銀次、死す。そして、伏見城へ
「親分、そろそろ、お時間ですぜ」
聞こえてくる声は、まるで遠い世界のこだまのようだ。銀次、本名・金城銀次は、ゆっくりと目を開けた。白い天井、消毒液の匂い。ここは病院のベッドの上。末期の肝臓がんを患い、死期が近い元やくざの親分であった。
銀次は、若頭が心配そうに見守るのを煩わしく感じていた。
「うるせぇ。わしはまだ死にやしねえ。お前らが心配するようなタマか、この銀次が」
そう毒づいたが、声は掠れ、力なく弱々しかった。身体は鉛のように重い。
意識が朦朧としてくる。過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る。若い頃のやんちゃだった自分。苦労を共にした仲間たち。そして、この組を、この時代を生き抜いてきたこと。
「ま、いいか。もう、疲れたな」
銀次は静かに目を閉じた。もう思い残すことはない。あとは静かに、この世を去るだけだ。
──ガツンッ!
鈍い衝撃とともに、銀次は意識を取り戻した。同時に、ひどい頭痛が襲いかかる。
「……は?なんだこれ」
銀次は目を見開いた。白い天井も、消毒液の匂いもない。あるのは、土壁と、古びた木の天井。そして、耳元には、金属と金属がぶつかり合う、不快な音が鳴り響いている。
「おい、銀次! いつまで寝てんだ、この役立たずが!」
いきなり、怒鳴り声が飛んできた。銀次は、声の方を見た。そこには、顔に大きな傷跡のある、いかにも荒くれ者といった風体の男が立っていた。男は、銀次を睨みつけている。
銀次は、自分の手を見た。すべすべとした、若々しい手。そして、自分の身体。癌に侵され、痩せ細った身体は、引き締まった筋肉と、漲る活力を取り戻している。
「……なんだ、これは」
銀次は混乱した。自分が若返っていること、そして、この見慣れない場所にいることが、理解できなかった。
「とぼけてんじゃねぇぞ! もうすぐ西軍の奴らが攻めてくるんだ! さっさと持ち場につけ!」
男は、銀次を突き飛ばした。銀次は、よろけて壁に手をついた。
「てめぇ、誰に向かってそんな口を…」
銀次は、思わず、やくざの親分だった頃の口調で男に言い返そうとした。しかし、男は、銀次の言葉を遮った。
「なんだ、その口の利き方は! まさか、頭でも打ったのか? この大馬鹿野郎が!」
男は、さらに銀次を罵った。銀次は、混乱した頭を抱えながら、周囲を見渡した。
そこには、銀次と同じくらいの年恰好の若造たちが、甲冑を着て、忙しなく駆け回っている。彼らの表情には、不安と恐怖が浮かんでいる。
銀次は、男が言った「西軍」という言葉に、はっと我に返った。そして、自分のいる場所が、伏見城であることに気づいた。
「まさか、関ヶ原の前哨戦……」
銀次は、記憶の糸を手繰り寄せた。関ヶ原の合戦。伏見城の籠城戦。そして、城主・鳥居元忠。しかし、銀次は、鳥居元忠ではない。ただの、身分の低い兵士。
「おい、銀次! ぼさっとしてんじゃねぇぞ! 鳥居様のお役に立てるなんて、一生に一度の誉れじゃねぇか!」
別の兵士が、銀次の背中を叩いた。銀次は、何も言えなかった。ただ、胸の奥で、何かが燃え上がっていくのを感じた。
「くくく……まさか、こんなことになるとはな」
銀次は、思わず笑った。末期がんで死にゆくはずだった自分が、戦国時代の若造兵士に転生し、絶望的な籠城戦に巻き込まれている。こんな奇妙な運命があるだろうか。
銀次は、ゆっくりと立ち上がった。甲冑の重みが、身体にずっしりと響く。そして、城の外から、鬨の声が聞こえてくる。
「銀次、行くぞ!」
兵士たちが、銀次を促した。銀次は、静かに、そして力強く、言った。
「……ようし。お前ら、よく聞け」
銀次は、かつて、やくざの親分として組員を率いていた時と同じ、威厳のある声で言った。
「わしは、かつて、たった一人でこの組を立ち上げた。そして、幾多の抗争を生き抜いてきた。四万の軍勢だろうが、なんだろうが、恐れることはない」
銀次の言葉に、兵士たちは、きょとんとした表情を浮かべる。
「なんだ、急に…」
「まさか、頭でもおかしくなったのか?」
兵士たちは、銀次を嘲笑した。しかし、銀次は、構わなかった。
「わしらには、守るべきものがある。そして、生きるべき道がある。この城は、わしらが守り抜く。石田方の軍勢を、一人残らず叩き潰す」
銀次の声が、城内に響き渡る。その声に、兵士たちの士気が上がる……わけはなかった。彼らは、ただ、戸惑うばかりだ。
「おいおい、銀次。熱いのはいいけど、ほどほどにしとけよ。俺らは、ただの捨て駒なんだからな」
別の兵士が、銀次の肩を叩いた。銀次は、その言葉に、はっと我に返った。
そうだ。ここは、やくざの世界ではない。命のやり取りは、日常茶飯事。そして、自分は、ただの若造兵士。
銀次は、黙って、城門へと向かう。彼の背中には、かつてのやくざの親分としての威厳と、新たな戦国武将としての覚悟が、重なって見えた……わけはなかった。ただ、周りの兵士からは、少し浮いた存在に見えるだけであった。




