6 悲しいキス
焦る気持ちを抑えてエレベーターの5のボタンを押す。事情を飲み込めていない玉木も乗せてエレベーターは5階を目指す。
チンという音がし、ドアが開くと同時に弘樹は外に出た。そして、真っ先に坂井真琴の部屋へ向かっていく。
「坂井さん!成瀬です!開けてください!」
ピンポンピンポンとインターホンを鳴らすが、中からは返事はなかった。どうやら鍵もかかっているらしく、ドアを開けることも不可能だった。
こういうとき、テレビドラマだったら主人公がかっこよくドアを蹴破ったりするのだろうが、弘樹にはそんな芸当はできなかった。
「あの・・成瀬君、どうしたんですか!?」
いまだに状況が飲み込めない玉木が不安そうに尋ねてくる。
「この中の人、もしかしたらストーカーに襲われてるかもしれないんです!」
「す、ストーカー!?」
驚く玉木を置いて、弘樹はどうしようかと考えた。どうやってドアを壊そうかと考えていたため、管理人さんに開けてもらうという発想が思いつかなかった。
そして、それは玉木も同じなようで、次に彼女が言った言葉はこんなことだった。
「成瀬君、ここ私の真下の部屋なんです。ベランダにある非常用のはしごを使えばこの部屋のベランダには下りられるかも!」
そうして、パニックに陥った人間2人がとった行動は、玉木のベランダから下に降りて、そこから窓を割って真琴の部屋に入ろうというものだった。そんなことをしてストーカーがいなかったら全くの無駄骨どころか、迷惑きわまりない行動だったが、考えている余裕はなかった。
弘樹は玉木の部屋から消火器を借り、はしごを使って真琴の部屋のベランダに下りる。
カーテンが閉められていて中は見えない。だけど、迷うことはなかった。
弘樹は消火器を窓に投げつけた。
▽
同じ頃、渦中の部屋の中にいた坂井真琴は浴室で小さくなっていた。
見覚えのない女の子が来たと思ったら、急にカメラで自分を撮ってくるし、あろうことか部屋の中にまで強引に入ってきた。連続的に写真を撮ってくるその女の子が怖くて、気味が悪くて、思わず鍵のかかる浴室まで逃げ込んだ。
時々聞こえてくるシャッター音。小さい頃からモデルをやっていたが、この音をこんなに怖いと思ったことはなかった。
怖い・・・怖い・・・・誰か助けて!お願い・・・助けて!
目と耳をふさいでうずくまりながら助けを求める。
ガンッ!
そのとき、何か大きな音がした。おそるおそる目を開けると、浴室のドアに写った影が変な動きをしているのがわかった。それがドアを壊そうとしているのだとわかったとき、真琴の恐怖はすでに限界に近づいていた。
「弘樹ぃ・・・・・・・・」
呟いて涙する。恐怖の音のほうが大きくて、真琴はそのとき聞こえたピンポーンと鳴るインターホンの音には気づかなかった。
▽
何度かガンガンと消火器で殴りつけていると、ようやく一部が割れてそこから手を入れることができた。成瀬弘樹は手探りで窓の鍵を開けて中に入ることができた。
と、足元に黒い物が転がってきた。思わず拾い上げると、
「返して!」
そんな甲高い音が聞こえた。見ると、目の前に自分より年下だと思われる女の子が立っていて、弘樹が拾った黒い物・・・カメラを取り上げようとする。
「弘樹!絶対にカメラを渡すな!」
「は?」
その声はなぜか自分のよく知った声だった。それと同時に、真琴を抱え込むようにしてどこかの部屋から出てきた克也の姿が見えた。
「克也!?なんでここに!」
「いいから!!」
そう言われた瞬間、カメラを取り返そうと女の子が襲い掛かってくる。
状況がいまいち飲み込めないが、このカメラを女の子に渡しちゃ駄目だということはわかる。弘樹はまるで宝物でも守るかのようにそれをかばった。
「・・・・・!」
男と女、身長の差もあってか、やがて女の子はカメラを取り戻すことをあきらめた。そして、弘樹をキッっと睨みつけた後、後ろにいた克也のほうを向いた。
「なんで・・・なんで私の邪魔をするの・・・」
克也は答えずにただじっと女の子を見る。
「私はただ、坂井真琴を撮りたかっただけなのに」
ストーカーはまだ10代の女の子だった。
何が理由かは知らないが、真琴の写真を撮っては自宅に送りつけていたらしい。
彼女は部屋の中央で何も言わずにうずくまっている。少しして、克也が彼女に近づいていった。
「克也はどうやってここに入った?」
空気を読めない質問だが、気になるものは仕方がない。しかし、逆に克也は心底不思議そうに答えた。
「どうやって・・・玄関から普通に」
「鍵閉まってただろ」
「だから鍵開けて」
「管理人さんに開けてもらったのか?」
「いや。俺この部屋の保証人になってんだよ。だから坂井に鍵もらった。使ったの初めてだけど。だいたい自分の生徒だけでストーカー退治なんかさせるかよ」
なんだそれ。それなら自分の今までの苦労はなんだったのだろうか。急にがっくりと力が抜けて弘樹はその場にへたり込んでしまった。っていうか、なんで元担任が元教え子の部屋の保証人になってんだよ。
「そういう弘樹こそどうやって窓から入ってきたんだよ。まさか屋上から下りてきたんじゃねぇだろうな」
「ここの真上が玉木先生の家で、ベランダの非常用のはしご使って下りてきた」
「え?玉木先生家ここなの?」
まるでまずいことにでもなったかのように苦い顔をして克也は頭をかく。やがて、1人で頷いたかと思うと、傍にいる女の子を立たせた。
「この子、家まで送ってくる」
「警察は?」
「いや、いいわ。俺がなんとかする」
克也がなんとかするって言うときは、本当になんとかしてくれると昔から知っていた。弘樹はそれを信じて黙って頷いた。
後に残ったのは弘樹と、部屋の隅でうずくまる真琴だけだった。
どうするべきかと悩んでいたら、いいのか悪いのかよくわからないタイミングでベランダのはしごから玉木先生が下りてきた。
「先生」
「あ、あの、大丈夫かなって思って・・・」
そこまで言って、玉木は弘樹の言葉に反応した真琴と目が合った。
「さっ坂井真琴!」
声を上げた玉木がなぜ真琴を知っているのか弘樹は気になった。玉木は今年から赴任してきたはずだ。
「先生、坂井さんのこと知ってるんですか?」
「だって超有名なモデルさんじゃないですか。まさか、そんな人が私の真下に住んでいたなんて・・・」
「モデル・・・?」
初耳だった。一瞬玉木がからかっているのかと考えたが、本人の様子を見る限りそういうわけではなさそうだった。
弘樹は改めて真琴を見ると、また下を向いてしまっている。そして、小さく呟いた。
「・・・・・怖い・・・」
弘樹は真琴の傍に近寄った。
「シャッター音が怖い・・・私・・・・モデルができなくなったら、なんにもなくなっちゃう・・・・誰からも必要とされなくなっちゃう・・・・どうしよう・・」
それは、いつも弘樹よりも年上として振舞っていた彼女が初めて見せた姿だった。
見ていて悲しくなった。どうすることもできない自分が悔しかった。ゆっくりと彼女の肩に手を置き、髪の毛をなでることしかできなかった。慰めの言葉も浮かばなかった。こういうとき、なんて言うべきなのか弘樹はわからなかった。
だから、真琴がじっと弘樹を見つめてきてゆっくりと唇を重ねてきたとき、弘樹は当たり前のように受け入れた。