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プロローグ


挿絵(By みてみん)






 人は俺を、大魔導士と呼ぶ。


 まあ、本人の感想を先に言わせてもらうと、呼びたければ勝手に呼べばいい、というのが正直なところである。人は肩書きを盛るのが好きだし、王侯貴族は自分より強いやつに物騒な二つ名を与えて安心したがるし、学者という生き物は理解できないものへ立派な名前をつけることで理解した気になる習性がある。だから「大魔導士」なんて、いかにも重々しくて格調高くて、ついでに近寄りがたい響きの称号を俺に貼りつけて、「ほら見ろ、こいつはもう人間じゃない領域の何かだぞ」と周囲が勝手に納得しているだけの話だ。こっちとしては朝起きたら腹は減るし、書斎にこもれば肩は凝るし、夜更かしで禁書を読み耽れば目の奥はじんじん痛むし、甘い菓子をつまみながら古代語の解読をしていたら気づかないうちに指先が砂糖でべたついてページの端に指紋が残るくらいには、きわめて俗っぽい生き物なのだが、そのへんの事情はどうも世間に伝わりにくいらしい。


 もっとも、世間が俺をそう呼びたくなる理由もわからなくはない。魔導大国ルクセンブルクの王立魔導院に所属する学者どもが十年かけても開けられなかった封印庫を、俺は朝食前の軽い運動みたいな顔でこじ開けたし、三百年前に理論だけ残って術式そのものは失われたとされる転位魔導を、資料の端に書かれていた走り書き二行から復元したこともあるし、つい先日は王宮の地下で暴走した古代魔力炉を止めるために呼び出されて、「原因は術式の老朽化ではなく整備担当の筆記癖が汚すぎて符号が一箇所ずれてるだけだ」と指摘したら、現場にいた技官が全員そろって膝をついた。膝をつく理由がわからない。恥ずかしさで崩れ落ちたなら説明はつく。たぶん半分くらいはそれだろう。


 ついでに補足しておくと、俺は別に最初から偉そうな黒衣を着こなし、いかにも秘密を抱えていそうな顔で、意味深に窓辺へ立つ練習をしていたわけではない。というか、ああいうのは本当に疲れる。外套は重い。装飾は多い。宝石はすぐ引っかかる。長い袖は火を扱うときに危ない。魔導士という仕事は、世間の想像よりずっと実務寄りであり、実務寄りである以上、服装も本来は機能性を優先すべきだと俺は考えているのだが、俺が地味な研究衣で王宮に顔を出したとき、近衛兵に「不審者は裏門へ」と槍で進路を修正されたことが三回ほどあり、そのたびに面倒な身元確認と陛下からの謝罪と侍従長の胃痛を発生させてしまったので、最近は渋々、見た目からして「あ、たぶん関わったら面倒な高位魔導士だな」と理解してもらえる格好を選んでいる。服は社会との対話である。実にくだらないが、実に否定しにくい事実でもある。


 そんなわけで今の俺は、王侯貴族が会えばまず椅子から立ち上がり、軍人が見れば敬礼の角度を二度ほど修正し、学者が名前を聞くだけで「その件はすでに先生の論文を参考にしまして」と予防線を張り、盗賊どもが「標的にするにはやめておこう」と死ぬほど健全な判断を下す程度には、有名人であるらしい。街を歩けば視線を感じるし、酒場に入れば店主が勝手に上等な席を空けるし、地方の領主館へ招かれれば晩餐に妙な高級食材が増える。以前なんか、辺境の村で魔獣退治を頼まれて出向いたら、村長が家宝の壺を差し出してきて「代々伝わる聖遺物にございます」と真顔で言うものだから、そんな重そうなものを報酬にもらっても運搬が面倒だし、そもそも俺は遺物の真贋くらいわかるので見せてもらったところ、底に小さく『旅の記念 王都南市場』と刻印されていた。聖遺物の旅情が強すぎる。俺は壺を丁重に返し、代わりに干し肉と地図をもらった。そちらのほうが現場では役に立つからだ。


 名声というやつは便利な場面もある。立ち入り禁止の遺跡へ合法的に入れるし、面倒な手続きを省略できるし、欲しい資料を図書館が泣きながらでも貸し出してくれる。魔王領との停戦交渉に横から口を挟んでも、交渉団が「まあカオル卿が言うなら」と一度くらいは考えてくれる。その一方で、厄介ごとも山ほど寄ってくる。行方不明の婚約者を探してくれ、逃げた使い魔を捕まえてくれ、呪われた井戸をなんとかしてくれ、娘が恋煩いで食事をしないので魔術でどうにかならないか、という依頼まで飛んでくる。最後のやつは本当にどうにもならない。恋という現象を術式で制御できるなら、俺はもっと別の人生を送っていただろう。


 この世界には、便利なこととどうにもならないことが混在している。火を起こす術式はあるのに、濡れた薪はやっぱり燃えにくい。風を操る魔導はあるのに、気まずい空気を吹き飛ばす術式は未完成だ。魂へ干渉する理論は成立しているのに、死者へ会いたいという願いは、長年研究してみても人の理屈だけで簡単に届くものではない。ここがまったく腹立たしい。世界というのは手の届くところへ梯子を置いておきながら、本当に欲しいものの前だけ綺麗に床を抜いてくるのだ。


 いま俺が住まい兼研究拠点にしているのは、ルクセンブルク王都の外れにある古い塔だ。古いと言っても、庶民が想像する「ちょっと年季の入った石造りの建物」ではなく、空の文明期に建造された観測塔の上層を改修したもので、外壁の石材にはまだ完全に解読されていない位相固定紋が刻まれ、地下には誰が何のために使っていたのか見当もつかない円形のホールが広がっている。普通の神経をしていれば近づかない種類の物件である。おかげで家賃という概念が存在しない。王家から「管理を委託する」という名目で押しつけられたからだ。王宮としては危険物件を俺の手元に置いておきたい。俺としては資料庫が広いし実験しても近所から苦情が来にくい。利害が一致しているので文句はない。


 ただし塔で暮らすというのは、それなりに不便でもある。朝日が入る角度が極端なので寝坊しやすいし、階段は長いし、客は無駄に息を切らして到着するし、郵便を運ぶ配達人が毎回「高位貴族向け危険手当を要求したい」と愚痴る。以前、一階の応接間で軽く話せば済む要件にもかかわらず、王立魔導院の院長が「大魔導士の生活をこの目で確かめたい」と言い出して最上階までついてきたことがあるのだが、到着した時点で顔色が死者のそれに近くなっており、しかも彼は痩せ我慢で「この程度で音を上げるようでは学究の名折れですな」と笑ってみせたものの、その直後に俺の書斎へ置いてあった自動筆記机を棺と見間違え、「すでに研究者として終焉へ備えておられるのか」と妙な感動を見せた。違う。あれは論文を写本させる机だ。勝手に人の生活へ終末思想を持ち込むな。


 俺の一日は、おおむね睡眠不足と書類の山と弟子たちの騒音によって始まる。世間はしばしば、孤高の大魔導士は人を寄せつけず、静寂と孤独を好み、薄暗い書斎で一人、夜ごと神秘へ挑んでいるものだと想像するらしい。わからなくはない。絵面としては格好いい。問題は現実がそんなに絵になるわけもなく、うちの塔にはいつのまにか居ついた弟子やら助手やら食客やらが出入りし、朝になると誰かが台所で鍋を焦がし、誰かが使い魔を逃がし、誰かが触るなと言った棚を開け、誰かが「先生、この魔道具をちょっと改造してみたんですが」と言いながら爆発寸前の金属塊を抱えてくる。俺は研究者であって託児所の管理人ではないのだが、なぜか世の中には、高度な魔導知識を持つ人間を見ると「生活指導も上手いに違いない」と早合点する連中がいる。そんなわけがあるか。俺は自分の生活すら怪しいと思うことがあるというのに。


 今朝もそうだった。まだ夜の名残が窓辺に青く貼りついている時間帯、つまり人間が幸福な夢の続きを見ているべき時刻に、塔の三階から「先生ぇぇぇぇ!」という絶望に満ちた叫びが上がった。俺は寝台の上で毛布を頭まで引き上げ、世界には聞かなかったことにしていい音と、放置すると本当に建物が消し飛ぶ音の二種類がある、という長年の経験則に照らして判定した。残念ながらあれは後者だった。仕方なく起き上がり、寝癖を指先で押さえながら階段を降り、研究室の扉を開けてみると、そこでは末弟子のリリアが半泣きで巨大な水槽の前に立ち尽くし、水槽の中では本来なら青白い光を放つだけの観測魚が、なぜか七色に発光しながら恋の歌みたいな高音を響かせていた。


「説明しろ」


「先生の棚の左から三番目の抽斗に入っていた試薬を、ほんの一滴だけ、ええと、観測魚の活性化実験に流用しまして」


「その時点で説明は終わってる。俺の抽斗に手を出すな」


「でも色が綺麗で……」


「毒キノコに対する子どもの感想か。綺麗だからで手を出していいのは夕焼けくらいだ」


 観測魚というのは空間の揺らぎや魔力の偏流を可視化するために古代文明が作り出した人工生体で、研究用としてはかなり便利なのだが、便利である一方で、人間の勝手な好奇心へ一切配慮してくれない。刺激を与えすぎると近傍の記録情報へ共鳴を起こし、過去の残響や未観測の可能性を映像として吐き出すことがある。つまり何が起こるかというと、水槽の表面に知らない男女の痴話喧嘩が映ったり、百年前の市場の値段交渉が再生されたり、最悪の場合は別位相の魔獣が「なんだここ」とでも言いたげな顔でこちらを覗き込んでくる。便利の中身がおおむね気味が悪いのだ。


 俺は杖代わりのペンを抜き、水槽の縁へ三つ符号を書きつけ、発光していた魚たちの共鳴を強制的に沈めた。歌は止まり、虹色の光も消え、研究室に静けさが戻る。リリアは胸を撫で下ろし、隣で様子を見ていた助手のフェルドが「さすが先生です」と拍手しかけたので、俺は無言で睨んだ。拍手で済ませる空気ではない。現場に必要なのは反省であり、称賛ではなく再発防止策である。


「抽斗の試薬は、魂魄情報の分離観測用に調整した第四系列だ。魚へ入れれば位相感覚が拡張されて、余計なものまで見始める」


「余計なものって、さっきちょっと見えた、綺麗な女の人とかですか」


「見えたのか」


「はい、白い服の女の人が、なんだかこっちを見ているような気がして」


 そこで一瞬だけ、胸の奥に古傷へ薄い刃が触れるような感覚が走った。


 俺は表情を変えないまま水槽へ視線を向け、底に沈んだ観測魚の群れを見た。魚たちは何も語らない。研究室の窓から差し込む朝の光が、水面を鈍く揺らしているだけだった。


「見間違いだ」


 短くそう言うと、リリアは「あっ、はい」と慌てて姿勢を正した。気まずい沈黙が落ちる。俺は内心で軽く舌打ちした。弟子相手に不機嫌をぶつけるのは趣味ではない。昔の俺ならもっと平気で粗く振る舞えたのかもしれないが、長く生きていると他人の未熟さへ腹を立てるより、自分の揺らぎにうんざりする時間のほうが増えてくる。


 リリアは十七歳の魔導士見習いで、才能はある。集中力が散る。好奇心が暴走する。説明書を最後まで読まない。要するに、いまのところ才能以外はかなり危うい。フェルドは三十手前の元軍属術師で、慎重で実直で、記録の整理も上手いし、危険物へ勝手に触ることもない。そのかわり驚くほど頑固で、いったん「先生のやり方は効率が悪い」と判断すると、相手が俺でも平然と議論を仕掛けてくる。つくづく人材というものは完全な形では転がっていない。世に転がっているのは問題点を抱えた原石か、磨かれた結果として別の癖が強くなった石ころばかりである。俺も人のことは言えないが。


「朝食の前に研究室を吹き飛ばされるのは気分が良くない。二人とも今日は第四書庫の整理だ。上段から五列目まで、禁書指定の仮目録を作れ。背表紙の題名をそのまま写すなよ。読むだけで呪詛になるやつが混ざってる」


「先生、朝食は召し上がりますか」


 フェルドが律儀に聞く。


「食う。腹が減ってると人格まで悪くなる」


「先生、普段もそこそこ悪いですよ」


「リリア、おまえは修行が足りない。俺の人格が本気で悪い日は、そんな軽口を叩く前に部屋の温度が三度下がる」


「それ、比喩ですか」


「物理だ」


 弟子たちを残して上階へ戻る途中、俺は塔の壁に埋め込まれた古代窓から王都の景色を眺めた。朝靄の向こうに城壁が伸び、尖塔の連なる王宮が光を受け、遠くの河川運河を渡る荷船の白帆が細く揺れている。ルクセンブルクは魔導大国と呼ばれるだけあって、朝の風景にも術式が溶け込んでいる。街路灯の消灯は時刻連動型の魔道核による一斉制御だし、空には郵便竜騎兵が飛び、橋の下では水運補助の浮遊符が青く点滅している。豊かな国だと思う。少なくとも表面だけ見れば、そう言って差し支えない。


 もっとも“表面”だけ見れば、という条件つきだ。


 王都の整った街並みの裏側――つまり我々が住む大陸の外側では、七大魔王を中心とした勢力均衡が今日も薄氷の上で続いている。岩王は鉱脈を握り、炎王は軍需を握り、水王は交易を握り、雷王は技術を握り、蠅王は情報を握り、風王は空路を握り、影王は表に出ないもの全部を握っている。王と名がついていても全員が仲良く玉座へ並んでいるわけではなく、連邦の名目のもとで利害をかろうじて縫い合わせているだけだ。この国の貴族どもは笑顔で杯を交わし、裏では相手の補給路へ盗聴石を埋める。軍は平和を唱えながら新兵器の試験場を増やす。学者は真理の探究を掲げつつ、予算を取るためなら昨日の論文へ今日の論文で反論する。文明というのは上品な衣をまとった欲望の集合体であり、そこへ魔導なんて便利な力が加わるものだから、綺麗にまとまるわけがない。


 俺がこういう国で重宝されているのは、強いからだけではなく、面倒な均衡を乱しにくい立場だからでもある。どこの派閥にも完全には属さない。王家へ恩はある。魔導院へ貸しもある。軍へ協力したこともある。魔王領とだって、一度や二度の会話で終わる関係ではない。ついでに言えば、俺が本気でどこか一勢力へ肩入れした場合、他の連中がまとめて胃痛を起こす未来が見えているので、みんな俺を丁重にもてなしながら絶妙な距離で扱おうとする。豪華な椅子は用意する。宴には招く。機密は半分しか見せない。なんとも気疲れする好待遇である。


 朝食は塔の中層にある食堂で取った。食堂といっても、もとは観測室だった空間を無理やり改装しただけなので天井は高すぎるし、壁の星図は薄く光るし、真ん中の円卓にはなぜか自動で方位を示す古代盤が埋まっている。俺は席につき、焼いたパン、燻製肉、香草入りの卵料理、それから濃い茶を前にして、やっと人間らしい気分を取り戻しかけた。世界の大半の問題は食後に考えればいい。空腹時の思索は悲観へ寄りやすい。これは経験則だ。


 その平穏がどれほど短命だったかと言えば、茶を二口飲んだところで塔の正面玄関に備えつけてある来客検知用の鐘が、耳障りな勢いで鳴り響いた程度には短命だった。しかも一回や二回ではない。非常識な来客は、非常識な回数、鐘を鳴らす。俺は茶器を置き、額を押さえた。


「誰だ朝から」


 食堂へ飛び込んできた使い魔の黒梟が、嘴にくわえていた来客札を俺の皿の横へ落とす。王宮紋章。侍従長直属。嫌な予感しかしない。


 案の定扉を開けて入ってきたのは、王宮からの特使である若い文官だった。髪は乱れ、息は上がり、頬には緊張の赤みが差している。ここまで全力で階段を駆け上がってきたのだろう。哀れなことだ。王宮はどうして毎回、現場に来る人員の脚力を軽視するのか。重要案件ほど上まで来させるのは、もしかすると国家規模の嫌がらせなのかもしれない。


「カオル卿、陛下より至急のご要請です」


「王宮の『至急』には三種類ある。国家転覆級、宮廷内の面子問題、あと料理長と給仕長の喧嘩だ。今回はどれだ」


「その、第四種かと」


「新項目を増やすな」


「王立大図書庫の封鎖区画で、観測封印が破れました。内部に保存されていた古代書が……ええと、自発的に増殖を始めまして」


「本が増えた?」


「はい。書架から書架へ、まるで胞子のように」


「最悪だな。知識の繁殖本能は概念としては美しいが、現場としては全然美しくない」


 増殖する古代書。聞いただけで頭痛がする。古代書というのは、書いてある内容だけで危険なのではない。媒体自体に魔導的機能が組み込まれているものが多い。読むと視力を失う本、閉じても囁き続ける本、所持者の夢に注釈を入れてくる本、目次が毎晩増える本、存在しない章を探し始めると帰ってこられなくなる本。この世界の本はときどき本分を忘れる。知識を伝える器として慎ましくあってほしいのに、妙に自己主張が強い。


 俺は残っていたパンを口へ押し込み、茶を飲み干して立ち上がった。


「フェルドに外套を持ってこさせろ。リリアには研究室へ立ち入るなと言っておけ。俺が戻るまで第四系列の試薬棚へ近づかせるな」


「先生、お一人で?」


 文官が目を丸くする。


「本が増える程度なら一人で十分だ。人手を入れると、余計な知識に触れて余計な被害が出る」


「ですが、封鎖区画の一部で、未確認の古代言語が浮遊しているとの報告も」


「余計に一人のほうがいい。浮遊言語は人を選ぶ。選ばれたくないやつを連れていく理由がない」


 王宮の馬車で王立大図書庫へ向かう途中、窓の外に広がる王都の喧騒をぼんやり眺めながら、俺は頭の中で作業手順を組み立てていた。増殖型の書物災害で厄介なのは、物理的に焼いても根が残ることだ。根、というのは比喩ではなく、本当に情報位相の地下に根を張っている場合がある。紙束を灰にして喜んでいると、翌朝には壁の内側から新刊が生えてくる。学びたがりにもほどがある。封印区画でそんなものが動き出した理由はいくつか考えられる。保管環境の変化、観測者の増加、鍵句の誤作動、あるいは――外からの共鳴。


 外からの共鳴。


 そこへ思考が触れた途端、胸の底に沈んでいた名前が、古い鐘のように鳴った。


 アルティミシア。


 もちろん、世界のどこかで何か不穏なことが起こるたび、その名を結びつけるのは早計だ。俺だって研究者として最低限の理性は持っている。現象には原因があり、原因の多くは案外地味でくだらない。誰かが規定を破ったとか、鍵をなくしたとか、清掃担当が触るなと書かれた札を裏返したとか、だいたいそんなものだ。神秘の裏側にいるのは大抵、人間の雑さである。


 それでも魂だの記録だの、観測だの選別だのという言葉が絡むと、俺の中の理性は昔より少し静かになる。静かになる代わりに別の何かが目を覚ます。二十年かけて磨き上げた執着。失ったものへ届くかもしれないと囁く、ごく細い可能性にだけ異様なくらい敏感な感覚。


 馬車は石畳を滑り、図書庫の正門前で止まった。王立大図書庫は王宮に次ぐ巨大建築で、半円形の大講堂を中心に、無数の収蔵棟と地下封印庫が接続された知の迷宮だ。正面階段には青銅の賢者像が並び、毎度のことながら自分たちは世界の理を抱えているのだと言わんばかりの顔で来訪者を見下ろしている。知識人というのは石像になっても偉そうだ。


 俺が馬車を降りると、待ち構えていた館長と司書長がほとんど飛びつく勢いで駆け寄ってきた。館長の顔は蒼白で、司書長の髪には紙片が三枚ほど刺さっている。現場の深刻さがよくわかる。


「カオル卿、助かりました、封鎖区画がもう――」


「案内を」


「は、はい、こちらへ。現在、第五封印帯から先は無人化しております。司書見習いが二名、誤って中へ」


「生きてるか」


「今のところは」


「曖昧で嫌な表現だな」


 地下へ降りる階段は冷えていた。石壁に埋め込まれた灯火石が青く光り、その足元を紙の切れ端が雪みたいに舞っている。遠くから、ぱら、ぱら、と乾いためくれる音が聞こえた。本が自分でページを繰る音ほど不気味なものはない。いや、あるか。恋文を本人の前で音読される音とか。でも現場の怖さとしてはいい勝負だ。


 第五封印帯を越えたところで、俺は館長たちを下がらせた。ここから先は本当に人を選ぶ。封印の扉は半開きで、その隙間から淡い金色の文字列が煙のように流れ出ている。文字はどこの言語ともつかず、けれど意味だけは妙に胸へ引っかかる形で伝わってくる。


 記録。分岐。選定。還元。保留。


 この種の古代言語は厄介だ。翻訳される前に概念として侵入してくる。俺は指先で空中へ抑制式を書き、文字列の流出を止めた。扉を押し開ける。


 封印区画の中は、見事なくらい本だらけだった。


 本棚から本が生え、本の背から細い紙の枝が伸び、床では新しい冊子が湿った胞子みたいに膨らみ、天井近くでは綴じ紐のついた巻物が群れをなして旋回している。司書見習いらしき二人は中央の机へ避難しており、互いに抱き合うように縮こまって泣きそうな顔でこちらを見た。


「動くな。何を読んだ」


「よ、読んでません、ただ棚の整理をしていたら、一冊だけ、勝手に開いて」


「題名は」


「『終末観測録・第七断章』です」


 その瞬間、俺の呼吸がわずかに止まった。


 よりにもよって、それか。


 俺は視線を巡らせた。部屋の奥、床へ落ちた古びた一冊の本。黒銀の装丁。角が摩耗し、中央の金具だけが不自然なほど無傷。間違えようがない。何年も前、俺が一度だけその名を資料の断片で見つけ、所在不明のまま追い続けていた書物だった。


 胸の内で笑うような、怒るような、どうしようもなく渇いた感情が混ざり合う。なるほど。世界はこういう意地の悪い冗談を用意してくる。探しても見つからないときはどこにもなく、諦めかけたころにいちばん面倒な形で目の前へ転がってくる。


「館長」


 背後で震えていた男がびくりと肩を揺らす。


「は、はいっ」


「この件に関する記録を、今日ここへいた者全員から回収しろ。目にした内容、耳にした言葉、感想、推測、全部だ。漏らすな」


「き、機密指定を?」


「最高位で。理由は俺が後で書く」


「承知しました……」


 俺は封印区画へ一歩踏み込み、手を上げた。すると部屋中に散っていた文字列が一斉に浮かび上がり、金色の細い川のように俺の手元へ集まってくる。増殖していた本は抵抗するようにページをばたつかせたが、構わず圧縮し、拘束し、位相ごと折り畳む。広間を埋めていた紙の海が音を立てて縮んでいく。その光景に司書見習いたちが呆然としていたので、俺は軽く肩をすくめた。


「安心しろ、燃やしはしない。本が相手でも、必要以上に乱暴をすると後で情報が歪む」


「せ、先生……」


「俺はここの先生じゃない」


「すみません、なんかすごすぎて、つい」


「その気持ちはわかる。現実離れしたものを見たとき、人はとりあえず先生って呼びがちだ」


 数十息ほどで、部屋の異常はおおむね沈静化した。残ったのは、中央にぽつんと横たわる一冊だけ。『終末観測録・第七断章』。増殖の核。共鳴の中心。俺は慎重に近づき、本の前で足を止めた。


 表紙の金具が、かちり、と小さく鳴った。


 古代魔導の封は、持ち手を選ぶ。鍵句ではなく、記録そのものが所有者を判別する形式だ。面倒な仕組みだが、空の文明の連中はこの手の回りくどさが好きだったらしい。なにしろ優れた知性というのは自分で考える入口を増やしたがる。凡人は扉を減らしたがる。俺はどちらの気持ちもわかるので、たまに疲れる。


 本を手に取ると、冷たかった。まるで長い間、日の当たらない場所で眠っていたような冷たさだった。表紙をなぞる。内部で術式が脈打っている。俺の魔力へ反応しているのではない。もっと深い層、魂の記録に触れようとする感覚。知らないはずなのに知っている手触り。


 そこでふいに、あの夜の記憶が脳裏へ浮かんだ。


 夜道。冷たいアスファルト。白い街灯。血の匂い。遠ざかる声。泣きそうなくらい必死な目で俺を見ていた少女。手を伸ばしても届かない距離。選べと言われ、選べなくて結局、選ばれてしまった結末。


 浅倉カオルとして死に、カオル・ブルーフィールドとして目を覚ましたあの日から、俺の時間は一度たりとも綺麗には進んでいない。研究を積み上げ、力を手に入れ、誰より高い場所へ立ち、王も魔族も神話も視野へ入る位置まで登ってきたというのに、心の底ではずっとあの日の続きをやり直したいだけの男のままだ。


 笑える話である。大魔導士と呼ばれ、王侯貴族が頭を下げ、世界の均衡にすら影響を与える男が、結局のところたった一人の女の子に未練たらたらで、二十年も執着を煮詰め続けている。青春が発酵すると禁術になる、という見本みたいな人生だ。学校の進路指導でそんな未来予想図を見せられても、誰も信じないだろう。俺だって信じない。


 それでも、信じるしかなかった。


 師匠――大魔導士クロロは、昔こう言った。


「この世界の魔導は現象を操るだけじゃない。存在へ届く。記憶、魂、座標、因果、その気になれば全部触れられる。ただし、触れる価値のあるものへ手を伸ばすなら、おまえ自身が何を壊す覚悟でいるのか、最初に決めておけ」


 あの人はいつも、肝心なことを静かな声で言った。脅しでもなく慰めでもなく、事実として。だからこそ響いた。俺はその言葉を信じてここまで来た。失われたものは完全には消えない。辿る術さえあれば、必ずどこかに痕跡が残る。ならば探す。見つからないなら、見つかる理屈を世界から奪ってくる。神が管理しているというなら、その管理簿を盗み見る。扉がないなら作る。鍵がないなら神の指からもぎ取る。


 本の金具が完全に外れた。


 俺は一頁目を開いた。


 紙面には古代文字が並び、その下で、現代語への自動変換式がゆっくり浮かび上がる。部屋の空気が変わった。司書たちが息を呑む。俺の指先だけが、妙に落ち着いていた。


 そこに記されていたのは、世界の始まりでも文明の終わりでもなく、もっと醜く、もっと魅力的な話だった。


 人は、選択を神へ委ねた。


 神は、選択を記録へ変えた。


 記録は、剪定を始めた。


 戻るはずだった魂は、戻らなかった。


 失われたものは消えたのではなく、保留された。


 天上層に。


 アルティミシアの管理領域に。


 喉の奥で、乾いた笑いがこぼれた。


 ああ、なるほど。


 そこにあるのか。


 美波。


 おまえは、そこにいるのか。


 俺は本を閉じ、封印区画の闇を見渡した。王立図書庫の地下深く、誰も近づきたがらない埃っぽい保管庫の中心で、世界の理へつながる糸が、ようやく俺の手の届く場所へ垂れてきている。二十年。長かった。長すぎて、途中から自分が何を目指しているのか、理屈で説明するのも面倒になっていた。それでも歩いてきた。世界中の禁書を読み、遺跡を荒らし、魔王と取引し、貴族を黙らせ、弟子に呆れられ、師の墓前で悪態をつきながら、ずっと。


 その果てにこれだ。


 笑わずにいられるか。


「館長」


「は、はい」


「この本は俺が預かる。異論は受けつけない」


「もちろんでございますとも!」


「ついでに封印区画は当面、俺の管理下だ。無断で人を入れるな。見学も研究発表も学会報告も全部却下。どうしても必要なら、まず俺を説得しろ」


「全力で周知いたします!」


「よし。あと司書見習い二人は、しばらく甘いものを食わせて寝かせろ。認識負荷が高すぎた。今夜あたり本に追いかけられる夢を見る」


 二人が青ざめた顔でうなずく。すまないな。こういう予言は当たりやすい。せめて蜂蜜入りの温かいミルクでも飲んでくれ。


 俺は本を抱えて踵を返した。背中へ館長や司書長の安堵した気配が降りかかる。王都の地下には、いつだって誰かの知らない秘密が眠っている。人は秘密を見つけると怯えるか、欲しがるか、その両方だ。俺はたぶん、昔からずっと両方だった。


 図書庫を出ると、外はすっかり昼に近づいていた。王都の空は明るく、白い雲がゆっくり流れている。市場の呼び声が遠くから聞こえ、噴水広場では子どもが走り回り、通りの向こうでは恋人らしい若い二人が昼食の店をめぐって楽しそうに揉めていた。ああいうやり取りを見ていると、胸のどこかが少しだけ痛む。痛むくせに、目をそらせない。


 昔、俺にもそういう時間があった。


 高校生で、将来なんて曖昧なくせに、妙に何でもできる気がして、好きな子と一緒にいるだけで世界の輪郭が明るくなって、卒業したら、大学へ行って、それから――なんて、実に普通で、平凡で、だからこそ何にも代えがたかった未来を話していた時期が、たしかにあった。


 その未来は、夜道の一振りで途切れた。


 途切れたはずだった。


 けれど、もし保留されているのなら。


 もし誰かが記録として取り上げ、天上層とやらへ積み上げているのなら。


 話は変わる。


 失ったものを嘆く段階は終わりだ。ここからは取り返す段階になる。悲劇として飲み込んでいた過去を、問題として処理できる領域まで引きずり下ろす。研究者の悪い癖かもしれない。答えがあると知った途端、感傷より手順が先に立つ。手順が見えた途端、世界の大きさなんて少しも怖くなくなる。


 王都の石畳を踏みしめながら、俺は手の中の本の重さを確かめた。


 美波。


 聞こえるかどうかは知らないが、いちおう言っておく。


 おまえが俺を生かした日から、俺の人生はずっと予定外だ。異世界転生なんて冗談みたいな始まり方をして、気づけば大魔導士扱いされ、弟子に振り回され、王宮の面倒ごとへ巻き込まれ、神話級の秘密まで抱え込むことになった。ほんとうに、ろくでもない。けれどその全部をまとめて言うなら、悪くない遠回りだったのかもしれない。


 ようやく、おまえのところへ行く道が見えた。


 神が相手だろうが世界の理が相手だろうが、知ったことか。


 俺はもともと、恋人に会いたい一心でここまで来た男だ。いまさら相手が神になった程度で、遠慮する理由にはならない。むしろ格好がついたくらいだ。大魔導士なんて肩書きを押しつけられた以上、それに見合う無茶の一つくらいはやってやろうじゃないか。




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