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家族ごっこ。  作者: 電子機械
2/11

2

 ――九月一日。今日で夏休みも終わり、俺にとって新しい学校生活が始まる。


 俺が蓮見家に来てから約二週間が経過した。初日に大分打ち解けたおかげか、姉さんと小百合さんとの関係は上手くいっている。無愛想な俺に歩み寄ってくれた二人には感謝の言葉しかない。


 俺はあの人と十五年以上共に生活していたが、結局あの人のことを理解することは出来なかった。理解しようともしなかった。あの人も俺を理解することはなかっただろう。


 しかし、姉さんと小百合さんは違った。


 初めて二人に会ったのは俺が幼いとき。よってほぼ初対面なわけだが、たったの二週間で自分でも驚くほどに仲が深まった。


 特に姉さんとはとても良い関係を築けている。それこそ、本当の姉弟のように。


 俺はとても満たされている。幸せといっても過言ではない。


 だが、長年の生活習慣というのは簡単にはなくならない。現に俺は今、身体中から脂汗を流し、荒い呼吸を繰り返している。


 普段なら心地好い微睡みから手繰り寄せるように覚醒するのだが、今回は無理矢理に、そして故意に意識を獲得する。


「――ハァッ、ハァッ」


 酷い目覚めだ。今日から学校だっていうのにとても気分が悪い。視界が黒ずみ、上下左右と忙しなく回る。キーンとつんざくような耳鳴りのせいか、頭の中が揺れている。起き上がっているはずなのに、寝ているような感覚だ。もう右も左も分からなくなってきた。


「うっ……」


 猛烈な吐き気に襲われ、急いでトイレに向かう。平衡感覚が麻痺しているのか、歩いている感覚がしない。今は暗いのか明るいのか、朝なのか夜なのかわからない。まだ夏だというのに寒い。背筋が凍るようだ。


「ハァ……ハァ……」


 朦朧とした意識のなか、壁伝いになんとかトイレに着いた。ここまできた道は思い出せない。何にせよ、胃のなかの異物を早く吐き出したい。


「おぅぇ……」


 ビチャビチャと不快な音をたてながら異物を吐き出す。その異物は昨日の夕食ではなく、無色透明の胃液だった。


 胃が痙攣し、何度も何度も嘔吐する。最初は色がなかった吐瀉物は、やがて血と混じり赤みを帯びていった。


 五分程経過したところでようやく落ち着いた。電灯の昼白色に照らされている便器は俺の血で真っ赤に染め上がっている。


 吐き出したものを流し、軽く掃除をする。そして洗面台に向かい口をゆすぐ。そのまま顔を洗い、鏡を見た。


 しかし、映るのは闇。まだ夜であることに今さら気付き、電気をつける。


 ――酷い顔だ。顔面は蒼白で、唇は青紫色だ。特に酷いのは目元。涙を流したせいか、赤く腫れている。瞳は電気に照らされているはずなのに光がなく、どす黒い。それは底のない穴のようで、思わずまぶたを閉じてしまった。見ていると、その穴に落ちてしまいそうで怖かったから。


 不意に身体から力が抜け、その場にへたりこんでしまった。


 ああ、情けない。何度も見た悪夢にうなされて無様にゲロを吐くとは。この家に来てからもう二回目だ。今が幸せな分、反動が強いのだろうか。その証拠にあの家に居たときは多くて一ヶ月に三回だった。


「ハァァァ……」


 俺は大きな溜め息をついた。肺が膨らみ萎む感覚はとても落ち着く。


 ――自分で自分が嫌になる。いつまでも過去に囚われて前に進めない。いや、進んではいるのだ。ただ、その分後ろに退っているから結局、プラスマイナスゼロなのだ。


「――暁くん……?」


 ふと、声がした。その声の主はパジャマ姿の姉さんだった。


「……おはよう、姉さん。悪いな、起こしちゃったみたいで……」


 俺の部屋と姉さんの部屋は隣通しだ。バタバタと音をたてれば起こしてしまう。前回、起こさなかったのは偶然だろう。


 姉さんは衰弱した俺を見るなり、駆け寄ってくる。


「ど、どうしたの!? 具合悪いの!? 待ってて、いまお母さん呼んでくるから!」


 俺は、そう言って走り出そうとする姉さんの手をガシリと掴む。


「大丈夫だ、問題ない……。ちょっと気分が悪くなってトイレに行っただけだよ」


「本当に……? ぎゅってしたげるよ……?」


 姉さんは俺の顔を覗き込むように見つめてくる。


 姉さんは本当に優しく人だ。だから迷惑をかけたくない。なのに、俺は……。


「戻したら楽になったから大丈夫だ……。まだ日の出まで時間があるよ、寝よう……」


 半ば強引に姉さんの腕を引っ張り、部屋へと歩みだす。その間、色々と姉さんに聞いてきた気がするが、まだ思考が安定しなかったから適当に返していた。


 姉さんの部屋の前につき、手を離す。出来るだけ優しく握っていたつもりだったが、少し力みすぎていたらしい。手のひらが汗で湿っている。


「すまん、痛かったか……?」


「ううん、平気だよ。……それより、本当に大丈夫なの……?」


 まだ俺のことが心配なのか、再び同じ質問をしてくる。


 ――心配させちゃいけない。


「戻したらスッキリしたって言っただろ? 本当に大丈夫だって」


 心配させちゃいけない。心配させちゃいけない。

「暁くん」


「心配するなって。こういうことよくあるんだよ、俺。夏はアイスを食べ過ぎるからな……。そういや、あのアイスの新味食べたか? そこそこうまいぞ?」


 心配させちゃいけない。心配させちゃいけない。心配させちゃいけない。


「……暁くん」


「まあ、姉さんは女の子だから体を冷やし過ぎちゃ駄目だからな? 気をつけないと俺みたいになるからさ……。さ、寝ようぜ? 明日……今日から学校始まるし……。初日から遅刻は嫌だろ? 俺は編入初日だしよ……」


「――暁くんっ!」


 心配させまいと饒舌をふるう俺に、姉さんは怒鳴る。その声は微かに震えている。


 そんなに大きな声を出すなよ……。小百合さんが起きちゃうだろ……。


「どうしたんだよ……。まさか、アレか? 女の子の日か?」


「暁くん、こっち来なさい」


 俺の失礼なジョークを無視し、姉さんは俺の手を思い切り掴んだ。そしてそのまま、姉さんの部屋に連行される。


 抵抗しようにも、握る力が強すぎて振りほどくことができない。何故こんなに力が強いのだろうか。俺より強いと思う。


 初めて入った姉さんの部屋は、何かお香でも焚いているのか優しく薫りがする。暗くてあまり見えないが、可愛らしいインテリアが所狭しと並べられている。腕力とは裏腹に意外と少女趣味な姉さんらしい部屋だ。


 そんな部屋を鑑賞する余裕もなく、俺はベッドに座らされる。姉さんも隣に座った。


「なんだよ……。ひとりじゃ寝れないのか……?」


「…………」


 本当にどうしたんだよ。何か言ってくれないとわからねぇよ……。


 姉さんの表情は窺えない。暗い上に姉さんは俯いているからだ。この家に来たばかりの頃を思い出すシチュエーションだ。まあ、あの時下を向いていたのは俺だったが。


 俺は一度深呼吸をし、もう一度、真剣に聞いてみる。


「姉さん……。本当にどうした……?」


 俺の問いに、姉さんは顔を上げた。そして弱々しく俺の寝間着であるTシャツの袖を握り、言葉を紡ぐ。


「ねぇ、暁くん……。あたしさ、そんなに頼りないかな? 確かに暁くんより頭は良くないけどさ……生半可な覚悟でお姉ちゃんになったわけじゃないんだよ?」


 姉さんはなおも続ける。一言一句に想いを込めながら。


「あたし、暁くんがどんな経験をしてきたかお母さんに聞いてるんだ。正直、暁くんの苦しみはわからない。わかったようなことも言えるわけない。……それでも、親を失う悲しみはわかるんだよ?」


 まあ、俺の話を聞いているとは思っていたし、特に驚きはしない。


 姉さんが言っているのは義昭さんのことだ。


 姉さんは父親を失い、俺は母親を失った。親を失う気持ちは共用できる。


「あたしはお母さんとお兄ちゃんがいたし、中学生の頃だったからまだ大丈夫だったけど、暁くんは小さかったし、きょうだいがいなかったでしょ?」


 父親のことに触れなかったのは姉さんの優しさ、あるいは躊躇だろうか。


「家族の温かさを知らない暁くんに家族ってやつを教えてあげようってお母さんと約束したんだ。……だから、もっとあたしに……お姉ちゃんに甘えてほしい。もっと頼ってほしい。……ってお母さんも言うと思うな」


 言い終えて、姉さんは暗闇でもわかるくらいに朗らかに笑みを浮かべる。


 いや、そんなこと言われてもな……。今でも十分頼っているし、甘えてもいる。そもそも、あの発作は苦しいし、辛いのだが慣れてはいるのだ。そこまで心配されるのと、なんというか調子が狂う。


 しかし、姉さんの厚意を無下にするのは心苦しい。今日から学校なのだ、少しくらい甘えさせてもらおう。……ベッドの上でな。


 そんなくだらないことを考えられるくらいに冷静になってきた俺は、姉さんのお言葉に甘える。


「分かった。……文字通り、血反吐吐いたから正直辛い。俺が眠るまで背中さすってくれないか……? あと姉さんは隣で寝てくれ」


 そのまま、遠慮もデリカシーもなく、姉さんのベッドに倒れこみ、ポンポンとベッドの上を叩き、隣に来るよう無言で指示をする。もちろん、挑発的な態度をしながら。


 そんな俺に姉さんは呆れつつも、嬉しそうだ。俺も嬉しい。


「仕方ないなぁ。この甘えん坊さん♪」


 姉さんは俺の額を人差し指でつつきながら横になる。向かい合うように寝たので、背中をさするには抱き寄せるような形になる。無論狙った。


 ちょくちょく俺の首を絞めたり、急に抱きついてきたりする姉さんだが、ベッドの上ということもあり、緊張して挙動がぎこちない。どうやら恥ずかしがっているようだ。まあ、俺も恥ずかしいからおあいこだ。


「姉さん」


「ん? どうしたの?」


「可愛いよ」


「…………おバカ。あと数時間もすれば学校行く時間なんだから寝なさい」


「わかってる」


 冗談で言ったつもりだったが、今まで雲に隠れていた月明かりが部屋に差し込んだとき、俺は息をのんだ。ほんのり頬に朱がさした姉さんがとても可愛いく、心臓が大きく跳ねた。


 つい、自分の手を姉さんの背中に回していた。九月に入ったとはいえ、まだまだ暑い。流石に嫌がられると思ったが、姉さんは俺の奇行を黙って受け入れてくれた。


「……って、もう寝てんのかよ……」


 なんだよ……。少しドキッとしたじゃねぇかよ……。


 背中をさすってくれなくなったが、姉さんが近くにいるだけで、俺の気分はどんどん楽になっていった。


 これが女の温かさ。これが女の柔らかさ。あの人がこれに溺れたのもわからなくはないかもしれない。絶対に理解したくないと思っていたが、俺も結局はあの人の血を引いているのか……。


「むにゃむにゃ……」


「…………」


 ――やめよう。くだらないことを考えるのは。姉さんを見ていると、うじうじしている自分が馬鹿らしくなってくる。


「俺も寝るか……」


 俺はそう独りごち、静かに眠りについた――


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