林一家の団欒
難易度低め
林浩司は夕食を終え、リビングのソファで新聞の朝刊を読んでいた。
林は朝に新聞を読まない。朝に新聞を読んでいる暇がないので、家に帰って夕食を終えたあとで、夕刊と一緒にゆっくりと読むことにしている。重要なニュースならば、朝に付けっぱなしになっているテレビのニュースを流し聞きするだけで事足りるので、仕事中に会話についていけないこともない。なので、現状が一番合理的だと林は思っている。
息子の潤平は二つあるソファのうち、林が座っていない方のソファに腰かけて、今流行りのクイズ番組を見ていた。中学生のころは、テレビの中の回答者よりも早く答えを言おうと意気揚々としていたものだが、最近は黙って見ている。だが、頭の中ではほとんど正解しているのだろう。親馬鹿ではないが、潤平は賢い。おそらく自分よりも上だろう。
そんなとき、玄関のドアが閉められる音がした。長女の詩織が帰ってきたのだと分かったが、やけに乱暴な閉め方だったのが気にかかった。
そして、そのままリビングにも入らずに階段を上っていったようだ。ドタドタと大きな音を立てていた。
しばらくすると何のものだかわからないが、二階から大きな音がし始めた。何かを投げつけているのだろうか。
「……なんか、荒れてるね」潤平が言った。
「ああ」林は、朝刊を読み終えて、夕刊を手に取った。
「このままだと……」
やがて物理的な音に混じって、言い争うような声が聞こえてきた。ような、というよりはおそらく実際に言い争っているはずだ。
夕刊を読み始めた林だったが、二階の騒動が気にかかって、なかなか読み進められなかった。ため息をついて夕刊をテーブルの上に置いた。
しばらくすると言い争いはなくなったようだった。そして、階段を下りる音が聞こえる。
「ああ、もう! お姉ちゃんうるさい!」
リビングに入ってきたのは、高校三年生の次女、香織だった。
林の子供は、上から大学三年生の潤平、大学一年生の詩織、そして香織の三人だ。
香織はいくつかの勉強道具を持って下りてきた。彼女は今、受験の真っ最中である。センター試験まであと一か月を切り、クリスマスも遊ばずに勉強していた。
気を利かせたのか、潤平がテレビの電源を消した。香織は食卓の上で勉強を始めた。台所で洗い物をしている母の春香に詩織に対する愚痴を言っているようだ。
二階で大きな音がした。また何かを壁にぶつけたのだろうか。
「……潤平、なだめてこい」林は息子に言った。
自分が行ってもよいのだが、あの年頃の娘は父親の言うことをなかなか聞かないし、なかなか父親に相談したがらない。そう考えて林は敵前逃亡し、息子に後を託した。
「無理だよ」彼は苦笑している。
彼も同じようなことを考えているのだろう。だが、父親よりは兄の方が言うことを聞くはずだ。
「話だけでも聞いてやれ」
「無駄だと思うけどなあ」
そう言いながらも潤平は立ち上がってリビングを出ていく。
彼が出て行ったあとで林はため息をついた。
「年頃の娘は難しい……」
「あなた、何もしてないじゃない」台所から妻のツッコミが入った。
しばらくして、潤平がリビングに下りてきた。その表情は妹の愚痴を聞いた疲労でも、面倒事を引き受けた苦笑でもなく、呆れというのがふさわしかった。
「まったく、馬鹿みたいだ」
彼はそう言うとドサッとソファに座りこんだ。
「何だって?」
「彼氏に浮気されたってさ」
「浮気って……。大学一年でか? ひよっこじゃないか」
「知らないよ。彼氏がしらばっくれてるらしいよ」
「認めるやつはいない」
「アリバイもあるんだって」
「アリバイ? 事件じゃないんだから。仕事以外でその言葉は聞きたくないな」
林は刑事である。刑事と言われると、よくテレビドラマで取り上げられるような捜査一課が想像されるのだが、林は窃盗などを扱う捜査三課の人間である。
「そう、詩織はわかってないみたいだけど、アリバイなんてもんじゃないよ」
「……ちょっと待て。それじゃあ、お前はわかっているみたいじゃないか」
「そうだけど?」
「む、そうか……」
息子の潤平は頭の回転が速い。以前、事件について話をした時も、安楽椅子探偵のごとく聞いた話だけで犯人を当ててしまった。また、非公式に事件現場に連れて行った時も、簡単に事件を解決してしまったことがある。
彼にとって、この程度の話は事件でもなんでもないのかもしれない。
「何? 聞きたいの?」
何を思ったのか潤平が尋ねてきた。正直、娘の痴話喧嘩などどうでも良かった。自由にやらせるのが我が家の教育方針である。もちろん、度が過ぎれば、窘めることはあるが。
「いや、別に」
(あなた、何もしてないじゃない)
先ほどの妻の言葉が脳裏を掠めた。
放任主義と言えば聞こえはいいが、全く関与しないのも、父親としていかがなものだろうか。林は少し迷った。
「あ、いや。ただ、父親として一応把握しておこうかな」
「そう。こんな話らしいよ」
潤平は詩織から聞いた話を語りだした。
香織がこちらを睨んで、母に耳栓を要求していた。
十二月二十六日月曜日。聞くところによると、国公立大学はどうやらクリスマス前から冬休みのようだが、この大学はこの日が最後の講義となっている。私立大学の休みは遅いし、明けるのも早い。非常に短い。詩織はその点について常々不満があったが、今はそれどころではなかった。
「ちょっと、どういうこと!?」詩織の叫びが講義室に響いた。
ここは大学内でも大きな部類に入る講義室だ。それでも彼女にとってそんなことはどうでもよかった。ただただ、目の前にいる男を罵倒したくて仕方がなかったのだ。
周りの学生は何事かと彼女の方を一瞥したが、そのほとんどがすぐに興味を失って、それぞれのグループで会話を再開した。一部の人間はまだこちらを観察しているようだったが、詩織にとって、彼らは南瓜に見立てた観客よりもどうでもよい存在だった。
「ちょ、ちょっと待てよ。何だよ急に?」詩織に詰め寄られている長身細身の男が言う。
彼は矢島俊介といい、詩織と交際している。高校二年のころからの付き合いなので、かれこれ三年になる。
「あんた、イブはバイトだって言ったじゃない!」
彼はコンビニ夜勤のアルバイトをしている。コンビニのアルバイトは基本給は安いが、夜勤は深夜手当がつくのでそこそこの給料になるし、何より楽だというのが彼の言い分だった。
だが、毎度毎度「眠い」と言われる詩織にとっては、彼のアルバイトはもとから気に入らなかったのだ。それに加えて大切なクリスマス・イブはアルバイトが入っているから会えないなどとなれば、不愉快極まりない。
もちろん、大学に入って、詩織もアルバイトを始めたし、スケジュール管理の難しさは知っていた。なので、渋々それは受け入れるしかなかったのだ。
それだけならば、納得できていたのに……。
「言ったよ。それは悪いって言ったじゃないか」またか、というような表情で彼は言った。
それを見て、彼女の怒りはさらに高まった。本当は頬にビンタでもしてやりたかったが、それは最終兵器として取っておくことにした。
「あんたねえ、イブに違う女といたとこ見たって子がいるのよ!!」
それを聞いた時の驚きと怒りと悲しみはどうやったって表現できないだろう。そして、その怒りがパンケーキみたいに膨張していって、今彼に矛先を向けているのだ。
「ちょ、え? 人違いだろ」困惑した表情で彼は言う。
演技だ。彼女はそう思った。彼は昔から嘘をつくのが得意だった。教師が幾度となく騙されているのを彼女は見ていた。
それでも彼女自身が騙されることはなかった。女の勘とでも言おうか、彼が嘘をついても、詩織は誤魔化されず、必ず結局は彼が平謝りすることになるのだ。
今回もそうだ。女の勘がそう言っている。観念させてやる。
「嘘よ! 私を騙そうとしたって無駄よ。わかるんだから!」
「落ち着けって。ちょっと待てよ。なあ、森山!」彼は近くの机に座っている男に声をかけた。
彼はイヤホンで音楽を聴きながら何かの本を読んでいたので、俊介の呼びかけに気が付かなかったようだ。
「おい、森山」俊介は彼の肩をゆすった。
そこで、やっと男は気が付いて、こちらを見た。イヤホンを外して、本を閉じた。TOIECの本だった。
「……何?」無表情で彼は言った。
彼女は彼のことを知っていた。
森山直樹。近所に住んでいる男だ。何の因果か、小学校から中学、高校まで、十五年間で、十年も同じクラスだった男だ。
俊介とは高校から一緒だったから、単純な年数で言えば、彼との付き合いの方が長い。クレープの生地よりも薄い付き合いではあるが。
だが、よくわからない男だ。無愛想とまでは言わないが、無口で理解しがたい。こちらが話しかけない限り口を開こうとしない。そんなやつだ。
「なあ、お前、この間、俺と一緒にシフト入ったよな?」
「うん」彼は短く答える。
「二十四日は朝五時まで一緒にいたよな?」
「二十四日? うん」
「オッケ、サンキュー」
俊介がそういうと、森山は再びイヤホンをして本を読みだした。
「な? 言ったろ? 変な疑いよしてくれよ」彼は肩をすくめて言った。
詩織は信じられなかった。森山は幼いころから正直者で通っていた。たいていは「うん」か「いや」しか答えないのだが、馬鹿みたいに正直だった。何か悪戯が起こると、教師が森山のところに行って、「見なかったか?」と尋ねるのが常となっていたくらいである。
森山が俊介と共謀して嘘の証言をするなど考えにくかった。そういったことは彼にとって最もくだらなくてどうでもよい事柄なのだろうと思っていた。
彼女はそれでも信じられなくて森山の肩を叩いた。
「……何?」彼はイヤホンを外す。だが、本は閉じなかった。
「ねえ、森山。こいつに嘘の証言しろとか言われてんでしょ? そうでしょ!?」
正直者の彼なら、こう問えば、素直に白状するだろうと思った。
だが、帰ってきた答えは予想に反するものだった。
「いや、違うよ」
「嘘……ほんとに言われてない?」
「うん」
彼は勝手にもう話は終わったのだと判断したのか、イヤホンをつけて本を読み始めた。
「だからさ、言ったろ? イブにバイト入ったのは悪いと思ってるからさ。機嫌直してくれよ」
その時、講義室の入り口から教授が入ってきて、席に着かざるを得なくなった。最終兵器はお蔵入りとなった。
「……ってわけ」
話し終えると潤平は座っていたソファにさらに体重をかけて深く腰掛け直した。
「直樹君って、そこの角の家の?」
林の記憶には中学生くらいまでの彼の記憶しかない。彼の父親とは何度か話したことはあるが、久しく会っていない。
「うん。僕、あの子苦手なんだよね。話しかけても『うん』か『いや』しか言わないし。まあ、最近は話してないけどね」
「単純に、直樹君が嘘をついているか、人違いだったかだろう」
話を聞いて林が出した結論だった。何の面白みもない結果だ。娘の情事に面白みがあっても困るのだが。
「人違いっていうのは、大いにあるよね」
「森山君が嘘をついているっていうのは?」潤平が人違いの方を強調したので、林は気にかかって尋ねた。
「まあ、なくはないけどね。最近は会ってないから、森山君がどういう感じになってるかしらないしね。でも、詩織がそれはないって言ってる」
「わからんぞ。で、結局、結論はどうなんだ?」
「例えば、そうだね。これは聞いてなかったんだけど、矢島君を見たっていう子が、まあ、女の子だったと仮定しよう。で、その女の子が彼のことを好きで、別れさせようとしたとか」
「でも、それにはスケジュールを把握していないといけないだろ」
実際には二人でデートなどしていようものなら、計画は破たんしてしまう。
「詩織のことだから、愚痴ってたんじゃない? 『彼がイブにバイトだって。信じらんないんだけど』とか」
「だが、実際にバイトだったわけだろ? いや、それが議論の焦点なのか?」
「疑いさせることができれば御の字でしょ」
「なるほど……」
「他にも、本当にバイトだったけど、バイトの前に女の子とデートしていたとか」
「ああ……」
「まあ、それらもあり得るわけだけど。もっとしっくり来る話があるんだ」
「何だそれは?」
「まあ、しっくり来るっていうか。面白いというか。ある前提と仮定が必要なんだ」
「何だ、前提と仮定って?」
「ええと、第一に、矢島君が浮気をしていたという前提。それと森山君が嘘をついていないという仮定。ついでに、矢島君が森山君に証言を依頼していないという仮定」
「そんなことあり得るのか?」
「あり得るよ。つまりね、バイトだったのは二十三日だったのさ」
「それじゃあ、直樹君が嘘をついていることになるだろう。第一、店に行って聞けばすぐばれるだろう」
「店に行ったって、今は個人情報保護の最盛期だからね。教えてくれないよ。で、森山君が嘘をついていることになるかって話だけど。答えは、ならない。聞いたところによると、矢島君のバイトは夜九時から朝五時までらしいんだけど。二十三日だったのは最初の三時間だけで、残り五時間は二十四日だから。
十二時過ぎると、日付が変わるけど、その日を『明日』と呼ぶ人と『今日』って呼ぶ人がいるよね。森山君は後者で、その辺をしっかり区別する人だったのさ。逆に詩織は前者だったってわけ。
ちなみに、コンビニでバイトをしている人は実は前者が多いんだよね。眠そうにしている人に『どうしたの?』って聞いたら、不思議なことにたいてい『”昨日”バイトだった』って答えるんだよ、”今日”の時間の方が長いのに。
けど、森山君はそうじゃなかった。コンビニでバイトしているのにね。
彼が尋ねられたのは『二十四日は朝五時まで一緒だったか?』だから、シフトに入った時には二十三日だったけど、朝五時はすでに二十四日だからね。だから、『二十四日?』って聞きなおしたんだよ。彼は頭の中でしっかりと日付をまたいでから答えたのさ。ある意味、正確で賢いよね」
「だが、もし直樹君が、二十三日だと答えたらどうする気だったんだ?」
「その辺は一緒に働いていればわかるよ。日付が変わった後の表現はだいたい、人によって統一されているだろうから。森山君はかなり厳密に統一されていたんだろうね。
森山君は無口で、聞かれた質問にしか答えないけど、質問には正直に答えるから、『シフトは二十三日から二十四日にかけてだったか?』って聞けば正直に言うと思うよ。
そう、彼はイヤホンをして音楽を聴きながら本を読んでいたわけだから、話の文脈は理解していなかったんだよ。本当に質問に答えただけってこと。浮気云々の話だって知ってたら、あるいはちゃんと答えたかもしれないけど、どうだろう? それでも質問以外には答えないのかな?」
「むう……。まあ、いいか。詩織に教えてやらんのか?」
「詩織がどうしたいかによるね。追及して、懲らしめたり、別れたいっていうんなら教えるけど。まあ、聞かれるまでは黙っておくかな?」
「そうか。……そういえば、お前、二十四日は随分と帰りが遅かったが?」
「え? あー、そうバイト。バイトだよ」
「アリバイは?」
一瞬の沈黙の後、二人は声を上げて笑った。
食卓から、香織の怒鳴り声が聞こえてきた。