2 弘樹の失恋
放課後の職員室、弘樹は別館にある科学準備室にこもっていた。正確には入り浸っていた。
「弘樹・・・お前唯にフラれるたびにここに来んじゃねーよ」
机に向かって今日やったテストの採点をしている克也は苦い表情で言い放つ。その顔にはたいして視力が悪くないくせに眼鏡をかけている。
「フラれてないし。ちょっと早まっただけ」
「はっ!?いっちょまえにキスしたとか?」
「アホ!そんなことするか!」
本気で怒り出した弘樹を克也はイスをかたーんかたーんと揺らしながらからかう。弘樹にそんなことをする勇気がないことを知った上で面白がっているのだ。
そもそも克也の担当教科は生物だ。生物の先生が誰も使わない、近寄らない科学室にいるところからありえない。ちなみに、科学の先生もこの部屋を使うこともめったになかった。
「どーせ思わず抱きついちゃったってところだろ?お前そんなことぐれーでメソメソしてんじゃねーよ」
「・・・してねーよ」
妙に鋭いところも気にくわない。別に嫌いって言っているわけじゃないが、どうもこっちの事情を全て知っていそうなところが弘樹にとって苦手なことだった。
「まぁ、たまには引くのも大事だってことだ」
「引く・・・?」
「そうすりゃぁ、告白なんかしなくたって自然とつきあえるかもな」
その意味がわからなくて聞き返そうと思ったとき、準備室の扉を遠慮がちに叩かれる音がした。どーぞーと間の抜けた声で克也が反応した。
弘樹も扉のほうを向こうとイスにもたれたら・・・・・もたれすぎた。そのまま克也のほうへと倒れこんでしまった。
「あの・・菅沼先生・・・今」
ぶちっと途切れた言葉は玉木先生のものだった。彼女はそこで弘樹と、弘樹に押し倒されている(ように見える)克也の2人を見ることになる。
「あ・・・あの・・・」
玉木はそのまま固まってしまい、2人を凝視して動けなくなってしまった。顔もすぐに赤くなっていく。
「ごめんなさぁい!!!」
「先生!誤解だから!」
思いっきり誤解されたままなのはごめんなので、弘樹は慌てて走り去っていった玉木の後を追いかけた。
「そうだったんですか・・・私ったらてっきり・・・」
どう思えば玉木の考えるような関係になるのだろうか。弘樹はとりあえず事情を説明して玉木の誤解を解いた。
話によると、玉木の年齢は28歳らしい。大学院に入り浸っていたら、いつのまにか同時期に入った友達は卒業していたそうだ。
「先生は克也・・・菅沼先生のどこが好きなんですか?」
克也を先生呼ばわりすることに気を取られて、配慮の欠片もない質問になってしまった。弘樹がそのことに気づいたとき、玉木は困ったように笑っていた。
「自分でもわかんないんです。理由を並べることもできるんですが・・・並べたら嘘っぽくなってしまうような気がして・・ただ、気がついたら目で追うようになってました」
そこまで言うと、玉木はこの状況に気づいたのか真っ赤になってぶんぶんと首を振った。
「わっ私ったら・・・そそそうだ!成瀬君は菅沼先生と仲がいいんですね!」
「あぁ、まぁ。昔からの知り合いっていうか」
そこまで言って、弘樹は昨日の失態を思い出した。
「先生!俺、先生の恋応援しますよ!あいつ、変な性格してるけど根は悪くないし、今は彼女いないみたいだし!」
「彼女・・・やっぱり彼女がいたんですね」
「えっ・・・・」
弘樹が言葉に詰まったのは、彼女がいたということにショックを受けた玉木の言葉のせいではなく、克也に彼女がいたのか?ということだった。
弘樹がまだ小学生だった頃、つまり克也が高校生だった頃は、克也はよく女の子を連れていたのでたぶん彼女がいたんだと思う。だけど、最近はどうなんだろう。
そういえば前に1度だけ・・・・・・
何かを思い出しかけたが、目の前にいる玉木がショックでふらふらしていたので、それ以上考える余裕がなくなった。
▽
玉木と別れてからすぐに帰ったが、地元の駅に着く頃には午後7時をまわっていた。別に探しているわけではないが、自然と目がホームを見渡してしまう。唯を探すために。
いるわけがなかった。いつも帰りはたいてい会うことはなく、昨日のようにばったり出会うなんてめったになかった。
だけど、半ばあきらめて駐輪場に行くと、なぜか唯がそこにいた。弘樹の自転車の近くで、持っていたバッグを抱え込むようにしゃがみこんでいる。
「唯・・・?」
思わず話しかけると、彼女はぱっと顔を上げて慌てて立ち上がった。
「ヒロ君・・・ごめん、今いいかな・・・?」
「いいけど・・・・」
克也の言っていた引くことも大事だということを実行しているわけではなかったが、自然とぶっきらぼうな口調になってしまった。
唯は何か言いにくそうに下を向いて口を開いた。
「ヒロ君の気持ちには気づいてたの」
「うん」
弘樹は自転車の鍵を自分のポケットから探り出す。
「昨日のことも別に怒ってるわけじゃない」
「・・うん」
自転車の鍵をまわす。
「だけど・・・私には、他に好きな人がいるから・・・・・」
「うん」
わかっていたんだ。唯は絶対に自分を好きにならないということは。
弘樹は何か言おうと頭の中で考えたが、それを言葉にすることはできなかった。ただ、こくんと頷いただけで、自転車に乗ってそのまま唯から離れた。
弘樹は失恋した。
▽
そして、後に弘樹が好きになる年上の少女、坂井真琴と出会うのは約1週間後、高校の科学実験準備室だった。
▽
その頃、弘樹に応援されたことで勇気が持てた玉木有子は帰りがけにまだ職員室に残っていた菅沼克也に話しかけた。
「おつかれさまです」
「あ、おつかれさまです」
少し居眠りしていたのか、顔にペンの痕がついている。それでもやっぱりかっこいいとよろよろしながら考えた。
「そうだ、玉木先生ー」
そのペンでこめかみをかきながら克也は喋る。
「はい?」
「さっきのことは本当になんにもないですよ。弘樹とは昔からつきあいがあるだけで、こんな誤解されたら俺の趣味が疑われます」
「はい。成瀬君から聞きました」
くすくすと笑いながら玉木は答える。ふと、彼女は考えた。
「あの・・・菅沼先生は年上の女と年下・・・どっちが好みですか」
玉木としてはかなり意を決した質問だったが、以外にも克也はあっさりと答えた。にっこりと笑って、屈託なく。
「年上」
目の前がぱぁっと明るくなった。そして、今まで考えられなかった妄想をして、なぜだか顔が赤くなるのを感じた。
「じゃっじゃぁ・・・これで・・・お先に失礼します」
「おつかれさまです」
顔が赤くなるのを見られないうちに玉木は職員室を後にした。
▽
「年上かぁ・・・」
誰もいない職員室を振り仰ぐ。昔の記憶を思い出しながら。
別に年上好きなわけではない。ただ、前に好きになった人が年上なだけで、あのときから自分の時間が止まってしまったのだ。
いつも中途半端だった自分が本気で好きになったたった1人の女性だった。