五徳の試練
その朝、ソウケツ寺院 の大講堂には、いつもとは異なる気配が満ちていた。
足音、囁き、鼓動――それらが静寂の中で溶け合い、一つの波となる。
寺のすべての者たち――弟子、師範、そして老いた賢者までも――が集い、
一世代に一度だけ訪れる瞬間を見届けようとしていた。
今日は、新たなるユディシュティラ(次代のユディシュティラ) を選ぶ試練の日である。
最前列には、師範たちが厳かに立ち並び、
その傍らで残された四人のパンダワ が深く頭を垂れている。
だが、誰もが息を呑んだのは――
講堂の中央に立つ、ひとりの存在だった。
バタラ・グル。
その姿が現れることは稀である。
彼は静寂の居に籠り、俗世を超えた悟りの領域に在る者。
だが今日だけは、己の瞑想の間を離れ、
自らの目で“次なる導き手”を見定めるためにここへ降りたのだ。
私は他の四人の候補と共に、
冷たくも神聖な石床の上で膝をつき、深く頭を垂れた。
その静寂はあまりにも濃く、
呼吸の音さえ重く響くほどだった。
やがてバタラ・グルはゆっくりと目を開く。
「我が子たちよ――」
その声は穏やかでありながら、胸の奥深くに響く波動を持っていた。
「今日、そなたらの運命が定まる。
この試練は力を競うものではない。
魂と光の均衡を量るものである。」
パンドゥ が前へ進み出る。
手には五つの小瓶を載せた盆を持っていた。
瓶の中では、淡く輝く緑の液体が揺らめいている――
ワナマルタ――森の生命の水。
その光が我ら五人の顔を照らす。
「候補者たちよ。」
パンドゥの声は鋭くも荘厳に響いた。
「この液体を携えよ。
それは食も水も絶たれる修行の中で、
そなたらの肉体を生かす唯一の支えとなる。
修行を始める時、このワナマルタを飲むのだ。
だが忘れるな――生き永らえるのは肉体のみ。
心が揺らげば、魂は闇に飲まれる。」
彼は一息おき、我々を順に見つめる。
「太陽の光が届かぬ地を探せ。
そこは闇と静寂のみが在る場所。
その地にて座し、己の心を鎮めよ。
やがて肉体とプラーナが一つになり、
そなたの意識は“修行の界”へと導かれるだろう。
真の試練は、そこで待っている。」
バタラ・グルが続けた。
その声はまるで古の真言のように空間を震わせた。
「五つの生の理 を忘れるな――
真理、慈悲、剛心、名誉、悟り。
その全てを行いの中に映し出せ。
それが、真のダルマスータ の証である。」
ひとり、またひとりと名が呼ばれる。
そして私の番が訪れた。
バタラ・グルは静かに小瓶を手渡し、
その手で私の肩を優しく叩いた。
「ジューダよ、最善を尽くせ。」
低く響くその言葉には、重みと祈りが宿っていた。
我ら五人は立ち上がり、静かに講堂を後にした。
大勢の修行者たちの間を通り抜けると、弟子たちの歓声が空気を震わせ、
五つの名が次々と叫ばれ、私たちを門まで送り出した――
こうして、試練への旅が始まった。
だが、胸の奥では小さな声が囁いていた。
――私は、本当にその資格があるのだろうか。
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暗闇の中で、私は目を覚ました。
湿った冷気が肌を撫で、まるで大地そのものが息をしているようだった。
誰かがそっと私の肩を揺らす。
「起きてください、兄上……。任務の準備をしなければ。」
低く、落ち着いた声が闇の奥から響いた。
私はゆっくりと目を開けた。
視界はまだぼやけ、息が白く揺れる。
座禅を組んだままの姿勢から立ち上がると、足元を冷たい水が流れているのを感じた。
――どうやら、私は浅い川の中にいるらしい。
足音を頼りに前へ進む。
水面が小さな波紋を描き、洞窟の壁に反射した。
やがて、遠くから柔らかな光が差し込み、暗闇を切り裂いた。
その光の先で、彼らが立っていた。
ビマ――大きな体と鋭い眼差し。
かつて私に「怒りの中にある静寂」を教えた、最初の師。
アルジュナ――整った顔立ちと、風のように穏やかな佇まい。
ナクラ――優しさの奥に鋼の覚悟を秘める男。
そして、いつも微笑を絶やさぬサデワ。
彼らは皆、スケットゥ随一の戦士――パンダワ。
そして、その中に……私がいた。
ビマが一歩近づき、私の肩に手を置いた。
「それで……兄上、これからどう動きます?」
「……兄上?」
思わず聞き返すと、四人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
アルジュナが前に出て、穏やかに言った。
「冗談はやめてください、兄上。
あなたはユディシュティラ――我らの導き手ですよ。」
――ユディシュティラ? 私が?
胸の奥がざわついた。
その瞬間、すべてを思い出した。
そうだ、これは試練だ。
新たなユディシュティラを選ぶための「五つの命の試練」。
ここは現実ではない――“タパ”の世界。
しかし、感じる風も、水の冷たさも、仲間たちの声も、あまりに現実的だった。
四人が私を見つめている。
その瞳には信頼があり、期待があり――そして、重みがあった。
私は息をのみ、拳を握りしめた。
ユディシュティラとして、彼らを導く。
だが胸の奥底では、どうしても消えない声が囁いていた。
――「俺なんかが……その器なのか?。
深く息を吸い込み、激しく波打つ胸の鼓動を落ち着かせようとした。
だが正直に言えば――震えが止まらなかった。
彼らを導く?
自分よりも長く修行を積み、強く、賢く、すべてにおいて優れた人々を?
俺が? 彼らを?
まるで悪い冗談のようだ。
――きっと失敗する。
その思いが、胸の奥で冷たい刃のように刺さった。
だがその瞬間、心の奥に灯がともる。
師の言葉、修行の日々、そしてスウケツで学んだすべての教えが蘇る。
「ダルマを貫け。
たとえ世界に笑われても、己の正しさを捨てるな。」
――たとえ結果が悪くても、
たとえ敗北が見えていても、
今の自分にできる最善を尽くす。
静かに目を閉じ、拳を握りしめた。
そして顔を上げる。
ビマ、アルジュナ、ナクラ、サデワ――彼らを一人ひとり見つめ、
自分でも信じられないほど落ち着いた声で言った。
「……わかった、ビマ。状況を説明してくれ。」




