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タイムリミット7200  作者: 古川ムウ
1/23

<1>

 午後9時。

 タイムリミットまで、残り2時間。

 そのことを、まだ井手不二雄は知らない。



 私立探偵の井手不二雄は、雑居ビルの2階にある自宅へ戻ってきた。

 ドアを開け、部屋の明かりを付ける。

 そこは彼の探偵事務所だが、同時に住居でもある。


 築20年を越えた“那輪ビル”は、1階につき1部屋ずつの4階建てという、細長いビルだ。

 1階は理髪店、2階は井手の事務所で、3階と4階は近所に住むインテリア・デザイナーが物置代わりに使っている。

 既に理髪店の営業時間は終わっており、照明が落ちていて誰もいない。

 ビルは表通りから少し奥まった場所にあるため、立地条件が良いとは言えない。


 井手は部屋の鍵をズボンのポケットに収め、奥の生活スペースへ足を向ける。

 彼の部屋は、手前が事務所で、奥が生活スペースだ。

 部屋が2つあるのではなく、16畳のワンフロアを黒板で仕切って区画を分けているだけだ。

 生活スペースは、パイプベッドとポータブルテレビ、ファンシーケースと冷蔵庫があるだけの殺風景な空間だ。


 一方、事務所の方も、事務机と椅子、4つのロッカー、それに来客用のソファーがある程度で、かなり質素な趣だ。

 据え置き式の電話さえ無い。

 依頼主とのやり取りは、全て携帯電話で間に合わせている。



 井手は51歳、無骨な男だ。

 短髪、太い眉、通った鼻筋、割れたアゴ。

 彫りが深く濃い顔立ちから、イタリア系の血が混じっているようにも見られることもあるが、生粋の日本人である。

 ダークグレーのスーツは着古してヨレヨレになっているが、ファッションに無頓着な井手は何とも思っていない。


 井手は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、ゴクゴクと飲む。

 彼は酒もタバコも一切やらない。

 健康に気を遣っているわけではなく、単に嗜好の問題だ。

 甘い物は大好きだし、脂っこい料理も良く食べる。

 それでも引き締まった肉体を保持できているのは、日頃の鍛錬のおかげである。

 彼は器具を一切使わず、己の肉体のみを使ったトレーニングを毎日欠かさずやっている。



 ミネラルウォーターを冷蔵庫に戻した井手は、事務机へ向かい、鷹のような眼差しをパソコンに向けた。

 そして彼は、ネットでニュースをチェックする。

 最初に目を留めたのは、衆議院議員・笹島喜範の元秘書が警察の事情聴取を受けたというニュースだ。

 汚職絡みの事情聴取であり、場合によっては笹島喜範にも捜査の手が及ぶ可能性があるという。


 笹島喜範は二世議員で、その父親は外務大臣や官房長官を務めた経験を持つ笹島成人だ。

 喜範は凡庸な小物だが、笹島成人は相当の大物である。

 かつては「総理製造機」と呼ばれ、政財界に強大な影響力を及ぼしていた。

 20年前に政治の表舞台からは身を引いたが、その後も影のフィクサーとして圧倒的な存在感を示していた。


 90歳となった現在は隠遁生活に入っており、政治の世界でも名前が聞かれることは少なくなった。

 最近では、あるゴシップ誌が「笹島成人は秘密組織のボスだった」という記事を掲載していた。

 ただし取材無しに適当なことばかりを書くことで有名な雑誌だったので、他のマスコミが後追い記事を出すことは無かったが。



 次に井手が目を留めたのは、ある人物の死亡記事だ。

 作家の富士見捨夫が首を吊って自殺したという記事である。

 富士見捨夫は3年前にデビューし、ポリティカル・サスペンスの分野で活躍していた作家である。

 井手は彼のデビュー作を購入したことがあるが、活字が苦手なため10ページで断念した。


 「自殺・・・・・・?」

 井手は、疑問形のつぶやきを漏らした。


 さらに幾つかのニュースをチェックしていた井手の視線は、須藤昇一博士に関する記事で止まった。

 須藤博士は米国で薬の研究に携わっており、“毒物の権威”と呼ばれる人物だ。

 そういう表現だと怪しい人物のようにも聞こえるが、解毒薬の分野で優れた功績を残しているという意味だ。


 世の中には人間にとって毒になるような物質が多く存在するが、その中で解毒薬が知られているものは多くない。

 そんな中、須藤博士はサキシトキシンの解毒薬研究で世界的に注目された。

 その須藤は現在、約1年ぶりに帰国している。

 記事には、須藤博士がボディーガードを雇い、来訪者に身体検査を要求していることが批判的なスタンスで書かれていた。



 ピピピッ。

 井手の携帯電話が鳴った。

 着メロでも着うたでもなく、無愛想な電子音である。

 井手は携帯電話を開き、通話ボタンを押す。


 「もしもし」

 低い声で井手が言う。


 「こんばんは、井手不二雄君」

 電話の相手は、奇妙な声質で告げた。


 「ただの井手不二雄ではなく、元ヒッチの、という但し書きも必要かな」


 その言葉で、井手の中に警戒心が生じた。

 “ヒッチ”という言葉に反応したのである。

 それを知っているのは、限られた人間だけのはずだ。

 しかも相手の声は、明らかに機械的に作られたものだった。

 (ボイス・チェンジャーだな)

 井手は、すぐに察知した。


 「誰だ?」

 ズボンのポケットからタブレットケースを取り出しつつ、井手が尋ねる。

 「ふふっ、私が誰なのかは知る必要が無い」

 相手は、上から物を言う態度だ。


 「そんなことより、君に素晴らしいプレゼントがあるんだ」

 「プレゼント?」

 「パソコンでメールをチェックしてみるといい。“スペシャル・プレゼント”という件名で、たった今、送ったばかりだ」

 機械合成された声だったが、相手が男だということを井手は判別した。


 井手は言われるままに、メールを確認する。

 確かに、“スペシャル・プレゼント”という件名のメールが届いている。

 「添付ファイルの動画を見てみたまえ」

 「動画を?」

 「心配するな、ウイルスを仕込むような、つまらないことはしていない」

 電話の男は井手のためらいを読み取ったかのように、そう言った。


 井手は添付ファイルを開き、動画を再生する。

 その瞬間、彼の顔からサッと血の気が引いた。

 「こ、これは・・・・・・」

 激しい動揺が井手を襲う。

 「ほう、喜んでくれたらしいな」

 男は軽く笑ったが、もちろん井手は喜んでなどいない。


 「ヒッチだった君なら知っているだろうが、それはMG=フィンだ」

 男が落ち着いた調子で言う。

 「やはり、そうか・・・・・・」

 井手は、うめくように言う。

 「説明しなくても分かるだろうが、タイムリミットまで残り2時間を切っているな」


 「何のつもりだ?」

 井手は感情を抑え、尋ねた。

 「ある仕事をやってほしいだけだ」

 「だったら、普通に依頼すればいいだろう」

 「それでは引き受けてもらえないだろうと思ってね。だから、こういう手段を使わせてもらった」

 「ということは、マトモな仕事じゃないんだな」

 「マトモかどうかは、人それぞれの考え方がある。とにかく、その依頼を受けてくれれば、君も私も幸せになれる」

 「拒否すれば?」

 「どうなるかは分かるだろう?」

 「くっ・・・・・・」

 井手は電話を叩き付けたい気分になったが、必死に心を制御した。


 「それで、その依頼の内容は?」

 その問いに、相手の男は淡々と答えた。

 「須藤昇一博士を抹殺してほしい」

 「何だと?」

 「聞こえなかったわけではあるまい。確認したいのか?」

 「須藤博士を殺せだと?本気で言っているのか」

 「そんなことさえ、確認しないと分からないのか」

 男は、馬鹿にしたような口調で言う。

 「だが、なぜ俺に依頼してきた?」

 「そういう仕事は得意だろうと思ってね。それに相手が須藤博士ということなら、君が適任だ」

 (この男、俺と博士の関係まで知っているのか?)

 井手には相手の情報量がどれほどのものなのか、全く掴めなかった。


 「何のために博士を殺すんだ?」

 「理由を知る必要は無い。それに、君に質問する権利は無い」

 「俺は博士を殺すだけの道具ってことか」

 「どう解釈しても結構だが、そんなに無駄話を続けていてもいいのか?どんどん時間は過ぎていくぞ」

 「くそっ・・・・・・分かった」

 井手は、怒りの混じった返事をした。


 「それで、どうすればいいんだ?」

 「この電話を繋いだまま、1階へ行って郵便受けを見ろ」

 「分かった、今行く」

 井手はタブレットケースを事務机の上に置き、部屋の外へ出た。

 ドアに向き直って鍵を掛け、その場に座り込んで何やら手を動かす。

 それから階段を走り、1階へ下りる。

 郵便受けを開けると、小さな機械が入っている。

 ジッポーライターのような金属製の箱からは、2本のコードが伸びている。

 コードの片方の先にはイヤホン、もう片方の先には小型マイクとカモフラージュ用のピンバッジ型カバーが付いていた。


 「郵便受けを見たぞ」

 「それは交信用の装置だ。それを付けるんだ」

 「付ければいいんだな」

 井手は指示されるままに、マイクをスーツの胸元に取り付ける。

 イヤホンを右の耳に差し込み、金属製の箱を胸ポケットに入れる。

 そうしながら、彼は辺りを見回す。

 どこかで相手が見張っているのではないかと考えたのだ。

 だが、それらしき人影は見当たらない


 「付けたぞ」

 井手は携帯電話ではなく、マイクに告げた。

 「よし、それではビルから出ろ。車は使わず、徒歩で移動するんだ」

 イヤホンから、相手の声が聞こえてきた。

 「徒歩だと?」

 「そこから博士の家までは、歩いて行ける程度の距離だからな」

 「つまり、須藤博士は今、家にいるということか」

 「そういうことだ。それに車を使わせると、君が何か策を講じることも考えられる」

 「徒歩で行くのはいいが、どうやって殺すんだ?」

 「それは、いずれ説明する。とりあえず、博士の家へ行く前に、ある場所へ立ち寄ってもらおう。3丁目の『AJ』という店に向かえ。場所は分かるか」

 「いや、知らないな」

 「城南公園は分かるな。その表門から駅とは逆方向へ真っ直ぐ進み、突き当りを右に折れてすぐにある店だ。もう一度言うか?」

 「一度で充分だ」

 井手は、店への道順を頭にインプットした。


 「そうだ、忘れるところだった」

 男の声が、少し高くなる。

 「携帯電話は郵便受けに入れるんだ。余計な真似をされては困るからな」

 「慎重だな」 

 井手は携帯電話の電源を切り、郵便受けを開けてガチャンという音を鳴らす。

 「おっと、まさかとは思うが」

 男が含んだような口調になった。

 「携帯電話を郵便受けに入れたフリをして、密かに持って行こうなんて考えていないだろうな」

 その言葉に、井手の右手がピタリと止まる。

 まさしく、彼は携帯電話をスーツの内ポケットにしまい込もうとしていたところだったのだ。


 「そんなことはしないさ」

 苦い表情で言いながら、井手は静かに携帯電話を郵便受けの中へと置いた。

 「疑い深い奴だな」

 「君のことだから、それぐらいの小細工はするかと思ってね」

 男がほくそ笑んでいるのが、井手には悔しいほど良く分かった。


 井手は、雑居ビルから外の通りへと目をやる。

 見張っている人物を探そうとしたのだ。

 だが、それらしき人物は誰一人として見当たらない。

 「それと、君は利口だからそんなことはしないと思うが、もし警察にでも連絡したら、どうなるか分かっているだろうな」

 男は余裕の口ぶりで言う。

 「たぶん、なるようになるだろうな」

 吐き捨てるように、井手が答える。

 「分かっているなら、いいんだ。さあ、指示された通りに動け」

 「ああ」


 井手は、腕時計に目をやった。

 時刻は9時7分。



 タイムリミットまで、残り1時間53分。


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