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家族ごっこ。  作者: 電子機械
5/11

5

最近忙しくて更新が遅いです。すみません。


あと、くだらない下ネタが出てきます。苦手な方はご遠慮ください。

「――ハア……疲れた……」


 時は放課後。日が落ちるのが早くなり、いつの間にか空は橙色。黄昏時というやつだ。英語で表すとトワイライトだ。寝台特急はトワイライトエクスプレスだ。


 そんなアホのようなことしか考えられなくなるほど疲れた。端から見れば、ただでさえ酷い顔付きなのに、さらに酷く映ることだろう。不審者と間違えられた黒歴史が蘇る。


 ――あの後ことはよく覚えていない。胡桃に連れ回され、校内を案内されたような気がする。俺が転入することになったクラスに入ってからは、記憶すらない。


 それだけならよかった。いや、よくないが、よかった。俺を干物のようにさせたのは――テストだ。


 転入生である俺の学力を知るためだかなんだかで、他の生徒は帰るなか、俺だけ学校に残り五教科のテストをやらされた。普通なら始業式があろうと授業があるはずたが、そこは私立校の緩さというものだろう。


 担任曰く、明日も夏休み明けの実力テストがあるらしい。訳が分からない。


 まあ俺は正直、頭がいい。だからテストの点数が悪いことはまずあり得ないのだが、やはりテストは嫌いだ。特に順位を決めるところが面倒だ。俺は中学、高校と常にトップの成績をとってきたが、簡単とはいえ嫌いなものは嫌いだし、疲れるものは疲れる。


「……ハァァァ」


 俺がこの世の理不尽を嘆くように深いため息をついていると、天使の声が聞こえた。


「お疲れー。ささ、帰ろっ!」


 校門の柱に寄りかかり、西日の中でより一層艶めいて見えるセミロングの黒髪を揺らしながら天使……もとい、姉さんが立っていた。


 そして、そこにいたのは姉さんひとりではなかった。


「お疲れ様です、皐月くん。初日からテストとは災難ですね」


 そう朗らかに言い、風に揺れる深い黒の髪をおさえながら微笑む。――胡桃だ。


 今朝とは見違えるほどの笑顔に驚いてしまうが、すぐに気を取り直す。


「ああ、全くだ。……で、二人とも何故ここにいるんだ?」


「ひ、酷くない!? あたし達、暁くんのこと待ってたんだよ!?」


「わたしは帰ろうとしたら、先輩に捕まっただけです」


「あ、そう……」


 俺以外の生徒は全員先に下校したと思っていたが、どうやら違ったようだ。


「ん……? 俺を待ってたなら、かなりの時間待ったんじゃないか?」


 テストが始まったのが大体正午。現時刻は五時まえだ。一般生徒の下校時刻を考えると六時間ほど待たせた事になる。待たせ過ぎ、では済まされない。


「大丈夫だよ。あたしたちはさっきまで生徒会のお仕事だったもん」


「わたしは生徒会ではないのですが、先輩が手を貸してほしいとのことでしたので」


「よくわからんが、お疲れさん……」


 二人が何をしていようが、俺には関係ないし興味もない。


 そんなことよりも飯を食べずに頭を使ったせいで腹が減った。早く帰りたい。明日も学校だと思うと憂鬱だが、それは小百合さんの飯を食べてから考えよう。


 それにこの二人は仲がとても良さそうだ。この後、遊びに行ったりするのだろう。


 俺は邪魔するのは気が引けるので早急にこの場を去ることにした。


「じゃ、俺は先に帰るから二人で楽しんでおいで……」


「あ~きらくん。待ってもらったのにその態度はないと思うな、お姉ちゃん」


「……そう言うと思ったよ」


 だから何か言われる前にとっととこの場から立ち去りたかったのに。まあ、逃げたところで帰る家は同じだから意味はないのだが。


 天然でアホの癖にサディストの姉さんは可愛らしいお口を三日月の形に歪ませている。


 それを見た俺は、頭痛をこらえるように額に手をやる。


「……なにして欲しいんだ? 先に言っておくが、一緒に風呂に入りたいってのはなしだからな。前にも言ったけど、本当に無理だから……」


「え、先輩、そんなこと言ってたんですか? 少し引きます」


「暁くん! そゆこと後輩の前で言わないでよ! 先輩の威厳が台無しだよぅ!」


「そんなもの、もとから先輩にありませんよ」


 心なしか姉さんから距離をとる胡桃に姉さんは涙目になりながら事情を説明している。


 ――あれは俺が蓮見家に来てから一週間程経過した時の話だ。


 俺がようやく慣れ始めた風呂場に入ろうとしたとき、姉さんが急に脱衣場の扉を開けて「背中流してあげるよ!」と声高に言ったのだ。


 心臓が飛び出る程に驚いた。急に開かれた扉にも、図体と同じようにデカイ声にも、なんの脈絡もない意味不明な言葉にも。


 一緒に入るのも悪くはないが、そんなことしたら俺のジョニーがスタンディングオベーションでマスターベーションだ。当然、断った。


 駄目元の提案だったらしく、意外と素直に諦めてくれたのだが、ふと疑問に思った。


 ――何故、急に背中を流そうと思ったのか。


 気になって、風呂から上がり姉さんに聞いてみたのだが、


「朝陽ちゃん、聞いて? 暁くん、こう見えて脱いだらスゴいんだよ」


 姉さんは俺の筋肉を見たかったらしい。


 曰く、俺が筋トレをしているときにチラと見えた腹筋が姉さんの琴線に触れたようだ。


 姉さんは筋肉フェチらしく、特に腹筋――なにか色々な名前を言っていたが、よく覚えていない。興味もない――が好きらしい。


 密告するように言う姉さんに胡桃はハァとため息をついて、冷たい視線を送っている。


「まあ、一緒に風呂に入ってはいないから……。じゃ、今度こそお先に失礼……」


 さりげなく抜き足でその場から離れようとしたが、肩をポンと掴まれた。恐る恐る後ろを振り向けば、案の定姉さんだ。


 ポンと表現したが、力はかなり強く、正直痛いくらいだ。


「待って。暁くんにはあたしたちを待たせた罰としてケーキをおごってもらいます」


 勝手に待っていたのは姉さんなのに……。まあ、そんなこと言っても無駄だろうが。


 正直待っていてくれたのは嬉しいが、こんなマッチポンプみたいな真似をして俺を強請ろうなんてな……。でも許す。可愛いからだ。


「わたしも行かないとですよね……」


 姉さんは困ったように笑みを浮かべている胡桃の肩もガシリと掴む。


「当たり前だよ! 朝陽ちゃんも来なさい! これは先輩命令です! ていうか、朝陽ちゃんも来ないと意味ないじゃん!」


「……わかりました」


「暁くんもいいよね!?」


「…………わかったよ」


 顔を真っ赤にして頬を膨らませている姉さん。涙目と相まって、庇護欲と嗜虐心を同時にくすぐられる。ここで少し虐めてやろうかと思ったが、胡桃がいる手前、イチャイチャするのはよくない。


 俺は可愛らしく怒る姉さんの頭をガシガシと撫で、姉さんの行き付けというカフェに向かう。場所は学校からそれほど離れていないため、すぐに着いた。


 見た目は中々にごつい外装で、喫茶店というよりはファミレスといったほうがしっくりくる。しかし、テラスに並べられた机椅子と窓から見える内装は落ち着いた雰囲気があり、なるほど確かにカフェだと思わせる。


「放課後に寄り道するなんて高校生みたいだな……」


「暁くん、高校生でしょ」


「ふふっ、皐月くんは面白い冗談を言う人ですね」


 そんなくだらない冗談を交わしつつ、俺たちは早速店の中に入る。中には人が少なく、人混みが嫌いな俺には嬉しい。


 こんなところには初めて来たので店員への対応は姉さんに任せる。常連客とあって、スムーズに事が運んだ。


 案内されたのはカフェの奥の方の窓側の席。日差しは入っているが、雰囲気がどこか暗く、隠れ家あるいは秘密基地を思わせた。


 テーブル席なので、入り口側の席に二人を座らせ、俺は反対の席に一人座る。


 注文が決まり次第、呼べとのことなのでメニュー表を開いた。


「何が食べたいんだ? まあ、何でもいいぞ……」


「はいっ! あたし、イチゴスペシャル生クリーム増し増しショートケーキ!」


 姉さんが指をさしたのは、見るだけで胸焼けしそうなほどに生クリームが盛られたショートケーキだ。苺かところ狭しと盛り付けられ、さながら装甲車のようだ。


 遠慮のえの字もない姉さんに呆れつつ、口元に手をやりクスクスと笑っている胡桃に目を向けた。今朝は感情と表情に起伏がないと評したが、どうやら俺の検討違いだったらしい。控えめな笑顔は姉さんの次くらいに可愛い。


「あー……君は何を食べたいんだ?」


 俺は胡桃を『君』と呼んだ。理由は単純。なんと呼べばいいのかわからないからだ。


 第一、胡桃と姉さんは仲が良くても俺と胡桃は赤の他人なのだ。


 確かに今朝、少し話したが、それでも距離感というのは簡単に縮んでくれない。


 そもそも俺は女の子と話すのが苦手なのだ。特に胡桃のような、どこか大人びていて筋の通った女の子はとても話しづらい。話しかけるのも至難の技だ。


 勇気を振り絞った俺の問いかけに、胡桃はイヤイヤと手をふり、苦笑いを浮かべた。


「いいですよ、わたしは」


 遠慮がちに断ってくる胡桃。たが、そういうわけにもいかない。最低限の礼儀は心得ているつもりだ。相手が女の子ならなおさら、だ。


「遠慮しなくていい。今朝のお礼もしたいしさ……」


「でも……」


 素直に聞いてはくれない胡桃に、もしかしたらダイエット中なのかと視線を這わせたが、スタイルは抜群だ。水泳部といっていたし、検討違いだろう。


 なら単純に腹が減っていないのかと思ったが、姉さんがニヤニヤしながら見ているメニュー表をチラチラと見ている。言葉では拒否しつつも、体は正直のようだ。


 その視線に気づいた姉さんは胡桃に向かってグッと親指を立てた。


「朝陽ちゃん、遠慮しなくていいんだよ!」


「姉さんが言うなよ……」


 苦笑する俺に、胡桃はやれやれと首をふる。


「……そこまで言われたら断るのも逆に失礼にあたりそうですね。ではわたしはこれを」


 ようやく素直になった胡桃が指をさしたのは姉さんと同じ装甲車ショートケーキだ。


 決まったようなので、店員を呼び注文をした。ちなみに俺はアイスコーヒーを頼んでおいた。腹は減っているが、俺は姉さんほど物を食べれないし、腹は小百合さんのご飯で膨らませたい。


 少々お待ち下さい、と店員が言いながら去るのを横目に見ながら頬杖をついていると、姉さんがパンッと手のひらを合わせた。


「はいっ! これより暁くんと朝陽ちゃんの懇親会をはじめたいと思いまーす!」


「…………は?」


 何をするのかと思えば、また突拍子もないことを……。


 俺が訝しげに姉さんを見つめていると、姉さんは唇を尖らせた。可愛い。


「そんな顔しないでよぅ。これは暁くんのためなんだからさ」


「……そのこころは?」


「だって学校じゃ暁くんと一緒にいれないからさ、暁くんと同じクラスでいちばん信頼してる後輩に暁くんの面倒を見てもらおうかなって」


「別に独りでも問題ないよ……。第一……その……胡桃さんに迷惑だろ……」


 姉さんから胡桃の方に視線を移せば、胡桃はうつむいていた。


 ……俺に名前を呼ばれるのがそんなに嫌だったのか。申し訳ないことをしてしまった。


「あ……いや、すまん。名前を呼んで……」


「え? あ、すみません。少し考え事をしていました。……というか何を言っているんですか? 名前を呼ぶくらい普通ではないですか?」


 俺の謝罪に、胡桃は目を点にさせて驚いている。本当に不思議そうな顔だ。


 ――やってしまった。間違いを、犯してしまった。


「そ、そうだよな、悪い。ははっ……何言ってんだか……」


 不意に耳鳴りがしてきた。


 キーン。キーン。キーン。キーン。サワサワ。ザワザワ。サワサワ。ザワザワ。


「…………っ」


『何をしている? 皐月 暁』


 違う。違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。


 俺はただ、普通に――。


『お前が普通に生きていく資格などないだろうに。図に乗るなよ』


「………………」


 ――ああ、駄目だ。やはり俺は普通に馴染めない。常識を把握できない。


 嫌われたくない。嫌われるくらいなら、俺から嫌う。失いたくない。失うくらいなら、最初から求めない。傷付けたくない。傷付けるくらいなら、傷付けられるのを見るくらいなら、俺がすべてを背負う。


 スーッと、急に血の気が引いてきて、気分が悪くなってきた。


 ――もう帰ろう。このままここに居たら駄目だ。俺にはその権利がない。


 そう思い立ち上がると、いつの間にか隣に座っていた姉さんが俺の手を掴んだ。


「落ち着いて、暁くん。……ほら座って? ぎゅってしてあげるから」


 そう言って、俺を座らせた姉さんは俺の頭を自分の胸に押し付けた。


 女の子特有甘いの薫り。これはシャンプーの匂いなのだろうか。だとしたら、シャンプーの制作会社はとんでもない兵器を創っていると思う。


 冷房の効いた店内では温かく感じる姉さんの体温に、トクントクンと微かに聴こえる心臓の音。何より姉さんの柔らかさ。そして大好きな匂い。


 そのすべてを鮮明に感じ取れるようになった頃には、俺の心は大分落ち着いた。


「……ありがとう、姉さん。もう大丈夫だ……」


「……うん」


 テーブルの上に視線をやれば、すでに装甲車ショートケーキとコーヒーが並んでいる。ほんのわずかな時間だと思っていたが、長い時間姉さんに抱きついていたようだ。


 まずは醜態をさらしたことを謝罪すべく、胡桃を見た。


 ――その整った顔は辛そうな表情を浮かべていた。


「すまん……。見苦しいものを見せたな……」


「いえ……大丈夫ですよ。落ち着いたのなら何よりです」


 優しい言葉とは裏腹に、辛く、苦しそうな表情は消えない。無理に笑顔を取り繕っているようで、見ていて痛々しいことこの上ない。


 そんな胡桃にどう言葉をかけるべきか悩んでいると、姉さんが俺の右手を優しく握った。


「……どうした?」


 問うと、姉さんは急に頭を垂れ、言った。


「ごめんなさい。暁くんの過去のこと、朝陽ちゃんに少し話した」


「――っ!?」


 急な爆弾発言に驚愕し、反射的に胡桃の方に目を向けてしまう。


「すみません……」


 別段悪くはないのに謝る胡桃に、言葉をかけれず、再び姉さんへと視線を戻す。


「…………理由を、聞いていいか?」


「……怒らないの? あたしのこと嫌いになるかもだよ……?」


 顔を上げた姉さんの目尻には少し涙が浮かんでいる。さらに上目遣いときたもんだ。童顔と相まって、破壊力は抜群だ。怒りどころか癒されるまである。


「理由を聞かない限りは怒れるものも怒れないよ……。まあ何があっても、俺は姉さんのこと大好きだから安心しろって……」


 握っている手と逆の手で頭を撫でながら言うと、姉さんはニヘっと笑い、俺の方へ距離を縮めた。そして、ひとつ大きく息を吸い、大きく吐く。姉さんの中で何かを切り替えたのだろう。


「朝陽ちゃん、さっき話したこと覚えてるよね?」


「はい。――皐月くんの、過去のことですよね……」


「うん。じゃあ、軽くおさらいしようか」


 姉さんは俺の過去のことを聞いていると言っていた。どこまで知っているかはわからない。俺の過去について話すことは蓮見家に来てからほぼなかった。俺から話すこともなかったし、姉さんや小百合さんからこの話題を切り出すこともなかった。


 正直、俺の過去は知ってほしくはない。それを知ってしまったら、俺に対する扱いはひどくよそよそしいものになってしまう。それほど、俺は酷いことを経験してきた。


 姉さんと小百合さんは知ってもなお、俺と『普通』に接してくれてはいるが、やはり何か思うところがあるはず。今日会ったばかりの胡桃はなおさらだ。


 つい、繋がれた右手に力が入ってしまった。姉さんはそれに気づかなかった様子で、言葉を紡いでいく。


「もう気づいていると思うけど、あたしと暁くんの苗字は違うの。暁くんはあたしの家――蓮見家に引き取られた遠い親戚の子なんだよ」


「ええ、皐月くんのご両親が他界されたから……ですよね」


「そうそう。だからあたしたちはホントに姉弟じゃないの。あたしが暁くんにお姉ちゃんって呼んでもらいたいからそうしてるだけなんだ」


「先輩、弟が欲しいって言ってましたしね」


 言葉を憚りながら言う二人に、もうやめようと言いたくなる。だが、それは駄目だ。


 よって、俺は俺のことを話している二人を傍観することしか出来ない。


「まあ、あたしは今朝まで義理の姉弟になってるって思ってたんだけどね。感覚的には下宿……みたいな感じかな」


「それで今朝は結婚がどうとか言ってたんですね」


「えへへ、ちょっと恥ずかしいな……。でも、暁くんとならいい家庭を築けそうだなぁ」


「そうですね。皐月くんはとても強く、紳士的な方です」


 今朝会ったばかりなのに、その褒めようは少し違和感を感じるが、まあいい。


「それだけじゃないんだよ。暁くんは運動もできるし、頭もスゴく良くて、身長も高いし、物静かでクールかと思えば、シャイなところがあって、もう可愛くて可愛くて……」


「おいコラ……。話が別の方向に飛んでいっているぞ……」


 傍観者に徹しようと決めたのに、全くこの人は……。褒めてもなにもでないのに。


「全く、姉さんってヤツは……。ケーキもうひとつ頼むか? 胡桃……さんもいっとくか?」


「こういうところがホントに可愛くて大好き!」


「ふふっ、少し分かる気がします」


 ハッ、いかんいかん。身体か勝手に動いてしまった。さっきまでは重苦しい空気だったというのに、我ながら緊張感の欠片もない。まあ、元凶は姉さんだが。


「…………」


 ふと、脳に電流が流れたような感覚に陥る。それはいわゆる『ひらめき』というのものだった。

 ――なるほど、な。


 先程までとは一変した表情の二人を見つめていると、あることに気がついた。


 ――それは姉さんが胡桃に俺の過去を話した理由だ。


 何も難しい話ではなかった。俺が姉さんのことを大切に想っているのと同じように、姉さんも俺のことを大事に思ってくれている。姉さんの言葉から出た俺への誉め言葉が何よりの証拠だ。そしてその事実が俺に気づかせてくれた。


 その理由は『俺の発作の対処を胡桃に頼みたいから』というものだろう。


 恐らく姉さんは胡桃に、俺の発作――PTSDの原因を話した。そして、その対処法も。


 ――心的外傷後ストレス障害。通称、PTSD。


 これが俺が今日の早朝から泣きべそかいて、ゲロを吐きまくった原因だ。


 俺は過去の経験のせいで、この障害を患った。症状としては突発的な吐き気、嘔吐。目眩に異常な発汗、幻聴に幻覚、意識混濁など多岐にわたる。


 頭では理解できている。だが、このPTSDは急にやってくるのだ。発生原因はいまいちわかっていないが、大抵あの『夢』を見たときと、不意に『ナニか』が俺に語りかけてくると発作がおきる。これは単なる幻聴だと思うが、『ナニか』の声は俺の声と酷似している。その事実が俺の発作を加速させる。


 前者と後者では発作の度合いは違い、前者の方が酷い。が、後者が楽というわけではない。正直、どちらも慣れているとはいえ回避することは不可能だ。


 しかし、対処法……というよりは発作を和らげる方法ならある。といっても蓮見家に来てから知ったのだが。


 ――早朝の発作は『夢』のせいだ。あれは蓮見家に来てから二回しかきていない。しかし、『ナニか』が語りかけてきた時にくる発作の数はは片方の指では足りない。


 その度に俺は――姉さんに抱き締めてもらった。そして、これが対処法である。


 蓮見家に来てから三日目のことだろうか。姉さんの目の前で発作が起きて、目眩のお陰でよろめいてしまったことがある。


 その頃には完全に姉さんとの心の壁は取り除かれていたので、姉さんは俺をひどく心配してくれた。当然、対処法を知らなかった俺は「心配するな」としか言えなかった。


 しかし、姉さんは苦しむ俺を見ていられなくなったようで、何を考えたのか俺を後ろから抱き締めてきたのだ。


 最初は驚いた。だが、じわじわと伝わってくる姉さんの体温と共に俺の発作が嘘のように消えていったのだ。それ以来、発作が起きたら姉さんは俺を抱き締めていてくれる。


 俺はそんな甘くて優しい姉さんや小百合さんの厚意を『毒』と評したが、なんら比喩にあらず、言葉の通りの意味だ。そしてその『毒』は俺の身体中を侵し、精神を蝕んでいく。


 俺はそれを甘んじて受け入れている。今だって姉さんの『優しさ(どく)』、そして胡桃の『優しさ(どく)』に甘えようとしている。自分の矮小さ、卑劣さ、そしてそんな二人に何も出来ない無力さを感じる。


 ――俺は弱い人間だ。


「…………」


 喉の調子を確かめるように咳払いをして、場の空気と心を入れ替える。


 それを察した姉さんは再び重い口を開こうとするが、俺はそれを手で制した。


 当然、姉さんは俺の行動の真意を視線で訊ねてくる。俺はそれに対し、慣れない笑顔で応じた。


「姉さんが胡桃さんに話した理由がわかったよ……。ごめんな、姉さんに辛い思いさせたな……。だがもう大丈夫だ」


「……うん」


 もう一度、安心させるように姉さんの頭を撫で、胡桃の方に向き直る。


「……いくつか、聞いていいか?」


「ええ、いいですよ」


 そんな聞き分けが良い胡桃に、早速質問をしていく。本当に酷い質問を。


「君は姉さんから俺のことを聞いた。そして姉さんから俺の発作を抑えてもらいたいと頼まれた。さらに君はそれを了承した――違うか?」


「……ご明察です」


 二人の目論見を当てたのに驚かない様子の胡桃。流石に気づかれると思ったのだろうか。共謀者である姉さんに目を向けると、こちらもまた特に驚いている様子はない。むしろ、気づかれるとわかっていたように苦笑いを浮かべていた。


「さすがにバレちゃうかー。まあ最初から暁くん相手に隠せるとは思ってないけどね」


 俺を褒めるように頭を撫でくる姉さんは表情を変え、続ける。


「その通りだよ。あたしは朝陽ちゃんに暁くんのことをお願いした。でもね、それにはちゃんと理由があるんだ」


「……なんだ? その理由というのは……」


「それは朝陽ちゃんがしっかりしていて、いちばん信頼できる後輩だからって言うのもあるけど……いちばん大きいのは……」


「――先輩、いいですよ。あとはわたしから説明します」


 そう言って、胡桃は話を引き継いだ。その理由はさっぱりだが、俺にはどうしようも出来ない。視線だけで続きを促した。


「皐月くんは今朝のことを……わたしの自己紹介の時のことを覚えていますか?」


「……ああ、覚えている。それがどうかしたのか?」


「なにか、感じませんでしたか?」


「――――」


 胡桃は恐る恐るといった体で問うてくる。


 なにか、というものは違和感か何かだろうか。それなら確かにある。だがそれは、考えすぎだと途中で思考を切り捨てたものだ。俺は普通がわからないからそれが大衆の常識だと思ったのだが、やはり普通ではなかったようだ。


「――君と俺、何処かで会ったことがあるか?」


 俺が遠回しに違和感の正体を告げると、胡桃は形の良い目蓋を伏せた。


「ご名答。ですが、わたしのことを覚えてはいないようですね」


「……すまん。俺は人の顔を覚えるのが苦手でな……」


「え、ん? 暁くん、もうわかったの? なんでなんで?」


「……まぁな。姉さんのスパルタ自己紹介練習のおかげだよ……」


 丸いドングリのような瞳をぱちくりとさせ疑問を顔に出す姉さん。俺のワイシャツの袖を指先で摘まむ仕草が何とも言えない程に愛らしく、つい抱き締めてしまいそうになる。


 俺は庇護欲を鋼の精神で抑えて、姉さんの問いに答える。


「簡単な話だ。――胡桃は自己紹介の時に『はじめまして』と言わなかった……」


 自己紹介の上で大切なのは最初の『はじめまして』に、終わりの『よろしく』であると姉さんが言っていた。お互い初対面なら失礼の無いよう挨拶を大切にすべき、という姉さんの言葉には感涙に咽び泣く思いだった。


 そんな事を聞いていたから胡桃の自己紹介に違和感を覚えたのかもしれない。お互い、会ったことがあるなら『はじめまして』をつけなくても不思議ではない。そこら辺の常識はやはり理解することは難しいが。


「君は何処かで俺と会ったことがあるから『はじめまして』と言わなかった……いや、言えなかったのかもしれないが。――正解か?」


「…………」


 どうやら図星のようだ。よく考えてみれば簡単なことだったが、すぐに気づけなかった自分の浅ましさに腹が立つ。


「皐月くん」


 自分の愚かしさを悔いていると、胡桃は冷静かつ柔和にに俺を見つめ、


「確かに『はじめまして』と言ってないかもしれませんが、それは考えすぎですよ」


 そう言い放った。耳に心地好い、透き通った声で。


「…………フム、そうか……」


 恥ずかしい。当たり前だ。自信満々に言って的を外しているのだから。


 みるみると顔面に熱が集まっていくのが分かる。今の俺の顔はさぞかし紅に染まっていることだろう。胡桃の優しい視線が羞恥心に拍車を掛けて、爆発寸前だ。


「プッ……ククッ……暁くんっ、カッコ悪いよっ……プフッ……」


 いっそのことこんな風に素直に笑ってくれた方が気分が楽だ。


「すみません、変に勘違いをさせたようですね……」


「な、なに、気にすることはないさ……。俺が悪いんだよ……」


「アハハハハッ! お、お腹痛いよぉっ! 暁くんってば、可愛すぎだよっ!」


「姉さんは少し気にしてくれてもいいと思うぞ……」


 腹を抱えて爆笑している姉さんを放っておき、胡桃に真意を問う。


「俺たちが何処かで会ったことがあるのは事実なんだよな……」


 過程を勘違いしてしまったが、結果は正しいものだったからもういい。この事については忘却の彼方に消し去ろう。


「ええ、そうですよ。わたしが言いたかったのは、単純に自己紹介の時にわたしを思い出さなかったか、ということであって、難しいことはありませんよ」


「それはもうわかったから忘れさせてくれ……。――本題に入ろう。君が俺の発作の対処をしてくれる理由はなんだ……?」


 これだけのために随分と遠回りしたものだ。胡桃も早めに本題に入ってくれれば余計な傷を負わずに済んだのだが、それはもう後の祭りというやつだ。


「それは君とわたしが以前会ったことに関係しています」


 まあ、これまでの話の流れからすればそれくらいのこと、察することは容易だ。


 長話になると思ったのか、胡桃はアイスコーヒーで喉を湿らせた。それ俺の……。


「わたしが、今ここでこうして生きていれるのは皐月くん、キミのおかげです。キミは私にとって、嘘偽りなく、なんの誇張もなく――命の恩人です」


「…………は?」


 突然の告白に頭がついていけない。言葉を聞き取れていても、素直に意味を理解できない。それほどに胡桃は訳の分からないことを言っている。


「すまん、意味が分からない……。説明してくれ……」


「そうですね……。つい数時間前にも先輩にした昔話をしましょうか」


 そう言って再びアイスコーヒー喉を湿らせる胡桃。だからそれ俺の……。


「まあいい。話してくれ、出来れば簡潔に教えてくれると助かる……」


「簡潔、ですか……。わかりました」


 俺の言葉を承諾し、胡桃は息継ぎをした。俺のアイスコーヒーは飲み干してしまったようだ。一口も飲んでいなかったが、この際どうでもいい。


「今から四年ほど前の話です――」


PTSDについて、僕の認識が間違っている部分があるかもしれませんが、スルーしてください。

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