最初の標的
オイビソノはゆっくりと目を開けた。
視線の先には、静かに立つジョナサンの姿があった。
その顔を見た瞬間、胸の奥で何かが震える。
忘れていたはずの記憶が、今にも押し寄せてくるかのように。
ジョナサンは薄く微笑み、何かを企んでいるような瞳でこちらを見ていた。
――この顔…。
心の中でオイビソノは呟く。
――あの時の…アレックス!
***
【衝撃の悲劇 チレブット、ボゴール 2001年5月16日】
「ボゴール県チレブット地区の住宅で、ある夫婦が無惨な姿で発見されました。遺体のそばには、犯罪組織の一員と見られる二人の武装した男も倒れており、治安悪化を象徴する悲劇的な事件となっています。
1998年の暴動以降、国内各地で犯罪組織の活動が拡大する中、この事件はその深刻さを改めて浮き彫りにしました。
現時点で警察は事件の正確な経緯や動機を明らかにできておらず、倒れていた二人の武装犯の身元についても調査を続けています。さらに、犠牲者夫婦の子どもである アビマニュ 君が行方不明となっており、その所在は依然として不明のままです。
当局は捜索に全力を挙げていますが、報道時間現在、捜査に大きな進展はありません。
この悲劇は、1998年の経済危機と社会不安の傷がいまだに癒えていない現実を思い起こさせるものです。深い悲しみと不安の中、地域社会は真相解明と正義の実現を切実に待ち望んでいます。」
* * *
錆びついた古い鉄橋の下。
一人の少年が膝を抱え、体を小さく丸めていた。
服は泥と雨に濡れ、裂け目からは冷たい空気が忍び込む。
彼の名はアビマニュ。
声はもう失われていた。
笑い声も、叫びも、あの夜の恐怖にすべて奪われ、喉の奥からは何も響かない。
ただ、冷たい風と孤独だけが残っていた。
腹の痛みも空腹も、今はどうでもよかった。
すべてが終わった。家族も、声も、色彩も。
その沈黙を破ったのは、突然の声だった。
「おい! こんなところで何してんだ?」
顔を上げると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
少し年上に見える。
大きすぎるボロのジャケットを羽織り、髪は乱れ、頬にはいくつもの小さな傷跡。
だが何よりも印象的だったのは、その目――暗く鋭いのに、不思議と生き生きとした光を放っていた。
「家、ないのか?」
少年は首をかしげ、不思議そうに尋ねる。
「それとも……家出でもしてきた?」
アビマニュは何も答えず、ただ彼を見つめる。
口を開こうとしても、声は出ない。
「なんだよ、無視か?」
少年は地面の土を枝で突きながら呟く。
「まさか、お前……喋れないのか?」
アビマニュは小さく俯き、ゆっくりとうなずいた。
「本当に?」
少年の瞳が驚きに見開かれる。だがすぐに笑顔が広がる。
「へえ、すげぇじゃん! 俺、喋れないやつに会うのは初めてだ。オレの名前はアレックス。よろしくな!」
声を出せないアビマニュは、ただ黙ってその笑顔を見返す。
だが胸の奥に、ほんの少しだけ温かさが差し込むのを感じていた。
雨が上がったばかりのボゴールには、湿った土の匂いが漂っていた。道に残った水たまりは街灯のかすかな光を映し、風が吹くたびに小さく揺れた。アビマニュは行くあてもなく歩き、静けさが影のように彼にまとわりついていた。橋の下で出会ったのは、まだ笑うことのできる少年、アレックスだった。その笑顔は無邪気というより、苦しみを飲み込んできた者の笑みだった。けれど、その笑みに、アビマニュは「一人ではない」という温もりを感じた。
アレックスは石ころを蹴りながら語った。捨ててきた孤児院のこと、大人たちの裏切りのこと、寒い夜を生き延びてきたこと。その声は軽やかで、まるで過去の痛みを遊びのように話しているかのようだった。しかし、その目がひときわ輝く瞬間があった。妹、アンジェルのことを口にしたときだ。その名を呼ぶ声には、世界の荒波の中で唯一守りたいものがあるという優しさが滲んでいた。
古びた荷車が、彼らの小さな家だった。ぼろ布の幕をめくると、アンジェルが顔を出した。汚れた町の中で不思議と澄んだ瞳を持ち、微笑みは静かに温かかった。その瞬間、アビマニュは受け入れられたと感じた。言葉は要らなかった。ただ濡れた地面に名前を書いただけで、そこに彼の居場所が生まれた。
アンジェルは無邪気に「アビお兄ちゃん」と呼んだ。その声は自然で、まるでずっと前からそうだったかのようだった。アレックスは笑いながら彼の肩を軽く叩き、からかうように言った。それは血の繋がりではない。だが、それ以上の絆だった。三人の子供たちが、失ったものを胸に抱えながら、寄り添って座る。その光景は、荒々しい世界が一瞬だけ優しさを許したかのようだった。
アビマニュは荷車の中で、アンジェルの穏やかな寝息を聞きながら思った。家とは、壁や屋根のことではない。孤独に抗おうとする心のことだ。冷たい夜のボゴールで、彼の胸に小さな光が宿った。その光は儚く弱いけれど、「もう一人ではない」と信じるには十分だった。
* * *
部屋はほの暗く、重い空気に包まれていた。壁際には無言のまま佇む彫像が並び、正面には黒き虎の絵が掛けられている。その眼差しは、まるでこの部屋を訪れる者の心を見透かしているかのようだった。
ジョナサン・ワンは、大きな机の向こうに腰を下ろしていた。磨き込まれた木の表面は、彼が積み上げてきた権威と冷徹さを静かに映し出している。その姿は、誰にも逆らえぬ支配者のように動かない。
机を挟んで座るのは、オイビマニュだった。漆黒のレザージャケットに包まれた体は、鋼のように引き締まり、影の中で一層その存在を際立たせていた。無言のまま、彼の視線はジョナサンから逸れることなく、鋭い刃のように突き刺さっていた。
「なあ、我が兄弟よ――。
七人の不死者、七柱のバタラの伝説を聞いたことがあるか?
もし俺と共に歩むのなら、新たな異名が必要になるだろう……。
バタラカラ――死を拒む戦の神。
どうだ、我が兄弟よ?」
オイビソノはしばしジョナサンを見つめ、
その視線は深い沈黙の中で鋭さを帯びていた。
――バタラの伝説。
まさか、ジョナサンのような男がその名を知っていようとは。
だが、彼は口を開くことなく、ただ静かに闇を纏っていた。
「その眼差しは何を意味する?
兄弟よ……その沈黙と視線は、私にさえ恐ろしさを与える。」
ジョナサンは低く呟き、言葉を続けた。
「その異名――それは偉大なる称号だ。
おまえの偉大なる運命は、我を高みへと導く。
ゆえに、この名を授けよう。」
――バタラカラ。
ジョナサンの声には確信が宿り、
その響きは運命を刻み込むかのようであった。
ジョナサンは、机の上に一枚の写真と一台の古びた携帯電話を置いた。その携帯は時代に取り残されたような無骨さを持ち、通話と短いメッセージ以外、何もできない。しかし、その制限こそが、オイビマニュとジョナサンを繋ぐ唯一の線だった。
「これが最初の標的だ……。きれいに片をつけろ。」
低く落とされた言葉は、命令というより、冷たい契約のように響いた。
オイビソノはしばし黙り込み、やがてゆっくりと頷いた。その瞳には迷いも怒りもなかった。ただ、決して揺らがぬ影の決意だけが静かに宿っていた。