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家族ごっこ。  作者: 電子機械
6/11

6

 胡桃 朝陽は皐月 暁に恩がある。


 この話は朝陽にとっては一生忘れることの出来ない、しかし暁にとっては『そんなこともあったな』と軽く流せる程度の話だ。

 


 *

 


 かつて朝陽は、こことは別の地域――具体的には関西に住んでいた。理由は両親が関西出身だから、というなんら面白味のないものだ。そしてその地域は、つい数週間前まで暁が住んでいた場所でもあったりする。


 ――朝陽は胡桃家の長女として産まれた。朝陽の両親は、中々子宝に恵まれず、高齢出産だったが健康に産まれ、そして育った。


 きょうだいはいないが、その分愛情を注がれて育てられた。祖父母もようやく出会えた孫ということで、それはそれは甘やかされて育った。


 そんな環境で育った朝陽だが、不思議なことに我が儘な性格にはならず、むしろ真面目で優しい性格に育った。幼い頃より母親の家事を手伝い、疲れて帰ってくる父親を労ったりと、献身的な一面を見せていた。


 それは小学校に入学しても変わらなかった。そしてその才覚を開花させていったのも小学生に入学したあたりからだった。


 勉強では常にテストで満点をとり、運動では非凡な結果を残していた。さらに学級委員長を勤めるなど、生まれ持った才能をいかんなく発揮し、教師、友人、そして家族から絶賛の声を浴びていった。(余談だが、暁は朝陽以上に文武両道であったが、残念なほどに友人はいなかった)


 朝陽が凄いのはそれだけではなかった。類い稀なる才能もそうだが、人を引き付けたのは何よりも――その容姿だった。


 女子にしては高い身長、透き通るような肌に端正な顔立ち。『可愛い』というより『美しい』という表現が合っていて、とても小学生には見えないほど朝陽は大人びていた。


 よってモテた。異性だけではなく、同性からも。(余談だが、暁も高身長でそこそこ整った顔立ちをしていたが、根暗な性格のためモテなかった。つくづく残念な男である)


 そんな朝陽は、ある日――悪意に襲われる。


 

 *

 


 それは中学校に入学して、しばらくした頃だった。


 朝陽の母はある夜、朝陽におつかいを頼んだ。反抗期を知らない朝陽はそれを快諾し、徒歩一○分ほどの距離にあるスーパーまで歩いていった。


 朝陽が頼まれたものは醤油。母が買い忘れてしまったらしい。醤油は料理のなかで重要となる調味料だ。普段、朝陽におつかいを頼まない母の行動も頷ける。


 難なく買い物をこなし、スーパーの袋に入った醤油を見ながら、朝陽は口許を綻ばせる。


「今日の晩ごはんは肉じゃがですね♪」


 先程見た買い物袋の中にはじゃがいもと牛肉が入っていた。そこに醤油を買ってきてくれときた。今日は朝陽の大好物、肉じゃがだろう。


 晩ごはんが大好物。朝陽は容姿は大人びているが、中身はまだまだ子供。浮かれるのも無理はない。――だが、その油断が悲劇を生むこととなる。


 朝陽が見慣れた、しかしいつもとは違う、雲に阻まれ月明かりすらない暗い道を家に向かって歩いていると、ふと男の声が聞こえた。


「……お嬢ちゃん……すこし、いいかな……?」


 声を聞いた朝陽は反射的に声のする方へ向いた。そこは街灯の明かりすら届かない路地裏で、男――暗くてよく見えなかったが、声の質から察するに若くはない――が独りポツンとたっていた。


「――――っ!」


 当然驚く朝陽。驚愕、よりも恐怖の方が大きかったかもしれない。だが、冷静な思考を失ったわけではなかった。


 朝陽は小さい頃より学校で教わってきた『いかのおすし』の『おおごえをだす』を実践すべく、息を大きく吸った。


 しかし、男は慌てる様子もなく平然とした調子で朝陽に声をかけた。


「落ち着いて、お嬢ちゃん。驚かせてごめんね。少し手伝ってもらいたいだけなんだ。おじさん、脚が悪くてね」


「……へ?」


 吸った空気は行き場を失い、すっとんきょうな声として漏れでる。が、目を凝らせば杖を突いている男を見て、朝陽は慌てて暗い路地裏へと駆け寄った。


 男の近くに駆け寄ったことで、暗くてもある程度は男の姿が見えた。朝陽の父親と同じくらいの年齢だろうか。目尻のシワが深いのが印象的だ。


「どうしたんですか……?」


 朝陽は心配そうに問う。だが、警戒を解いたわけではない。


 暗い路地で知らない男に話しかけられる。それは聞く人によっては恐怖を覚える内容だろう。事実、朝陽も恐怖を感じた。怪しいことこの上ないのだ、誰だって朝陽と同じように警戒する。


 だが、朝陽の育った環境はあまりにも甘すぎた。甘さは、時に毒になることを朝陽の両親は知っていながらも甘く育てた。今回は、それが仇となってしまう。


 そう、朝陽は男のこと警戒こそすれ、言ったことを疑いはしなかったのだ。むしろ、献身的な態度を見せてしまった。


「手伝えることがありましたら、お手伝いしますが……」


「ありがとうね、お嬢ちゃん。ちょっとこっちに来てもらえるかな?」


「わかりました。足元、お気をつけください」


 男は朝陽を先に歩かせ、後方より目的地を指示する。


 朝陽の家の近所だが、こんな路地裏の奥まで行ったことがない。暗いことも相まって、探検の感覚で進んでいった。


 男の指示に従い、右に曲がると、そこで大きな建物に阻まれ、道は途絶えていた。


「行き止まりですけど……。ここですか?」


 更なる指示を仰ごうと、朝陽は後ろを向く。しかし、そこには男の姿がない。


「……あれ?」


 先ほどまで一緒に歩いていたはずだ。男に歩調を合わせていたため、置いてきぼりにしてしまった可能性は低い。疑問に思い、朝陽は来た道を戻ろうとした。


 ――その瞬間だった。


「……んっ……!?」


「――動くんじゃねぇ。そして声を出すなよ。何かすれば……殺すからな」


 突然、口元を押さえられ声が出せなくなる。さらに強い力で抑えられてるため、首を動かすことすらままならない。声は若い男の声だが、主を確認することは難しそうだ。


「んんっ……んっ……!」


「聞こえねぇのか? 声を出すなっつってんだよ。それとも、こいつが見えねぇのか?」


「…………?」


 目の前に出されたものは一瞬、暗くて見えなかった。しかし、タイミングが良いのか悪いのか、今まで隠れていた月明かりが雲間から射し込み――それは見えた。


「…………っ!?」


 それは、刃渡り一五センチほどのナイフだった。月明かりを反射し、妖しい輝きを放っている。その光が眼に届き、朝陽はようやく状況を理解する。


 ――何者かに脅されているのだ。


 遅まきまがら理解した事実に、思考が置いていかれる。先ほどのように冷静な判断を下すことが出来ない。思考を走らせようとしても、何かが詰まったような感覚に陥り、まともな案が浮かばない。それでも、濡れた雑巾の水を最後の一滴まで振り絞るように、朝陽は考えた。


 ――どうすればいい。助けを呼ぼう。だが、声を出せない。なら口を抑えている手を払おう。しかし、身体がすくんで動かない。動いたら殺されちゃう。でもこのままでも殺されちゃうかもしれない。助けてよお母さん、お父さん。


 声にならない声で両親に助けを呼ぶ。しかし、意味はない。


「……うぅ……あぅぅ……」


 極度の恐怖から、瞳から涙が出た。嗚咽を噛み殺そうとしても中々に難しい。


「おい。声を出したら殺すっつったよな。死にたいのか、アァん!?」


「うぁぅ……」


「止めたまえ、澤田君。絶対に傷付けたりするんじゃないぞ」


 ふと、聞き覚えのある声がした。その声は目の前から聞こえてくる。そちらへ視線をやると、そこには先ほど姿が見えなくなった中年の男が杖を弄びながら、こちらへ近づいてきた。


「…………!」

 ――助けが来た。


 そう思い、朝陽は安堵した。何故杖を突いていないのかという疑問よりも安堵の方が大きかった。だが、それも束の間。朝陽はそんな甘い考えを、すぐさま撤回した。この人も悪い人なんだ、と。


「――その小娘は大切な売り物なんだから、丁重に扱いたまえよ」


「へいへい、わかってますよ、宮地さん」


 ――売り物。


 朝陽は聞こえてきた言葉のなかで、いちばん耳に残った単語を反芻する。そして、その意味を理解するより早く、中年の男――宮地と呼ばれた男は朝陽に近づいた。


「お嬢ちゃん、悪いね。おじさんたちと一緒に来てもらうよ? 逆らったら二度とお母さんに会えなくなるからね。まあこれから経験することを考えると、どちらにせよ会えなくなるかも知れないけどね」


「宮地さん、趣味悪いッスね~」


 宮地を囃し立てるように澤田と呼ばれた若い男は声を上げる。相変わらず、表情を窺うことは出来ないが、嫌らしい笑みを浮かべているであろうことは想像に難くなかった。


 ――惨いほどに聡い朝陽は理解する。もう助からない、と。


 こんな人気の無い路地裏、勇気を振り絞って声を張り上げたところで助けが来そうもないし、その前に突き付けられた刃が朝陽の喉を切り裂くのが早い。何をしようと、朝陽にはもう救いはない。


 そう思うと、気分が楽になった。嗚咽は消え、震えていた両足は落ち着きを取り戻している。文字通り、心身ともに諦めてしまった。


(――でも、最後に、お母さんの肉じゃがを食べたかったなぁ……)


 心中でそう呟きながら、光が消え失せた瞳で辺りを見渡す。すると、一台の黒い軽自動車が見えた。こんな狭く、入り組んだ道を進んできたようだ。


 直感的に悟る。――この車で何処かに運ばれるのだと。


「んじゃ、その車に乗ってもらうぞ」


 抵抗する意思を失った朝陽は、澤田の言葉に従い歩みを進める。


 すると突然、澤田が声を上げた。


「あれ? 宮地さん? どこ行ったんスカ?」


 澤田の言葉の通り、いつの間にか宮地がいない。今の今まで朝陽の目の前に居たというのに。そしてそれは澤田も同じだ。突然姿を消したのだ。驚くのも無理からぬことだろう。


 不思議に思う朝陽にふと、声が聞こえる。


「……ぐぁ……っ」


 それはうめき声だった。誰の声かはわからない。反射的に声の聞こえた方に顔を向けてしまう。そこに居たのは仰向けになって倒れている中年の男――宮地だ。


 瞳を閉じて荒い呼吸を繰り返している。死んではいないが、気を失っているようだ。


「…………?」


 当然、疑問に思う朝陽。それは澤田も同じだった。しかし、澤田の方が冷静になるのは早かった。


「おいお前――何者だ……?」


 澤田は倒れている宮地の後ろに声をかける。そして暗闇から、また別の声が聞こえた。


「人に名前を聞くときは、自分から名乗るのが礼儀だろうが……」


 その声は澤田よりもさらに若い男の声だった。男というより、少年と呼んだ方が正しいかもしれない。少年と呼ぶには少し声が低いように感じたが。


 声の主は気だるげに澤田に応答しながら暗闇から姿を現す。


 身の丈一七○センチほどだろうか。夜空より暗い髪は少し長い。前髪で目元が半分ほど隠れてしまっている。体格は痩身な部類に入るだろう。


 少年と呼ぶには高めの身長。そして大胆不敵な態度と言葉使い。とても少年と呼ぶには難しいものがある。だが、朝陽は一目で少年であると、しかも自分とさほど年齢が変わらないとわかった。


 理由は少年の服装にある。


 ――制服なのだ。少年は詰襟の制服に身を包んでいるのだ。


 だが、朝陽の通う中学の男子生徒ではなさそうだ。なら高校生かと思ったが、それも違う。月明かりのなか、よく目を凝らしてみると、隣の市の学力が高いことで有名な公立の中高一貫校の中等部の制服であることが見てとれた。


「おいガキ、そこのオッサンをやったのはお前か?」


「ん? あぁ……コレ・・ね……。顔面殴っただけだ。死んじゃいない……多分……」


 少年は足元に倒れている宮地を指差しながら、心底面倒そうに呟く。


「そんな事より、状況を説明してくれないか? あと早くその女の子を離せよ……」


「ガキ、今なら見逃してやる。失せな。この事を誰かに言ったら命はねぇからな」


「人の話を聞けよ……。アンタ頭悪いだろ……」


 会話が成立していないためか、少年は頭痛を堪えるように額に手を当てる。そして朝陽の方を向き、ぎこちない笑顔を浮かべた。


「大丈夫だよ、すぐに助けてやるから……」


「…………?」


 話の展開が速すぎて、朝陽は助けが来たことによる安堵より、疑問が大きかった。


 この少年は誰なのか。どうやって宮地を倒したのか。何故、こんな路地裏にいるのか。そもそも、この状況で何故飄々としていられるのか。そして、何故刃物を持った相手に対して、恐怖を微塵に感じさせないのか。


 ――まるで、慣れているようではないか。


「ギャハハハハッ!! カッコいいねぇ、王子サマ気取りか? 何も出来ねぇくせによお。なんなら警察を呼ぶか? まあ、そんなことしたらこの小娘の命はないけどな」


「あ、お巡りさーん、こっちでーす」


「何ぃっ!?」


 突然、少年は朝陽と澤田の後方へ声を上げる。が、おかしい。後ろは行き止まりのはずだ。人が来るなんて考えづらい。つまり、少年のはったりというわけだ。


 澤田はまんまと少年の思惑に引っ掛かり、後ろを向く。――案の定、お巡りさんどころか、人っ子一人としていない。いるわけがない。


「ちっ! ガキが! このオレサマを騙すなんていい度胸じゃねぇか!」


 騙されたことにようやく気付き、怒鳴り声をあげながら視線を戻す。


 すると、彼我の距離およそ八メートル――だったものを、少年は宮地が後ろに向いているわずかな時間で詰めていた。


「――アンタ、やっぱり頭悪いだろ……」


 そんな言葉と共に、少年の右手が閃いたと思うと、


「…………え?」


 朝陽の首に突き付けられていたナイフが、いつの間にか澤田の手から、少年の手へと移動していた。


 少年が澤田からナイフを奪ったことは理解できた。だが、その瞬間は、なんの誇張もなく見えなかった。文字通り、朝陽が『(またた)』いた『(あいだ)』にナイフを奪い取ったのだ。


 少年はバックステップで距離をとり、器用に掌でナイフを弄ぶ。


「こんなモノを持っているから気が大きくなって油断するんだよ……」


「ガキ……何しやがった……!?」


「馬鹿には理解できないよ……。そんなことより、その娘を早く離せよ。それともアレか? 女の子を盾にしないと怖いのか?」


「こんの野郎ッッ!!」


 少年の見え透いた挑発に、これまたわかりやすくキレた澤田は背後より捕らえていた朝陽を乱暴に突き放し、指や首などの関節をゴキゴキと鳴らす。典型的過ぎるほどの威嚇だ。


「…………きゃっ!」


 突飛ばされた朝陽はバランスを崩し、その場に倒れてしまう。特に怪我をすることはなかったのだが、先程までの恐怖、そして束縛から解放された安堵で腰が抜け、立てなくなる。なら大声を出して助けを呼ぼうとしたが、掠れた声しか出ない。


「いい度胸じゃねぇか、ガキ……。目上の人に対する礼儀ってモンを教えてやるよ!」


 澤田は威嚇しながら少年へと歩み寄る。対して少年は『かかってこい』とばかりに手招きをしている。自分に注意を向けて、朝陽を逃がす算段なのだろう。


「死ねェェェェッッ!!」


 澤田が少年へと突進する。頭に血が昇り正気を失った様は、さながら獣のようだ。


 ――わたしのことはいいですから、逃げてください!


 その一言すら言えない。見ていることしか、出来ない。


「………………」


 自分せいで人が傷つく。その事実から朝陽は目をそらし、耳をふさいだ。


 ――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。


 心中で何度も謝罪を繰り返す。届くはずのない、行き場のない謝罪を。



 

(がは……ッ! ど、退けっ! ガキが! ブッ殺してやるッッ!!)



 

 声にならない声で無意味な謝罪を繰り返す度に、自分の心が穢れていくのが分かる。



 

(殺されるとわかっているのに退ける馬鹿はいないだろ……ほれ)


(…………ッ!?)


(どうだ? 刃物を向けられるのは怖いだろ……。アンタはそれを女の子に向けたんだ……。勿論、殺られる覚悟もしているよな……?)




 あの少年が身を呈して隙を作ってくれたというのに、脚がすくんで動かない。



 

(オ、オレはあのオッサンに頼まれただけなんだ! やめてくれ、頼む、この通りだ!)


(いやアンタ、俺に組み敷かれた状態でこの通りって……。まあいいや……)


(ぐ……ッ!)



 

 都合の良い幻聴が聞こえてきた。少年が澤田を圧倒するという幻聴だった。


 ありえない。例え宮地を気絶させたとはいえ、運が良かっただけだ。その瞬間を見たわけではないが、子供が大人に勝てるわけがない。


 同様に澤田から包丁を奪い取ったのは、澤田が油断していたからで――


「…………え?」


 だから、幻聴だとわかっていても、わずかな希望を込めて恐る恐る開いた目蓋から覗く少年のピンピンした姿には、現実味がなかった。それこそ、幻覚も見えているのかと思うほどに。


 少年の足元には先程までと対照に静かな澤田。気を失っているようだ。


「………………?」


 開いた口が塞がらない朝陽に気づかず、少年はせっせと作業をしていた。


 気絶した澤田の隣に、先程から路傍の石のように寝転がる宮地を運ぶ。そして澤田の靴から紐を取ったかと思えば、その紐で二人の手足を縛っていった。


「これで良し……」


 縛り終えたらしい少年は、制服についた砂ぼこりをはたき、スラックスのポケットから携帯電話を取り出した。そして何やら電話をかけた後、茫然自失の朝陽に近寄る。


 少年は座った状態の朝陽の視線に合わせるようにしゃがみ、朝陽の頭をポンと撫でながら言った。


「もう大丈夫だ……君は俺が家に帰してあげるから……。怪我はないか?」


 朝陽は恐らく自分を助けてくれた少年の顔を見る。長めの前髪から覗く少年の顔立ちは少々中性的ではあるが、暗闇でもわかるほどの好男子だ。――瞳の色が暗すぎるのは、多少気にはなったが。


 ――ふと、少年の顔が滲む。


「…………ぅぅぁ……」


「よしよし、怖かったな……。でも大丈夫だよ……。大丈夫、大丈夫……」


 少年は朝陽の頭を優しく撫でながら、柔らかい笑顔を浮かべる。やはりぎこちなさが拭えないが、朝陽にはその歪んだ笑顔がとても輝いて見えた。


 朝陽は緊張の糸が切れ、見知らぬ少年の胸板へと飛び込んでしまう。


「……あり……がとっ、ござい……ます……」


 ――怖かった。恐ろしかった。寂しかった。心細かった。


 誰もいない闇。まとわりつくような視線。首もとで煌めく殺意の込められた刃。


 そのすべてが、朝陽の精神を磨耗させていった。


 路地裏に連れてこられ、脅され、助けられた。この間、一○分にも満たない。しかし、朝陽にとっては永遠のような時間だった。


 泣きじゃくる朝陽は少年を抱き締める。胸から聞こえる少年の鼓動が先程まで緊張していた朝陽と同じように早鐘を打っている。その鼓動を聞いているうちに朝陽は段々と落ち着いてきた。


「――そろそろ、落ち着いたか?」


「……はい」


 そんなやり取りを経て、朝陽は抱擁を終了する。


 同性異性問わずに好かれてきた朝陽だが、こんな密着した経験などない。今更だが、異性と抱擁をしているという事実を理解し、頬を赤くしてしまう。


 どうやらそれは目の前の少年も同じようで、暗闇でもわかるほど顔を耳まで赤くしている。心臓の鼓動が早かったのは羞恥心からきていたようだ。


 そう思うと、中性的な顔立ちと相まって無性に可愛らしく感じてしまう。


 ――大男二人を圧倒したとは、とても思えない。


 信じられない……と、少年を見つめていると、居心地悪そうに身動ぎをした。


「す、すみませんっ……」


「あ、いや、別に構わないよ……」


 癖なのか、また朝陽の頭を撫でた少年はゴホンと咳払いをして続けた。


「突然ですまない。今から言うことをよく聞いてくれ……」


「……? はい、わかりました」


 本当に突然の言葉につい中身の無い返事を返してしまう。


 何がどうあれ了承を得た少年は安心したように言葉を紡ぎ始める。


「警察を呼んだから、君はお巡りさんに事情を話してくれ。大丈夫、来るまでは側にいてあげるから……。そこでお願いなんだが……俺のことは話さないでほしい。――いいか?」


「ええ……。それはいいですが……理由を聞いてもいいですか?」


「悪い……。あまり話したくない事情があるんだよ……」


 苦笑を浮かべる少年の顔に、ほんの少し影が差している気がした。そして、これ以上踏み込むなとも言っているような気迫が感じられた。


「なら――――」


 朝陽が色々と話したいことがあると、声に出そうとした瞬間、耳に五月蝿いサイレンが聞こえ始めた。タイミングが悪いこと、この上ない。


「それじゃあ、俺はここで……。もう知らない人についていったりとかするなよ……」


「ま、待ってください! お礼をさせてください!」


「君が無事だったのなら、それで充分だ……」


「せめてお名前だけでも――」


 朝陽の声はついぞ届くことはなかった。少年の姿はもうそこにはなかったからだ。


 出てくるときも突然、去るときも一瞬。まさに神出鬼没な少年だった。


 ――それでもお礼はしたい。名前を聞きたい。と、朝陽は願う。


「…………あ」


 まあ、その願いのひとつ――名前を聞きたいというのはすぐに叶ってしまうのだが。


 ――少年の去っていった方向に落ちていた、小さな手帳のおかげで……。


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