第五章 パンダワ(導きの子孫)
高層ビルの屋上に、一つの影が静かに立っていた。
その視線の先には、威容を誇る建物――警察本部。
彼の顔を覆うのは、古代の「ワヤン」を模した仮面。
その眼孔には精密なレンズが仕込まれており、建物の内部構造と人間の動きを透視するかのように映し出していた。
右目の側面を軽く押すと、視界が拡大される。
そこに現れたのは、この夜の監視対象――三ツ星の階級を持つ警察将軍の姿だった。
耳元の通信機から、澄んだ女性の声が響く。
「――標的の様子は?」
男は短く答える。
「ええ…黒虎のクーデターに反応し、全ての勢力が動き始めています。」
再び、冷ややかな指示が飛ぶ。
「監視を続けなさい。」
「承知しました、姫様。」
夜風がビルの頂を吹き抜け、仮面の隙間から覗く長い髪を激しく揺らす。
やがて男はゆっくりと仮面を外した。
そこに現れたのは、二十歳ほどの青年の顔。
静かで落ち着きながらも、威厳を帯びた眼差し。
その姿は、生まれながらの導き手を思わせた。
彼こそが パンダワ(導きの子孫) の長――
ユディシュティラである。
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十年前
俺の名は ジューダ・イスタマ。
父は真の戦士だった――嵐に晒されようとも、決して膝を折らない男だった。
だが、一九九八年の大きな騒乱の後、俺たちの生活は一変した。
父はやがて暗黒の道へと足を踏み入れた。裏切りと陰謀に満ちた世界。影に潜む黒き組織が支配する、血と暴力の世界へ。
その名を俺は決して忘れない。
――ダササカ。
どこからともなく現れ、音もなく根を張り、法さえ届かぬ領域を侵食した集団。ひとたびその内に入れば、もはや安寧の人生など戻らない。
母のことは知らない。
父は言った。母は俺が幼い頃に事故で死んだと。その記憶に触れるたび、父の目には涙がにじんだ。
俺は父に育てられた。
傷だらけの手で、警戒に満ちた瞳で。路地裏で学んだのは、生き延びる術、戦う術、そして何者にも奪わせない強さだった。
だが、この世界は俺たちの味方ではなかった。
父は生涯をダササカに捧げたが、その忠誠の果てに命を落とした。警護の任務で――そして帰らぬ人となった。
家に戻ったとき、父はすでに冷たい屍となっていた。
唯一の家族を、俺は失った。
葬儀には数人しか来なかった。
彼の「仲間」だと名乗る男たちは立派な装いで、悲しげな表情を浮かべた。だが俺には分かった――その眼差しの奥にある無関心を。心から父を悼む者など、ごくわずかだった。
十二歳の俺は、墓穴の前で立ち尽くしていた。声も出ず、涙も出ず、ただ空虚に。
その日から、俺は群れを失った子狼のように、この冷酷な世界で独りとなった。
時折、未完成の廃ビルに登り、最上階から地面を見下ろした。
飛び降りれば、この苦しみは終わる――そう思った夜もあった。だがなぜか、足はいつもすくみ、決して踏み出せなかった。
その時だった。――彼が現れた。
静かな瞳を持つ男。
黒髪にわずかに混じる白髪。粗末な外套をまとい、どこから来たのかも分からない。だが、その顔には不思議な懐かしさがあった。
「――共に来い。」
低く穏やかな声が響いた。
「そこには、お前と同じ運命を背負った兄弟たちが待っている。」
路地で生きてきた俺は知っている。無償の言葉など存在しない。
だが、この男は違った。約束も脅しもない。ただ、俺が選ぶことを分かっているかのように立っていた。
なぜだろう…その存在が俺に安らぎを与えた。
彼の名は パンドゥ。
遠い血の縁を持つ者だと名乗った。旅の途中、彼は語った――喪失、孤独、そして黒き組織が生む無数の孤児たちのことを。
数日歩き続けた先、山々に抱かれた秘められし谷に辿り着いた。
澄んだ空気、広がる大地。初めて心が静まり返った瞬間だった。
パンドゥは地に座し、目を閉じた。
やがて立ち上がり、掌を広げ、大地へと押し当てる。
大地が震え――石の門が隆起する。黄金の光に包まれた巨大な門。
さらに、その背後に次々と門が現れる。ひとつ、またひとつ――やがて七つの門が並び立った。
その向こうには、知らぬ世界が広がっていた。
「これこそが――七重の秘なる結界。」
パンドゥの声は光に反響した。
「お前の知る世界と、真なる故郷を隔てる壁だ。その向こうに――お前の兄弟たちが待っている。」




