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家族ごっこ。  作者: 電子機械
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初書きです。


可愛がってください。


誤字、脱字、表現の間違いや文法の間違いがあれば、優しく教えてください。

「――ここか……」


 日差しがアスファルトを焦がす炎天下のもと、俺――皐月(さつき) (あきら)はとある家の前に立っていた。


 その家は二階建てで、色合いも落ち着いている。特徴がなく閑静な住宅街に面白いくらいに紛れ込んでいた。


 表札には『蓮見(はすみ)』の文字。自分とは違う名字だが、これからはここが自宅となる。


 早速チャイムを鳴らす。先程、もうすぐ着くと連絡しておいたためか直ぐに玄関の扉は開いた。


「お、待ってたわよ。ささ、入って」


 出迎えてくれたのは栗色の髪を後ろで結んだ麗人。見た目は二十代後半といったところだが、実年齢は四十代のはずだ。名前は小百合(さゆり)さん。エプロンを着けた小百合さんは、俺を手招いてくれる。


 小声でお邪魔しますと呟き、家の中に入る。今まで炎天下にさらされていたせいか、とても涼しく感じる。


 俺は訳あってこの家でお世話になることになった。小百合さんは俺の遠い親戚で、確か俺の母方の曾祖父のきょうだいの孫だったはずだ。


 ほぼ赤の他人だが、これから俺の保護者となる人物である。


「お世話になります。これ、つまらないものですが……」


 礼儀としてここに来る途中に買っておいた菓子折りを手渡す。暑さにやられてないか心配だ。


「別にいいのに。……それじゃ、家の中を軽く案内するからついてきて」


「はい……」


 言われるがままについていく。リビングにトイレ、風呂場……前に住んでいた家とは大きさが違うので、迷いそうで心配だが、慣れるまでの辛抱だ。


「ここが暁君の部屋。三年前まで使ってた部屋だから、必要な家具は揃ってるはずよ」


 最後に案内されたのは、俺の自室となる十畳ほどの部屋。ベッドにタンス、机まで全部揃っている。


 部屋の隅を見やれば、小包が置いてある。先に届けておいた俺の荷物だろう。


「疲れたでしょ? 何か飲み物欲しい?」


「いただきます……」


 自分で持ってきたバックパックを部屋に置き、先程案内されたリビングへと向かう。


 そういえば、娘さんを見かけない。お盆は過ぎたといえ、今日は夏休みで休日だからどこかに出かけているのだろうか。


 小百合さんがお茶を入れているのを手伝いながら聞いてみることにした。


「娘さんは何処に居ますか? 挨拶がしたいのですが……」


 この蓮見家は三人家族だ。ご主人の義昭(よしあき)さんはすでに亡くなっていて、妻の小百合さんと娘の遥香(はるか)さんで暮らしている。


 遥香さんの兄である康太(こうた)さんはもう自立して一人暮らししているらしい。


 事前に小百合さんには会っていたが、遥香さんには会っていない。小さい頃、親戚の集まりで会ったことがあるらしいが顔を覚えていない。この家でお世話になる以上、早めに挨拶を済ませたいところだ。


「遥香は生徒会の仕事で高校に行ってる。暁君が通う高校よ」


「そうですか……」


 俺の記憶に間違いがなければ、遥香さんは俺のひとつ上の高校三年生だ。通う高校が同じということは先輩になる。しかも生徒会執行部と来たもんだ、距離感を図りかねる。


 人見知りという訳ではないが、女性――特に年齢の近い年上の女性は苦手だ。童貞だからだろうか。


「いや、関係ないな……」


「ん? どうしたの?」


「いえ、何でもありません……」


 声に出ていたようだ。しばらく独りで生活してきたせいか、独り言が癖になってしまった。気を付けなくてはいけない。


 お茶を入れ終え、リビングの椅子に座り一息つく。


 照明がついていないので窓から差し込む太陽光が優しく室内を照らしている。開いた窓から時折涼しい風が入り込み、風鈴が踊るように靡く。


 一口、二口とお茶を飲む。市販の麦茶が、乾いていた喉に潤いを与えてくれる。


 ふと、こちらを見つめる小百合さんと目が合った。小百合さんは優しくはにかみ、何でもないよと視線で伝えてくる。


 そういえば、小百合さんに聞きたいことがあった。


「何で俺なんかを引き取ろうと思ったんですか? ほとんど赤の他人なのに……」


 この前、小百合さんに会った時に同じ質問をしたが、返事は今度教えるというものだった。


 気になって夜も眠れない……という訳ではないが、聞いておきたいという気持ちはある。


「……どうしてだと思う?」


 頬杖をつき、からかうように言う小百合さん。


 分からないから聞いたのだが、こうやって返したのには理由があるのだろう。


「分かりません……」


「……そっか」


 ほんの少し、小百合さんの表情に影が差した気がした。俺の答えが悪かったのだろうか。


 申し訳なくなったので謝罪しようと口を開いたが、それより先に小百合さんが言葉を紡いだ。


「理由、か……。覚えてる? 昔、親戚の集まりでの出来事」


「覚えていますが……特に何もなかったと記憶しています……」


 蓮見の本家ははそこそこの名家で家が大きく、お盆の時期になると親戚一同が集まる。俺も親に連れられ、何度か行ったことがある。


 大規模なので、自分とどういう繋がりなのか分からない人物もいる。この蓮見家も引き取ると言われるまで、自分とどのような関係にあるかあまり知らなかった。


「それがどうかしたんですか……?」


「うーん……やっぱりこの話は止めましょ? 暁君にとって面白い話じゃないし。ハイっ、おしまい!」


 早口でまくし立て、手をパンと叩いて強制的に話を終わらせる。

 当然と言っちゃ当然か……。俺のことを案じてくれているのだろう。いつか小百合さんから話してくれるまで待とう。


「すみません、変なこと聞いて……」


「いいのいいの。それじゃ、買い物に行くから部屋で休んでていいよ」


「手伝います……」


「いいから休んでて。ここまで歩いて来たんでしょ? 遠慮しないでくつろいでていいからね」


 そう言って準備をし、小百合さんは買い物に出掛けてしまった。


 どうしようか。他人の家にお邪魔した経験なんて数える程しかないのだ、くつろげと言われても難しい。


 とりあえず、義昭さんの仏壇に挨拶をして自室に戻ることにした。


 小包を開け、一通りの荷物を床に広げる。といっても着替えと勉強道具と小物数点しかないので、片付けはすぐに終わった。


 ベッドに倒れるように横になる。同時に全身を倦怠感が襲った。


 俺はこのクソ暑い中、新幹線で約二時間。さらに駅からバスで約一時間。そこから徒歩で約一時間。途中途中、休憩も挟んだが身体のあちこちが軋む。


「眠い……」


 この家は酒の臭いもしない。生ゴミの腐臭もしない。鼻孔をくすぐるのはシーツから漂う柔軟剤の薫り。


 女の喘ぎ声もしない。男の怒鳴り声もしない。鼓膜を震わせるのは蝉の声。


 ――あの人がいない。あの人はもう何処にもいない。居るのは俺を気にかけてくれる人。


「多分、これが普通なんだよな……」


 天井に向かって手を伸ばし、宙で拳を握る。


 開かれた窓を見やれば、遠い空に入道雲が見えた。青い空に白い雲。まるで青春ドラマのワンシーンのような光景に酷く不快感を覚えた。


 視線を机の上に移す。そこには数少ない私物――写真立てがある。そこに映る人物に語りかけるように呟いた。


「母さん。俺、なんとかやってくからさ……見守っててくれよ……。そんな資格、俺にはないかもしれないけどさ……」


 その言葉が終わる頃には、俺の瞳は閉じられていた――

 

 *

 

 どうやらあの後、しばらく寝ていたようだ。外はすでに夜のとばりが降り始めていた。腕時計を見やれば十八時を過ぎている。かれこれ三、四時間寝ていた計算になる。


 いつの間にかタオルケットが掛けられていた。小百合さんの気遣いに涙が出そうになる。


「そうだ……晩御飯……」


 寝惚けた頭を振り、眠気を取り除く。そのまま一階のキッチンに向かう。


 小百合さんはエプロンを着けて、玉ねぎを切っている最中だった。こちらに気づいたようで軽く手を振ってくる。


「おはよう。よく眠ってたよ」


「すみません、寝過ごしました。手伝います……」


「んー。じゃあ、野菜サラダ作るからこのお野菜切ってくれるかしら?」


「御安いご用です……」


 一度自室に戻り、自前のエプロンを身につける。


 料理は得意だ。というか自炊しなくてはいけない環境で育ったので嫌でも技術は身に付いた。他にも家事なら一通りこなせる。


 俺の手慣れた包丁さばきに驚いたのか、小百合さんが拍手をしてくる。


「すごーい。遥香より料理上手いんじゃないかしら?」


「そうですかね……。そういえば遥香さんは帰って来たんですか?」


「うん。汗かいたーって言って、すぐにお風呂入ったけど……お、噂をすれば……」


 小百合さんがリビングの扉に目を向けたので、つられて俺も見る。


 そこには風呂上がりの少女がいた。バスタオルで髪を拭きながら、慣れた動作でソファーに座り、短パンからすらりとのびる脚を組む。


「お母さーん。シャンプー、そろそろなくなりそうだよー」


 彼女が遥香さんだろう。


 遠目からでも分かるほどの美少女だ。綺麗に艶めく黒髪をセミロング――いまいち髪型に詳しくないが――にし、時折覗く白いうなじが艶かしい。風呂上がりのせいか、ほんのり赤みを帯びた顔は色っぽく、目元が小百合さんにそっくりだ。


 部屋着であろう黒のタンクトップを押し上げる胸の膨らみは女性らしさを感じさせる。小百合さんも胸は大きい方だ。なるほど、流石は親子と言ったところか。


 切り終えた野菜たちを小百合さんに渡し、俺は遥香さんの下に歩み寄る。


 かつて親戚の集まりで会っていたようだが、俺は覚えていない。ほぼ初対面ということになる。緊張するが、あらかじめ考えていた台詞はすんなりと出てきてくれた。


「初めまして、皐月 暁です。これからこの家でお世話になります……」


 出来るだけ笑顔で接する。相手は年上とはいえ年頃の女の子だ。変に思われたくない。


「ふぇ……?」


 俺の挨拶に気づいた遥香さんは、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。何かおかしい点があったのだろうか。


「ちょっ、え!? お、お母さん、今日来るなんて聞いてないよ!」


「ちゃんと言ったよ? 遥香が聞いてないだけでしょ?」

 みるみると顔を赤らめる遥香さん。油断しているところを見られて恥ずかしいのか、不意を突かれて怒っているのか、さっぱりだ。


「すみません、急に声をかけたりして……」


「いやいや、あたしこそごめんなさい。……えっと、蓮見 遥香です。覚えてないかもしれないけど、昔会ったことあるから久しぶりってことになるよ」


 遥香さんが言っているのは例の親戚の集まりのことだろう。全く覚えてないが。


「いやー、あたし弟欲しかったんだよね。気軽にお姉ちゃんって呼んでいいよ。ってことでヨロシクね、暁くん」


「はい、よろしくお願いします……遥香さん……」


「あはは、お姉ちゃんって呼んでよー。……えいっ!」


「ちょっと……」


 遥香さんは俺に抱きついてくる。女性にしては身長が高いため、顔が近くなる。甘いシャンプーの香りが鼻に届き、不覚にも心臓が跳ねてしまった。


 やけに馴れ馴れしい。距離感を図りかねる俺に気を遣ってくれているのか、はたまた堅苦しいのが苦手な性格なのか。


 俺は少しばかり浮世離れしている自覚はあるが、至って健全な男子高校生だ。綺麗な女性が密着するのは恥ずかしい。顔面に血液が集まっているのが感覚として分かる。


「……あの……離してくれません?」


「やだ、顔真っ赤にして可愛いいー! お姉ちゃんって呼ぶまで離しませーん!」


 俺の反応が余程面白かったのか、離れるどころか、さらに柔らかい身体を押し付けてくる。


「オネイチャン、ハナシテクダサイ」


「感情がこもってない。もう一度!」


「ハァ……。お姉ちゃん、離してください……」


「敬語はなしで」


「…………お姉ちゃん、離してくれ……」


 観念し、遥香さんの口車にのる。当の本人は満足した様子で離れって行った。


 ようやく離れたと思いつつも、一抹の寂しさが俺の心に生まれる。文句を垂れつつも喜んでいるなんて、我ながら子供みたいだ。


「良くできました。……これから家族になるんだからさ、遠慮とかなしにしよ? お姉ちゃんとの約束」


 言いながら、右手の小指を差し出してくる。指切りげんまんがしたいのだろう。


 優しい言葉とは裏腹に黒く澄んだ瞳は真剣そのものだ。


 先程のように抱きつかれても敵わない、ここは素直に従うことにする。


「わかりま……わかった……」


 俺も自分の右手の小指を差し出し、遥香さんの小指に絡める。白く形の良い小指は触れるのが躊躇われるほどに綺麗だった。


 不意に胸の内に込み上げる感情が瞳から溢れそうになる。俺は必死にそれを抑え、冷静に小指と小指の契りに集中する。


 だからだろうか。近づいてきた人影に俺は気付かなかった。


「――お楽しみのところ悪いけど、晩ごはん出来たから、用意を手伝ってくれるかしら?」


「す、すみません。今すぐに……」


 反射的に口から出た謝罪の言葉に、しまったと後悔する。


 だが時すでに遅し。恐る恐る後ろを向けば、そこには目が笑っていない般若――のような遥香さんがいた。


「お姉ちゃんとの約束をこうも早く破るとは……お仕置きが必要だね、あ・き・ら・く~ん?」


 顔全体の表情としては満点の笑顔で微笑んでいる。しかし、遥香さんの後ろでは紅蓮の炎が渦巻いていると錯覚するほどに遥香さんの怒りが伝わる。その姿は、さながら金剛力士像のようだ。


「――ハハッ」


 これが俺の新しい家族か……。


 悪くはなさそうだ。


 少なくとも、あの人がいないのだ。もう怯えて過ごす必要はなくなった。


 さっき留めたはずの感情が瞳から零れ落ちた。一度決壊した防波堤は次々と流れ出る感情を見逃す。


 止まれ、止まれよ、止まってくれよ……。


 自分の感情だというのに制御が出来ない。このままでは心配させてしまう。早く止まってくれよ……。俺の身体だろ……?


 ふと、声がした。


「――大丈夫だよ」


 優しく諭すのは遥香さん。俺の不安ごと抱き締め、涙を拭き取ってくれる。


「安心していいのよ……」


 慈しむように教えてくれるのは小百合さん。俺の感情を分かち合うように頭を撫でる。


 ――もう、限界だった。


 喉の奥から自分のモノとは思えないほど弱々しい嗚咽が漏れでる。


 俺は会ったばかりの人に、情けなくすがり付き、感情が流れ出る瞳を精一杯に擦り付け、無様に泣きわめいた。その姿はまるで赤ん坊を思わせるだろう。


「ぅぁぁ……ぁぁ……」


 もう何も考えられなくなってきた頭の中には、ひとつの感情が芽生え始める。


 ――温かくて、柔らかくて、いい匂いで、なにより優しい。


 いつかこの感情の名前が知りたいなと、不思議と冷静な心中で呟いた――


 

 *

 

 ざぶんと音が鳴る。その音は狭い空間を反射して俺の耳に帰ってくる。


 時は夕食後。場所は浴室。


 ――消えてなくなりたい。


 誰に見られている訳でもないのに、両の手のひらで顔を覆い隠す。そうでもしないと羞恥心で爆発してしまいそうだった。


 ――あの後俺は、結局十分ほど泣きわめいた。膝が崩れ、床に座り込んでもなお、涙が止まることはなかった。嗚咽が止むことはなかった。


 泣き止むまで小百合さんも遥香さんも俺の側に居てくれた。頭を、背中を撫で続けてくれた。遥香さんに至っては会ったばかりの人間を抱き締め続けてくれた。


 その行為は俺の存在を赦してくれているようで、感情の吐露を加速させた。身体中の水分が無くなる程に涙を流した。


 泣き止んでも遥香さんと小百合さんはしばらく俺を離さなかった。もしかしたら俺が離さなかったのかもしれない。


 流石にその状態では居られないため、本当に落ち着いた頃に「もう大丈夫」と伝え、夕食になったのだが、その間、俺は口を開けなかった。小百合さんと遥香さんの顔が見れなかった。


 食べ終わったのと同時に小百合さんが風呂を勧めてくれたので、その言葉に甘えて入った。


 冷たい水を頭から被って、身体を洗い、湯船に浸かって――現在に至る。


 頭が冷えて、正常な思考を取り戻せた。


 ――ここまで、とはな……。


 ここまで俺の精神は磨耗していたとは。


 ほぼ初対面の女性に優しくされて泣く……黒歴史をひとつ刻んでしまった。


 どれもこれも遥香さんが他人を感じさせないからだ。小百合さんも優しすぎる。


 やはり俺の境遇を気遣ってくれているのだろうか。


 俺を引き取るにあたって、遥香さんも話を聞いてるはずだ。だから不自然なまでに優しくできる。


 その優しさは嬉しくて、有り難くて、尊くて、俺の心に酷く突き刺さる。


 結局のところ優しくされることに、慣れていないのだ、俺は。


 どう反応すればいいのか、全くわからない。殴られるだけの方が分かりやすい。


 明確な悪意の方が、分かりやすい――

 

 

 *

 

 ――時同じくして。


 蓮見家リビングでは、小百合と遥香の二人が食後の片付けに勤しんでいた。


 新しい家族である暁は食事を済ませた後、律儀に食器を洗ってから風呂に入っていった。


 小百合が食器を洗い、遥香がそれを受け取って水気をとり棚にしまう。


 いつもと同じ光景だ。だが、雰囲気はいつもと反対に陰鬱なものだった。


「暁くん、小さい子どもみたいだったね……」


 ポツリ、とても小さな声でに遥香が呟く。その表情は辛く、苦しそうだ。小百合も同じ気持ちなのか、深く頷く。


「そう、ね……。もっと、早く気づいていればって思ったわ」


 小百合の脳内にはあの日の光景が過る。その光景は一瞬のものだったが、鮮明に思い出せる。


 暁を引き取ったのも、それがきっかけなのだ。


 小百合が自分の至らなさを悔いていると、遥香が急に食器を拭く手を止めた。


「どうしたの?」


 小百合が問うと、遥香は小百合の方に身体を向け、正面から確かな意思を持った瞳で見つめ、言った。


「暁くん、たくさん愛してあげようね」


「…………」


 遥香の言葉に娘の成長を見た小百合は、天国の主人へ娘の成長を報告しつつ、大きく首肯した。


「そうね、うんと甘やかしてあげましょうか」


「うん! お姉ちゃんとしての威厳を見せつけてやるんだから!」


 やる気を露にした遥香に、小百合は茶化すように突っ込む。


「でも暁君、何でも『一人で出来ます』って言いそうよね……。それに遥香より料理上手だし」


「んなっ!?」


 ――前途多難。


 暁の心を溶かすのはなかなかに骨が折れそうだ――

 

 *

 

「風呂、上がりました……」


 先程、遥香さんがそうしていたようにタオルで髪の水分を拭き取る。


 リビングでは小百合さんと遥香さんが楽しそうにテレビを見ていた。


 その和やかな雰囲気を邪魔したくないと思ったのだが、一応は礼儀として一言伝えておく。


 それに気づいた小百合さんが横目に聞いてくる。


「気持ちよかった?」


「はい……」


 湯船に浸かって風呂に入るなんて久しぶりのことだ。足を伸ばせるほど広くはないが、俺には十分すぎるほどの待遇である。


「それじゃあ私も入ってくるわねー」


「行ってらっしゃーい」


 遥香さんがテレビから目を離さず小百合さんを送る。


 ――二人きりだ。


 さっき泣きじゃくったせいで遥香さんに話しかけるのが、とてもじゃないが難しい。そんなことがなくても話しかけるのは苦手なのだが。


 そろそろ髪が乾いてきたので、タオルを首にかける。何かしていないと間が持たなくてむず痒い。


 俺の戸惑いを察してくれたのか遥香さんが声をかけてくれた。


「ここ、座りなよ」


 ポンポンとソファーを叩きながら席を勧めてくる。遥香さんの隣だ。


 人、一人分距離を開け、俺も座る。ソファーが思ったより弾力があり、弾き返される感覚が少し面白い。


 無言というわけにもいかない。俺は先程の件について謝罪することにした。


「すみません、さっきは……。優しくされたことが久しぶりなので、つい……。出来れば忘れてください。恥ずかしいので……」


「…………」


 む? どういうことだ? 


 遥香さんは無言だ。怒ってはなさそうだが、どうしたのだろうか。


 恐る恐る、遥香さんの方に視線をやる。すると、


「丁寧口調使うなぁ! お姉ちゃん、遠慮はなしって言ったでしょっ!」


 急に顔を上げたかと思えば、俺の首目掛けて、その白い腕を伸ばしてくる。そして、瞬く間に後ろから首を絞められた。


「うごっ……」


 格闘技の経験者なのだろうか。やけに絞め方が達者だ。それに密着することにより防御力の低いタンクトップから二つの膨らみ――つまり、豊かな胸が押し付けられる。


 首を絞められる苦しみと、胸を押し付けられる喜びでプラスマイナスゼロと言ったところか。……なに考えてんだよ。馬鹿か、俺は。


「うっ……。ギブです、離してください……」


「ん? なにかなぁ? お姉ちゃん、聞こえなかったんだけどぉ?」


「うぐっ……」


 しまった、また丁寧口調を使ってしまった。


 遥香さんはより一層、力を強めてくる。甘いシャンプーの香りに、こそばゆい吐息、女の子特有の柔らかさ……色々な意味で天国に行けそうだ。


 いや、もう冗談言ってられない。流石にキツい。喉仏が押さえつけられ、意識が飛びそうだ。


「お、お姉ちゃ、ん……離、してくれ……」


 俺の弱々しい声に、遥香さんは力を入れていた腕を離す。そして、そのまま俺の頭を自分の太ももの上に乗せた。いわゆる、膝枕というやつだ。


 遥香さんの綺麗な顔が目の前にある。しかし、その顔は不満そうだ。


「もぉ……暁くんは覚えてないかもしれないけど、あたしは暁くんのこと覚えてるんだから、他人行儀になられても困るよ」


「……さいですか」


 さっきも同じやり取りをした。俺の学習能力が低すぎる。


 つい、丁寧口調になってしまう。長い間、こうして面と向かって人――しかも、綺麗な女の子と話すなんてなかったからだろう。


 そもそも、ホイホイ女の子とお話が出来るようなヤツだったら、こんな酷い性格になっていない。


 決してゲイとかホモというわけではない。むしろ女の子は大好きだ。


 だが、それ以上に怖いのだ。色々と、嫌な事を思い出す。


 俺はあの人と同じ血が流れているのだ。その事を忘れてはいけない、絶対に。


 その事を、新しい家族である人には知っていてもらいたい。


「……俺は優しくされることに慣れていない。むしろ、悪意をぶつけられる方が慣れている。だから、どう接すればいいのか分からないんだ。学校でクラスメイトと話すみたいに社交辞令的な――

 一度口から出た言葉に続き、驚くほどスムーズに言葉が流れ出る。


 『会話じゃ、小百合さんと遥香さんに対して失礼にあたる』と続けたかったのだが、その言葉は遥香さんが俺の頬を指で摘まんだことによって中断された。


 頬を摘ままれているせいで、言葉を発することができないので視線だけで離すように訴える。


 それに気づいたのかどうか分からないが、遥香さんは指を離す。かと思えば、次は両手で俺の頬を挟んできた。そのまま、ムニムニと俺のフェイスを弄ぶ。


「うーん、暁くんって意外と可愛い顔してるよね。肌白いし、まつげ長いし」


「…………」


 そいつは褒められてる気がしないな……。あと人の話聞いてねぇし……。


 男として、カッコいいと言われるのは素直に嬉しいのだが、可愛いと言われた時にはどう反応すればいいのか分からないし、少しばかりか傷つく。


 遥香さんは少々、Sが入っていると思う。その証拠に嫌がる俺を見て、口の端をつり上げながら俺の頬を弄んでいる。綺麗な人がこうも顔を歪ませると……何と言うか、ゾクゾクする。


 しかし、俺はMではない。SとM、どちらかと問われればSと答える。


 よって、やり返す。やられっぱなしでは格好がつかない。男として。


「このっ……」


 膝枕状態で身動きがとりづらいなか、なんとか手を伸ばし、遥香さんの頬にたどり着く。そしてそのまま、俺も同じように遥香さんの頬をムニムニする。


「んにゃ!?」


 驚く遥香さんを無視して続ける。


 白い頬に触れれば肌が指に吸い付き、餅を思わせた。


 遥香さんは小顔のためか、俺が両手で挟めば顔が隠れてしまう。


 そのまま、しばらくお互いの頬を揉みしだき合った。


 数分ほど経った頃だろうか。遥香さんの『手とほっぺたが痛い』という言葉とは共に揉み合いは終了した。見れば遥香さんの頬は真っ赤だ。恐らく俺の頬も同じように赤くなっていることだろう。


 そんなお互いの頬を見合い、ふと笑いが漏れでた。先に吹き出したのは遥香さんだ。それにつられて俺も吹き出してしまう。


 ひとしきり笑った後、目尻に浮かぶ涙を拭きながら遥香さんが口を開いた。


「――ようやく笑ってくれたね」


「まぁ、そうだな……」


 確かにこの家――いや、ここ数年でこんなに笑ったのは久しぶりだ。


「暁くんさ、せっかく可愛い顔してるのに目が怖いよ? なんか、近くを見ているようで、別のものを視ているような目の色してる」


「そいつは……なんというか恐ろしい目付きだな……」


 中学生の頃、ホームルームの時間に担任の教師から注意を喚起された不審者の情報が、やけに俺に似ていたのも頷ける。というか、あれは俺だった。


「あと、敬語もなくなったね。善きかな善きかな!」


「……そう、だな」


 まあ、遥香さんがあまり距離を感じさせないからだろう。恐らく小百合さんとは、まだ言葉を崩して話せる自信がない。遥香さんはあどけない部分が残っているが、小百合さんは完全に大人の女性だ。


 俺の不安を悟ってくれたのか、遥香さんは笑顔で親指を立てた。


「これからはお姉ちゃんって呼んでよね!」


 どうやら悟っていなかったらしい。しかも、かなり恥ずかしいことを言っている。俺は呆れつつも遥香さんを見つめる。


「……どう呼べばいい?」


 コミュニケーションをとる上で呼び名というのは大切にすべきものだと思う。


 挨拶してから今までは、なんとか名前を呼ばずにいたが、それも限界だ。自分で言うのもナンだが、こうして距離が縮まった以上、全身全霊で親しみたいと思う。


 だが、困った。遥香さんは駄目で、お姉ちゃんは嫌だ。なら、遥香……これも少し気恥ずかしい。遥香ちゃん……いや、違うな……。フム、呼び名を考えるのはとても難しいな。


 兄や姉しかいない人は弟、もしくは妹に憧れ、逆に弟や妹しかいない人は兄や姉を欲しがる。前者は親に頼み込めば可能ではあるが、後者は特別な事情がない限りは不可能だ。


 俺は一人っ子だが、きょうだいが欲しいと思ったことはない。しかし、そのような風潮があるのは理解しているいるつもりだ。遥香さんも弟が欲しかったと言っていたことだし、呼んであげてもいいかもしれない。


「お姉ちゃんが嫌なら、姉ちゃんとか姉さんとか姉貴とかお姉ぇ……あと、姉御でもお姉様でも姐さんでもいいから!」


 いや、後半三つつおかしいだろ……。お嬢様学校か極道かよ……。


 だがまあ、ここまでお姉ちゃんを推されたら流石に折れる。


「分かったよ、ねえさん……」


 うーむ、かなり恥ずかしいな……。世の中の姉弟はこんな試練を乗り越えているのか……。少しばかりか感心してしまう。


 突如として態度を変えた俺に驚いたのか、遥香さん――もとい、姉さんが目を見開く。


「もぉー、暁くんか・わ・い・いーっ! ぎゅうぅぅぅっ!」


 またもや可愛いと言われ、少し文句を言ってやろうとしたが、姉さんが抱きついてきたことでそれは叶わなかった。


 姉さんは膝枕の状態から器用に俺を抱き締める。太ももやら胸やら、やたらと柔らかいものに挟まれてもう最高だ。このまま死んでもいいまである。


 姉さんは可愛いもの……つまり、俺を抱き締め満足。俺も柔らかくて満足。まさにWin‐Winの関係を堪能していると、パシャリとシャッターの音が聞こえた。


 何事かと思い、音の鳴った方を見やる。するとそこにはまだ風呂に入っていなかったらしい小百合さんが携帯電話を構えていた。


「おほほほ。仲が良ぉございますねぇ」


 口元に手をやり、貴族のように笑う小百合さん。その瞳は、面白いものを見たとばかりに輝いている気がする。先程見た姉さんの嗜虐的な笑みとそっくりだ。


 それに不穏なものを感じたのか、姉さんはパッと俺から離れた。それに倣い、俺も腹筋運動の要領で起き上がる。


「お、お母さん! 違うからね、そういうのじゃないからね!」


「あらあら、お母さん、何も言ってないわよ~」


「も、もぉ! 暁くんも何か言ってよ!」


 姉さんがキッと鋭い目つきで睨み付けてくる。いや、そんなこと言われても困る……。


 仕方がない。ここは男である俺が場を収めよう。


「……いや、違うんです。……別にいやらしいことをしていたわけではないんですよ」


「余計な誤解を招くようなこと言うなぁぁ!」


 姉さんは顔を真っ赤にしながら叫ぶ。ちなみに俺の顔は耳まで真っ赤だ。一応、頑張って言葉を選んだつもりだが、無論恥ずかしい。


「おほほほ。邪魔してごめんなさいね~。ではでは、ごゆっくり~」


 なおも、嗜虐的な笑みを浮かべ、小百合さんはリビングを出ていく。しかし、何かを伝え忘れていたのか、もう一度扉が開き、ピョコっと顔だけ出してとんでもないことを言った。


「避妊だけはするのよ~」


「え、あ、はい……」


 それだけを伝え、いそいそと風呂場へと向かった。何がそんなに楽しいのか……。


 つい返事してしまったが、駄目だろ、アウトだろ。何を考えてんだよ、あの人。思考回路と発言のレベルが中年のおっさんのそれだよ……。


 俺は全くそのような疚しい考えは一切ない。嘘だ、少しある。まあ、あんなに密着していればそう思われても仕方がないかもしれない。程度が少し斜め上すぎるだけで。


 姉さんも思うところがあるのか、俯いてプルプルと震えている。そしていきなり立ち上がり、ダッシュで扉まで向かい大きな音をたてながら開いた。


「お母さんのバカーーーーっっ!」


 叫び、くるっと回れ右をして、俺の方を向く。


「暁くんも何で返事しちゃうの!? お母さん、ああ見えて中身はおじさんなんだよ!?」


「え……あー、まあ、すまん……」


 そこから十分ほど正座をさせられ、姉さんから説教をくらった。小百合さんはどのような人物なのか、姉さんがどれほどからかわれてきたか……。後半は、ほとんど愚痴だった。


 やがて、俺のなかの小百合さん像は音をたてて崩れさった。あの時、抱き締めてくれた小百合さんは、優しく微笑んでくれた小百合さんは、俺の勘違いだったらしい。


 ともあれ、小百合さんとの距離を縮めることは出来そうだ。

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