7
――今朝、姉さんに話した、職員室に呼ばれて怒られた理由というのは『女の子を虐めている暴漢をブッ飛ばした』からだ。
そしてその『女の子』というのは目の前にいるショートボブの女の子――胡桃という訳のようだ。
最早驚きより、「すげーな……」という他人事な感想しか出てこない。
胡桃曰く、俺の落とした学生証を頼りに俺の通っていた中学校までお礼をしに来たらしいが、当時の俺はひたすらに地味なヤツだったため、暴力沙汰などあり得ないと思われたらしい。
教師連中は胡桃から学生証だけを受け取り、あとは追い返したとのことだ。
その割りには、俺の担任は学生証を返却した後、俺に軽く説教したのだが……。
胡桃はその後、元々過保護気味だった両親の娘への愛が暴走して、治安の良いこの地へと越してきたらしい。
転校先の中学で姉さんと出会い、今の関係が築けているようだ。
――なんとも、ご都合主義な話だが、人はそれを運命と呼んだりもする。無論、胡桃の言っていることが偽りであるという可能性もあるが、確かにあの時の女の子に似ている(と思う)から、紛れもない事実なのだろう。
事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。世間は狭いと思い知らされる。
「――そんなわけで、わたしは皐月くんに命を救ってもらいました。……だから、今度はわたしが皐月くんを助ける番です。少し、重いですか……?」
「いや、別に重くはない。むしろ俺にとって嬉しいことだ……」
あまり思い出したくはないであろう過去を語り終えた胡桃は、少し肩が震えている。その震えを抑えるように、右手で左腕を掴んでいる様は、見ていて辛いものがある。
姉さんもさっきまでの態度とは裏腹に、真剣な眼差しをしていた。そして心配そうに胡桃の隣へと戻り、肩を抱いた。
胡桃は「大丈夫です」と姉さんの腕を優しく払い、うつむきがちだった顔を上げ、俺を見据える。
「やっと……ちゃんとお礼が言えます」
胡桃の綺麗な眼から一筋の涙が音もなく落ちた。
「助けてくれて、ありがとう。――キミのためなら、わたしはなんでもします」
「…………」
――俺はあの時のことを覚えていないと言えば嘘になる。
たしか、あの時はいつも通りの時間、いつものように外へ逃げていた。
遠くへ。目の届かない場所へ。バレないように。見つからないように。
今思えば、それは狂気的なものだった。逃げるために、隣の市まで走るのだ。必死だったとはいえ、うすら寒い。
逃げて逃げて、件の暗い路地を見つけ、そこに隠れようとした覚えがある。隠れ家を探していた理由は、まあ単純に夜、制服で出歩いている学生は補導される危険性があるからだ。
警察に見つかったら、親を呼ばれる。そうなったら――俺は、終わりだ。
その緊張が俺の狂気を加速させたのだと思う。
そんな精神を常に尖らせた状態で女の子を虐めている――では済まされない状況に遭遇したのだ。当時は幼かったとはいえ、俺なのだ。こうなったのは致し方ない。
まあ正直、そんなことはどうでもいい。胡桃が無事で元気そうなら、それでいい。
「それでも、俺は独りで大丈夫だ……。考えてみろよ。俺なんかを抱き締めるんだぞ? 普通の女の子なら絶対に嫌がるだろ……」
自分で言っていて悲しくなってきた。
俺が若干傷つきながら言うと、目の前の二人の女の子は、同時にバンッと机を叩いた。
「そんなことないよっ!」
「そんなことありません!」
「お、おう……?」
そして急に立ち上がったと思えば、俺の右側に姉さん。左側に胡桃が座り――
「暁くんの自分を悪く言う癖、お姉ちゃん的に感心しないなぁ」
「謙虚なのは素晴らしいことですが、卑下するのは褒められたことではないですよ」
そう言いながら、俺の腕に二人が抱き付いてきた。……何やってんだ? コイツら。
「お前ら……暑苦しい……」
「もぉ! 暁くんって変なところで鈍感屋さんなんだから!」
「ここまでして眉ひとつ動かさないとは……中々に大物ですね……」
いや、二人の女の子に抱きつかれるのは普通に恥ずかしいから……。顔面の筋肉が緊張しているだけだから……。
そんな俺の心の声なんて聞こえるはずもなく、二人の言動はエスカレートしていく。
「暁くんの言い分だと、あたしは普通じゃないみたいじゃん! ……あ、もしかして……あたしは特別……?」
「先輩、違いますよ。先輩は頭のネジが足りないので、女性として見られていないだけです。ですよね、皐月くん」
「ねえ、朝陽ちゃん。あたし先輩だよ? そんなこと言っちゃっていいのかぁ? あたしの方が暁くんと一緒にいる時間が長いんだよ?」
「時間なんて関係ありません。わたしと皐月くんは運命で繋がっています。だからこうして出会えることが出来たんです」
俺を挟んで何やら言い合いを始める二人。
姉さんは顔こそ笑ってはいるが、俺の右腕を抱く力はだんだんと強くなっていく。対して胡桃は余裕の表情で姉さんをあしらっている。
なおも続く二人の舌戦。流石に止めに入ることにした。
「お前ら、五月蝿い。人の耳元で騒ぐのはよくないぞ……」
「暁くんは黙ってて! お姉ちゃんには譲れないものがあるんだよ!」
「皐月くんは静かにしていてください。先輩には負けることができないのです」
「そういうわけにもいかんだろ……。とにかく俺の腕を離して、話を聞いてくれ……」
反抗する二人の腕を、出来る限り優しく振りほどき、同時に二人の頭を鷲掴みにする。そのまま、強めの力でガシガシと頭を撫でた。
「あうー。そんなに強く撫でたら、バカになっちゃうよぉ~」
「……この感触、懐かしいです」
先程まで火花を散らして舌戦を繰り広げていた二人だが、俺が頭を撫でたら一瞬で顔をだらしなく破顔させ、おとなしくなった。
俺は母親に頭を撫でられるが好きだった。冷たく、ひんやりとした手が頭皮を刺激する感覚は、気持ちが良かった。同時に褒められたとなれば、自然と破顔してしまう。
だから、俺は人の頭を撫でるのが癖になったのかもしれない。
――いや、俺はあの人のようにはなりたくなかったから、かもしれない。
「お前らな……俺の怪訝を身体を張って否定してくれるのは嬉しいが、俺だって恥ずかしいから……。さっきの言葉だって……まあ、照れ隠しみたいなモノだから……」
確かに姉さんに抱き締めてもらうのは慣れた。だが、既に会った事があるとはいえ、ほぼ初対面の胡桃に抱き締めてもらうのは、やはり難しい。
男足るもの、可愛い女の子とふれ合うのは願ってもいないことだ。
しかし、それは飽くまで一般的な人間だけであって、俺みたいな人間に、ソレを甘受する資格はあるのだろうか?
姉さんも本当は嫌々やっているのではないだろうか。だから胡桃に協力を仰いだのではないか。胡桃も、たまたま俺が命の恩人だったから義理としてやろうとしているのでないか。
そんな考えを抱いている俺には、やはり資格などないのではないか。
姉さんは俺のことを大切に思っていてくれる。小百合さんも、俺を本当の息子のように扱ってくれている。
――もし、それが俺の甘い妄想、あるいは勘違いだとしたら。
俺は母親のように――
「――なあ、姉さん、胡桃さん。二人は何故俺に優しく出来るんだ……?」
俺をこの世に産み落としてしまった母さんは不幸になった。いや、俺が不幸にさせてしまった。
全て、俺のせいだ。俺が抗うことを恐れて、辛い現実から逃げてばかりいたからだ。
それなのに、みんな俺に対して優しすぎる。俺の罪を知っておきながらも、普通に接してくれる。
わからない。何もわからない。
「――俺は……母親を……殺したんだぞ……?」
「ち、違うよっ! 暁くんは何もしてないもん! お姉ちゃん、流石に怒るよ!」
「客観的に見ても、皐月くんに非はありません。そんなこと、わたしが認めません」
一生懸命になって俺を擁護してくれているが、俺にとってその擁護は酷く突き刺さる。
あの時の冷たすぎる母親の体温は今でも忘れられない。
開かれた瞳孔に色を失った唇。硬直した手足。だらしなく開かれた口からこぼれる唾液。乾いた涙の跡。『ごめんね』と書かれた紙――
………………。
「殺したも同然なんだよ……。俺があの時、逃げたりしなければ母親は……母さんは死ななかったかもしれない。俺が弱かったから――」
「暁くん、ごめん」
俺の言葉を遮り、姉さんが呟く。その声がいつもと違う調子だったため、つい姉さんの方を向いてしまう。
姉さんの顔は辛く、苦しそうな表情で、目元には涙が浮かんでいた。
何事かと思ったのも束の間。姉さんの右手が閃いた。
――殴られる。
そう直感的に理解した俺は、反射で左の手の甲を盾変わりに構えた。
しかし、それは意味がなかった。
――再び、今度は後ろから聞こえた「ごめんなさい」という言葉の主のおかげで。
「――――ッ」
胡桃に一瞬で羽交い締めにされた俺は、為す術もなく姉さんの平手打ちを受ける。胡桃の羽交い締めを解こうと思えば解けたのだが、少し強引になってしまうため、止めた。
よって素直に受けたのだが、やはり空手経験者ということもあって、そこそこ痛い。
だがまあ、この程度慣れている。頬の肉が抉り獲られるような痛みはない。
しかし、次の姉さんの行為は慣れていない。というか、初めてだった。
姉さんが俺の両の頬を手のひらで挟んだかと思えば、急に顔を近づけてきて――
「――――んッ!?」
間近に見える姉さんのあどけない顔。シミ、シワなどとは無縁な綺麗な白い肌。頬はほんのり朱が差している。いつもはパッチリとした瞳は閉じられ、長い睫毛がより一層際立っている。
触れる唇と唇。姉さんの唇が俺の唇と触れ合っている。姉さんの唇は柔らかく、俺の体温で溶けてしまいそうだ。マシュマロなんて代物ではない。もっと柔らかいものだ。
――結論から言うと、俺は姉さんと……接吻をしている。
無論、舌と舌を絡ませ合うようなディープなものではない。軽く触れる程度のソフトなキスだ。だがしかし、俺は初めてのキスなのだ。しかも、相手は姉さん。戸惑うな、というのは冗談抜きで無理な話だ。
余りにもの衝撃に、俺は身動きがとれなくなる。胡桃の羽交い締めのおかげかもしれないが、まあ動けない。決して姉さんとのキスを楽しみたくて動かないわけではない。
「……んっ……んちゅっ……」
姉さんは唇を優しく押し付け、時折息継ぎのために少し離れ、再び押し付ける。
それを繰り返していくうちに、俺の脳味噌が溶けて、全身の穴という穴から漏れでる錯覚を覚えた。それは甘美で危険なものだと、本能的に理解した。
流石にマズイと思った俺は、上手く働かない脳味噌をフルに回転させ、肉体とのコンタクトをとる。相変わらず羽交い締めにされた上半身は動かせないが、なんとか声を出せそうだったので、身息継ぎのタイミングで声を出した。
「ちょっ……姉さん、待っ――」
俺の言葉を再び遮り、またもやキスを再開させる姉さん。
……もう駄目だ。戸惑いが消えたことにより、羞恥心が芽生えてきた。
姉さんは贔屓目無しに見ても可愛い。それはそれは可愛い。姉さんは気にしていると言っていた童顔も、それとは裏腹に発育が良い身体とのギャップも、姉さんを構成する全ての要素が可愛いと言っても過言ではない。
そんな女の子とキスをする? やめてくれ、全国の童貞に呪い殺されかねん。いや、姉さんとひとつ屋根の下で暮らしているというだけで大分恨みは買うかもしれんが、そんなこと知らん。
そんなことを考えていなければ、俺は理性を失ってしまいそうだった。
それほどに強烈な出来事だった。俺が女の子とキスをするという事実は。
キスをし始めて何分が経過した頃だろうか。姉さんは俺の顔から手を離し、キスを止めた。お互いの唇がふやけそうになっていることから、長い時間キスをしていたようだ。
「……キス、しちゃったね……」
艶やかに光沢を放っている唇を指で触れながら、恥じらいを隠すようにに笑みを浮かべる姉さん。
これは飽くまで推測に過ぎないのだが、姉さんにとっても初めてのキスだったと思う。俺も初めてのキスだしよくわからないが、なんとなくぎこちなさを感じたからだ。
いつの間にか胡桃の羽交い締めも解かれ、上半身が動くようになっている。しかし、先程とは打って変わって声が全く出ない。
いや、違う。――何を言えばいいのかわからないのだ。
どうしようもないこの思いの捌け口を探し、胡桃の方を見やる。
「…………? わたしともキスしますか? いいですよ、皐月くんになら」
「…………」
もし、この状況を正しく捌くことの出来る人間がいるとしたら、未熟者の俺には到底捌けないこの状況をどうにかしてほしい。
俺の常識が間違っているのだろうか。それとも最近のJKは貞操観念がゆるゆるなのだろうか。あるいはこの二人が特別なだけなのだろうか。
ただでさえキスの余韻で頭が回らないこの状況。童貞の俺にどうしろと言うのだ。
あらゆる方面で限界を感じてきた。
「なあ、姉さん。なんで俺なんかにキスしたんだよ……」
「えへへ……。あたしとキスするの嫌だったかな?」
「いや、別にそういうわけじゃない。むしろ嬉しいんだが……初めてだったんだろ? 俺なんかでよかったのかよ……」
「ありゃりゃ、初めてのキスだってバレちゃったかぁ。……でも、暁くんにファーストキスを捧げたのは後悔してないよ?」
「………………ハァ」
本当に貞操観念がどうなっているのだ、この人は。堅固なのかゆるゆるなのか……。
『ま、まさか、俺のことが好きなのか?』
なんて考えてみたりするのが、普通の学生の青春というものだろうが、生憎と俺には無縁だ。姉さんが俺なんかに恋心を向けるなんてあり得ない。あるわけがない。
例えそうであったとしても、俺が少しでもそれを望んでいたとしても。
――そんなこと、俺が認めない。
そう思っていないと、自分を見失いそうになる。自意識を忘れてしまいそうになる。
俺のことを思ってくれる姉さんを失いたくないから、姉さんの好意を俺は認めない。
姉さんを――失いたくないから。
「矛盾、してるよな……」
もう、どうすればいいんだろうな……。
このまま思考を放棄して、姉さんに甘えたい。だが、それは俺にとって良いことではない。それは、ここまでしてくれた姉さんや胡桃に対する裏切りに等しい。そんなことは死んでもできない。
姉さんは『あたしは死なないよ』と言っていた。
母さんも同じことを言って、死んだ。俺を遺して、死んだ。