第6章 ― 衝突!
州警察本部の戦術会議室は、外界から切り離されたかのように固く閉ざされていた。
空気は重く、言葉にしなくとも張りつめた緊張が漂っている。
大きな楕円形の会議卓の最奥に、ファルハン准将が腰を下ろしていた。背筋はまっすぐ、視線は冷徹。周囲には複数部隊から集められた合同作戦チームの将校たちが座り、誰一人として無駄口を叩かない。
室内で唯一の光源は、中央に設置されたプロジェクターだった。その淡い光が、死と向き合うことに慣れた男たちの硬い顔を照らし出す。スクリーンには、ランプン州にある老朽化した桟橋の地図が映し出されている。赤いポイントと線が、侵入経路、狙撃位置、封鎖区域を示していた。
前方に立つのは、堂々たる体躯の高級将校。国家警察情報局長、アンディカ・プルタマ警視総監だった。右手にはレーザーポインター。動きは落ち着いているが、その説明内容は冷酷だった。
「諸君」
低く、はっきりとした声が会議室に響く。
「我々の情報源、コードネーム《ナイト・スカイ》から最新のインテリジェンスが入った。
取引額は五十億ルピア。場所はランプン州、サガラ桟橋。実行は二日後だ」
赤いレーザーがスクリーン上を走る。
地図は詳細な構造図に切り替わる。崩れかけた桟橋。錆びたコンテナの山。背後には闇に沈む海。
「この桟橋は長年使用されておらず、定期的な監視もない。陸路の出入口は一つだけ。違法取引には理想的な場所だ」
一拍置き、アンディカは続けた。
「売り手は《ハリマウ・ヒタム》
今回の取引は、ジャック――通称が直接指揮する可能性が高い。
彼は同組織の地域責任者であり、第十一セクターのキャプテンだ」
スクリーンに二枚の顔写真が映し出される。
一人は傷だらけで獣のような目をした男。
もう一人は整った顔立ちで、目の奥に冷たい計算を隠した男。
「買い手は外国勢力。シンガポール系の可能性が高い。
主要な連絡役の名は、レナード」
沈黙を破るように、一人の将校が口を開いた。
「失礼ですが、この情報は本当に信頼できるのでしょうか。
本来であれば、ランプン州警察が担当すべき案件では?」
視線が一斉にファルハン准将へ向けられた。
ファルハンは小さく息を吐き、静かに言った。
「情報の信頼度はA1だ。
《ナイト・スカイ》は、これまで何度も我々を失敗から救ってきた」
彼は室内をゆっくりと見回す。
「確かに、ここは地方警察の管轄だ。
だが、この作戦は我々が引き受ける。
そして――地元には伏せる」
誰も、それ以上を尋ねなかった。
全員が、その意味を理解していた。
アンディカが再び前に出る。
「作戦指揮はファルハン准将が執る。
主目標は明確だ。ジャックとレナードを生け捕りにする」
二人の写真を指し示す。
「彼らは鍵だ。
《ハリマウ・ヒタム》の流通網、そして国際的な繋がりの全てが、彼らの頭の中にある」
声が低くなる。
「だが忘れるな。
両陣営とも完全武装だ。
ためらいなく人を殺す」
地図が再び表示され、赤いポイントが増える。
「狙撃手はここ、ここ、そしてここに配置する」
アンディカは西側のコンテナ群を示した。
「突入部隊は北側から進入。
支援部隊は南の退路を完全封鎖。
逃げ場は与えない」
「医療班は半径二キロ地点で待機。
無線は最小限。サイレンは使わない」
ファルハンが立ち上がった。
その声は淡々としているが、圧があった。
「この作戦は失敗できない」
鋭い視線が会議室を貫く。
「これは単なる犯罪者の検挙ではない。
《ハリマウ・ヒタム》への宣告だ。
そして、この国で制服や地位を盾に、無敵だと勘違いしている連中への警告でもある」
州警察本部での会議から二日後、
サガラ桟橋一帯は完全な沈黙地帯へと変わっていた。
サイレンは鳴らない。
派手な照明もない。
動いているのは、闇の中を滑る影と、モニター画面に映る信号だけだった。
海岸線から数百メートル離れた場所に、簡易の指揮所が設置されている。
老朽化したコンテナと低い茂みに隠され、外部からは存在すら分からない。
隊員たちは無言で出入りし、それぞれが自分の役割を完全に把握していた。
この夜に、ミスの余地はなかった。
ファルハンは人の流れから離れ、指揮所脇に設けられた小さなテントへ向かった。
中では、ノートパソコンの画面が一人の女性警官の顔を照らしている。
彼女は鋭い集中力でデータを追っていた。
警視・ラトナ・デウィ。
彼の副官。
そして、特別犯罪捜査部における最高峰の一人。
ラトナの経歴は、履歴書の数字だけでは語れない。
彼女は国境を越えた経済犯罪組織を幾度も解体し、スラバヤで行われた大規模作戦では、数億ルピア規模の密輸を阻止している。
思考は鋭く、直感は冷静。
即断するタイプではないが、判断は常に的確だった。
今夜、ファルハンがわずかな安心を得られている理由が、そこにあった。
ラトナは背筋を伸ばし、指先を素早く動かしながら、最新のインテリジェンス報告を確認していた。
ファルハンがテントのフラップを開いても、彼女はすぐには振り向かなかった。
「ラトナ警視」
ファルハンは手にしたファイルを開きながら声をかけた。
「計画通りに進んでいるか?」
ラトナはようやく顔を上げた。
表情は引き締まり、迷いはなく、過剰な笑みもない。
「現時点では、はい。
中央からの部隊が全権を掌握しています。ドローン監視も稼働中。通信回線もクリーンです」
一瞬、言葉を切る。
「ただ、一つ気になる点があります」
ファルハンは椅子を引き、彼女の正面に腰を下ろした。
「何だ?」
ラトナは短く息を吐いた。
「この地域の警察が、あまりにも静かすぎます。
こうした取引は初めてではありませんが、過去の報告はすべて成果なしで終わっています。
中には、作戦情報が漏れていた疑いもあります」
ファルハンは小さくうなずいた。
驚きはなかった。
「だから我々が引き取った。
信頼できていれば、この案件が私の机に来ることはなかった」
ラトナはノートパソコンの天板を、一定のリズムで軽く叩いた。
「同様の取引が頻繁に行われているという噂は絶えません。
だが、逮捕者もなければ、正式な報告もない。
まるで全員が金に目を潰されたかのようです」
ファルハンは背もたれに体を預け、テント越しに闇に沈む桟橋を見つめた。
「金は、最も強力な沈黙の武器だ。
五十億ルピア……私が指揮を執ってきた中でも最大規模だ」
彼は再びラトナに視線を戻す。
「今夜成功すれば、ただの作戦成功では終わらない。
これは警告だ。
制服を盾に無敵だと錯覚している連中への」
ラトナはうなずいたが、その瞳には消しきれない不安が宿っていた。
「この規模です。簡単に引き下がるとは思えません。
裏で守っている存在がいれば、なおさらです」
ファルハンは迷いなく彼女を見据えた。
「最良のチームは揃っている。
それでも妨害してくる者がいるなら、
それは自分で墓穴を掘る選択をしたということだ」
ラトナはわずかに口元を緩めた。
「成功すれば、昇進も早まるかもしれませんね」
ファルハンは短く息を漏らした。
喜びの笑いではない。ただの反射だ。
「昇進が目的じゃない。
私は、これが大掃除の始まりになることを望んでいる。
腐敗を、あまりにも長く放置しすぎた」
ラトナは数秒彼を見つめ、強くうなずいた。
「同感です。
今夜、法がまだ死んでいないことを証明しましょう」
ファルハンは立ち上がり、ファイルを閉じた。
「準備を整えろ。
最終ブリーフィングは十分後だ」
ラトナも立ち上がり、敬礼する。
「了解しました、閣下」
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その夜、現場に投入された警察官たちの中に、
警官として来たわけではない存在が紛れ込んでいることを、誰一人として知らなかった。
ダルマの使者。
彼には階級もなければ、正式な名簿への記載もない。
いかなる指揮系統にも属していなかった。
任務は単純で、同時に危険だった。
――取引を、確実に失敗させること。
手段は問わない。
監視ラインからさほど離れていない小さな詰所で、
屈強な体格の男が人混みに背を向けて立っていた。
戦術用ジャケットが体を覆い、顔立ちは他の隊員たちに溶け込んでいる。
その動きに、不自然な点は一切なかった。
男は耳元の小型イヤーピースに指を当てた。
「兄さん……」
低く、抑えた声。
「俺はもう彼らの中に混じっている。必ず、彼らが失敗しないようにする」
数秒の沈黙。
やがて、向こう側から声が返ってきた。
落ち着き払い、危険など意に介さない声音だった。
「分かった」
「気をつけろ、ビマ」
男は小さくうなずいた。
遠くで、サガラ桟橋は依然として静まり返っている。
そして、その静寂の裏側で、
すでに複数の“ゲーム”が動き始めていた。




