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消しゴムの余白に綴る、一センチの告白

掲載日:2026/01/18

 消しゴムに好きな人の名前を書いて、誰にも触れられずに使い切ると、恋が叶う。

 そんな擦り切れるほど使い古されたおまじないを、高校二年生にもなって信じているのかと笑われるかもしれない。


 でも、私――早坂心春はやさかこはるにとって、これはただの願掛けじゃなかった。

 これは、誰にも言えない秘密を封じ込めた、小さな棺桶なのだ。


 五時限目の数学Ⅱ。

 窓から差し込む午後の日差しが、チョークの粉みたいにキラキラと舞っている。先生の単調な声が子守唄のように響く教室で、私は必死に眠気と戦いながらノートを取っていた。

 ふと、視線を感じて右隣を見る。


「……あ」


 目が合ってしまった。

 隣の席の、みなとくん。

 少し色素の薄い茶色の髪に、長い睫毛。いつも眠そうな目をしているけれど、ふとした時に見せる笑顔が反則的に可愛い。


 クラスの女子の三分の一は彼に好意を持っているという噂があるけれど、あながち間違いじゃないと思う。  もちろん、私もその一人だ。


 湊くんは困ったように眉を下げ、小声で話しかけてきた。 「ごめん、早坂さん」 「……え、なに?」 「消しゴム、忘れたみたいで。ちょっと貸してくれない?」


 ドキン、と心臓が跳ねた。

 消しゴム。

 その単語を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい汗が流れる。


「あ、えっと……」


 私は自分の筆箱を見つめた。中に入っているのは、使いかけの『MONO消しゴム』が一つだけ。

 予備はない。

 そして、その消しゴムこそが、私が絶賛実行中の「おまじない」の依代よりしろなのだ。


(どうしよう、どうしよう!)


 ケースに隠された消しゴムの本体、その右側面には、緑色のペンではっきりと『湊くん』と書かれている。

 誰にも触れられてはいけない。見られてもいけない。



 もし貸して、彼が何気なくケースを外して中身を見たりしたら?

 いや、そもそも「好きな人本人」に貸すこと自体、おまじないのルール違反なんじゃなかったっけ?


「……無理?」


 湊くんが申し訳なさそうに首を傾げる。その仕草が大型犬みたいで、拒否権なんてものは最初から存在しなかった。

 好きな人に頼られて、断れるわけがない。

 私は覚悟を決めた。


「う、ううん! いいよ。はい」

「サンキュ、助かる」


 震える指先で消しゴムを渡す。

 彼の手が伸びてきて、私の消しゴムを受け取る。その一瞬、指先が触れ合って、火傷しそうなほど熱く感じた。

 けれど、感傷に浸っている場合じゃない。

 ここからは監視の時間だ。


 湊くんはシャーペンの後ろ側でゴシゴシやるのを諦め、私の消しゴムをノートに滑らせ始めた。



 キュッ、キュッ。

 白い消しゴムが、黒鉛を絡め取っていく。


(ああっ! そんなに勢いよく使わないで!)


 心の中で絶叫する。

 彼は豪快に、計算式を一行まるごと消していた。消しゴムが揺れるたびに、青と白と黒のストライプ柄のケースがズレそうになる。


(待って、ケースが! ケースが浮いてる!)


 名前を書いているのは、ちょうど彼の親指が当たっているあたりだ。もし彼が手持ち無沙汰にケースを弄ったり、あるいは消す勢いでケースがすっぽ抜けたりしたら、全てが終わる。

 私の恋心は、白日のもとに晒されて消しカスと共にゴミ箱行きだ。


「……早坂さん? そんな凝視してどうしたの」

「へっ!?」


 湊くんが手を止めて私を見た。

 私はブンブンと首を横に振る。


「な、なんでもない! ただ、その消しゴム、私の相棒だから……優しくしてあげてねって思って」

「相棒? ぷっ、なにそれ」


 湊くんが吹き出した。クスクスと笑うその顔を見て、顔から火が出るかと思った。

 何言ってるんだ私。相棒って。刑事ドラマか。


「大事なんだね、これ」

「う、うん。まあ……」

「分かった。丁寧に扱うよ」


 彼はそう言って、今度は少し力を抜いて、優しく消しゴムを使ってくれた。

 その手つきが妙に丁寧で、まるで大切なものを扱うようで。

 見ているだけで、なんだか胸が苦しくなった。


(……こんなに近いのに、遠いなぁ)


 隣の席。消しゴムを貸し借りする距離。

 それなのに、私は「好き」の一言が言えなくて、こんな小さなおまじないに縋っている。

 彼が消しているのは間違えた数式だけれど、私が消したいのは、この臆病な自分自身なのかもしれない。


 そんなことを考えて目を離していたら、いつの間にか彼は書き直しを終えたらしい。  消しゴムについたカスを指先で丁寧に払い落とし、私に差し出した。


「ありがと。めっちゃ消しやすかった」

「……どういたしまして」


 手元に戻ってきた消しゴム。

 まだ彼の体温が残っている気がして、私はそれを筆箱の奥深くにしまい込んだ。

 とりあえず、最大の危機は去った。

 中身を見られることもなく、ケースが外れることもなく。

 私の秘密は守られた……はずだった。


***


 異変に気づいたのは、放課後のことだった。

 日直の仕事を終えて席に戻ると、教室にはもう誰もいなかった。

 西日が長く伸びて、机の上にオレンジ色の影を落としている。


「ふぅ……帰ろ」


 鞄に教科書を詰め込もうとして、筆箱が目に入った。

 そういえば、さっきの消しゴム。

 湊くんが「丁寧に扱う」と言ってくれたけれど、どれくらい減っただろうか。



 私は何気なく消しゴムを取り出し、しげしげと眺めた。

 角が少し丸くなっている。彼が使った証だ。それだけで少しニヤけてしまう自分が気持ち悪い。


「……ん?」


 違和感があった。

 ケースの位置だ。

 私が渡した時よりも、数ミリだけ、上にズレている気がする。

 それに、ケースの端が少しヨレていた。誰かが一度外して、また付け直したような……。


(まさか)


 心臓が早鐘を打ち始める。

 嫌な予感がした。いや、予感じゃない。確信に近い恐怖だ。

 彼は見たのかもしれない。

 うっかりケースが外れて、そこに書かれた『湊くん』の文字を。


 もしそうだとしたら、どうしよう。

 明日からどんな顔で会えばいい?

 「重い」って思われたかな。「キモい」って引かれたかな。

 それとも、何も見なかったフリをしてくれているだけ?


 確認しなきゃ。

 私は震える指で、消しゴムのケースをつまんだ。

 ゆっくりと、慎重に、スライドさせる。


 ズズッ、と紙の擦れる音が静かな教室に響く。

 現れたのは、白い消しゴムの肌。

 そして、そこにある緑色の文字。


『湊くん』


 ――あった。

 私が書いた文字は、そのまま残っていた。消された形跡もない。

 ほっと息を吐き出す。よかった、バレてない。あるいは、バレていたとしても、文字を消されるような拒絶はされていない。


 力が抜けて、机に突っ伏そうとした、その時だった。

 消しゴムを握り直した拍子に、くるりと裏側が見えた。


「……え?」


 思考が停止した。

 そこには、私の記憶にない文字があったからだ。


 私が名前を書いたのは、片面だけだ。

 もう片面は真っ白だったはず。

 なのに、そこには黒いボールペンのインクで、何か文字が書かれている。

 見覚えのある、少し角張った、男の子の字。

 さっきまで隣でノートを取っていた彼と、同じ筆跡。


 私は瞬きも忘れて、その文字を凝視した。


『心春。僕もおまじない中』


 世界が、止まった。


 カバン、と音がして何かが床に落ちた。自分の鞄を落としたことにも気づかない。

 頭の中が真っ白になって、それから急速に沸騰したみたいに熱くなる。


 心春。

 呼び捨て。

 それに、「僕も」って。

 おまじない中って。


(え、ええええええっ!?)


 パニックになりかけた頭で、必死に状況を整理する。  彼は、私の消しゴムのケースを外したのだ。  そして、私が書いた『湊くん』の文字を見た。  その上で――こんなメッセージを残した。


 『僕もおまじない中』ということは、彼も誰か好きな人がいる?  いや、私の消しゴムに書いたということは。  そして、私の名前を書いているということは。


「……嘘でしょ」


 顔が熱い。耳まで熱い。

 心臓の音がうるさすぎて、耳鳴りがしそうだ。

 これは、つまり。

 そういうこと、だよね?


 ガララッ。


 不意に、教室の前の扉が開いた。

 ビクッとして顔を上げると、そこには息を切らした湊くんが立っていた。

 カバンを肩にかけ、少し乱れた髪。

 彼は私を見て、それから私の手にある消しゴムを見て、バツが悪そうに頬を掻いた。


「あー……やっぱり、まだいた」

「み、湊くん……」

「忘れ物したと思って戻ってきたんだけど」


 彼は一歩、教室に入ってくる。

 夕日が彼の背中を照らしていて、表情が逆光でよく見えない。でも、その声がいつになく上擦っているのは分かった。


「あのさ、早坂さん」 「は、はい!」 「その消しゴム、もう一回貸してくんない?」 「えっ」 「さっき書いたやつ、書き直したいから」


 彼は私の机の前まで歩み寄ると、にっこりと笑った。


「『僕も』じゃなくて、ちゃんと『心春ちゃんが好きだ』って書くから。……おまじないとか、神頼みじゃなくてね」


 その言葉を聞いた瞬間、私の目からポロポロと涙が溢れ出した。

 嬉しくて、恥ずかしくて、どうしようもなく愛おしくて。


「……消しゴム、いらないよ」

「えっ、もしかしてダメだった?」

「ちがう、ちがうの」


 私は涙を拭って、精一杯の笑顔を彼に向けた。

 手の中の消しゴムを、ぎゅっと握りしめる。


「おまじない、もう叶っちゃったから」


 まだ半分以上残っている消しゴム。

 使い切るにはまだまだ時間がかかりそうだけど、これからは一人じゃなくて、二人で減らしていける気がした。


 放課後の教室、夕焼けの中。

 私たちの恋は、書き置きなんかじゃ終わらない、新しいページへと書き出されたばかりだった。


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