全く気付いていない様子だった。
ヒッチのメンバー内では、喜範が加わったことに対する嫌悪感が生じ始めた。
とは言っても、相手は笹島の息子だったため、正面切って反発する者はいなかった。
そんな中で、井手だけは違っていた。
最初は黙っていた井手だが、喜範が軽率にもヒッチの内部情報を外に漏らしそうになった時、我慢が出来なくなったのだろう。
喜範の無能ぶりを笹島に訴え、組織から外すよう直談判したのである。
笹島は井手を高く買っていたが、息子を手厳しく批判され、激昂した。
一度はヒッチからの追放を言い渡したほどだ。
皮肉なことに喜範の説得によって、井手に対する追放宣告は撤回された。
だが、そんな出来事があって以来、笹島と井手の関係はギクシャクしたものになってしまった。
そのことが解散に繋がったのだろうと、尾西は確信している。
尾西は、机の上に置いた井手のキーホルダーに目をやる。
それから、パソコンでメールをチェックする。
確かに、森から添付ファイル付きのメールが届いている。
時刻は9時52分。
タイムリミットまで、残り1時間8分。




