秘境
二ヶ月前――
神林評議会の一員にして、黒虎の最高層に連なる者・黄徳生は、不安に苛まれていた。
新たに権力の環へと踏み込もうとする存在が現れ、自らの立場が脅かされると感じていたのである。
その猜疑と恐怖こそが、彼を名もなき山へと導いた。
人の足が滅多に踏み入れぬ霧深き山道を、十人の近衛を連れ、日を重ねながら登り詰めていく。
険しい断崖、果てなき靄、終わりなき道を越え――。
ついに、天と地より隔絶されたかのような静寂の頂に、忘れられし寺院が姿を現した。
頂の薄き空気を切り裂くように、圧し掛かる沈黙が辺りを支配する。
最後の石段、その足元には、一人の僧が座していた。
その顔は死人の如く蒼白、表情の影なく、虚ろなる瞳は空を映すばかり。
僧の左右には二体の巨像が佇む――恐ろしき夜叉の姿をした異形の護り手。
それぞれ五つの首を持ち、十の腕を広げ、あらゆる方角を睨み据える。
右の像はその手に長槍を握り、石に刻まれた穂先はなお微かに光を宿す。
左の像は巨大なる剣を掲げ、冷えきった山頂の空気を断ち割るかの如く聳え立っていた。
その時、沈黙を裂き、大地そのものが呻くかのような声が僧の喉奥から響き渡った。
「繁華の都に甘んじし者よ……
何ゆえ、かくも高き山を踏み越え、この境界に至ったのか?」
黄徳生一行は歩みを止めた。空気は張りつめ、重く濁る。
黄徳生は荒い呼吸を整え、疲労に覆われた身を直立させる。
だがその声は揺らぐことなく、威厳と確信を帯びて響いた。
「――この寺の奥には、隠されし門がある。
その先に在るは“神血”。
現世より隠されし秘奥の伽藍。冷血の刺客を育む秘められし地。」
彼は視線を逸らさず、僧を鋭く見据えた。
「かつて、そこから出た者がいた。
その者は我らの一人に仕えし護衛であった。
そやつより、我はこの地の存在を知ったのだ。」
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その朝、ハリマウ・ヒットゥム(黒虎)本部の会議室には張り詰めた緊張が漂っていた。ジョナサンの“事故”の噂と、領域への不可解な襲撃が重なり、マイケル・ワンは怒りに燃えていた。彼は残る八人の神林評議会の面々を招集した。長い会議テーブルのまわりに年老いた顔ぶれが集まり、疲労と憂慮がその表情に刻まれている。
マイケルは前置きもなく会議を切り出した。声は燃えるように轟いた。
「我々の仲間が三人も犠牲になった。もう黙っているわけにはいかない。ジョナサンへの疑いは消えた。敵は内側ではない――外部の仕業だ。議論の余地はない。」
だが、マイケルの胸の奥は知らない。息子の事故が、実は評議会の一人による仕掛けの一部であることを。
「責任を負う可能性が最も高い存在が一つだけある」と彼は続け、部屋中を鋭く見回した。「ダササカへ厳重に警告を発する。もしまた我々に何か起これば――それは彼らが戦いを望んでいるという宣言に等しい!」
「待ってください、議長」フェリックス・ウォンが口を開けた。声は落ち着いているが強い。
「もし別の勢力が絡んでいるとしたら?」
「誰だ?」マイケルが問い返す。額に皺が寄る。
フェリックスは息を整え、言葉を選んだ。「ナニア・タン――スリヤディ・タンの娘で、アリンビ社(Arimbi Corp.)の当主です。彼女が関与している可能性はあります。」
マイケルは短く頷き、確率を計算するように目を細めた。「どのくらいの確率だ?」
フェリックスはためらいながら答えた。「もし閣下の息子を容疑者から外すなら……アリンビの関与はおよそ三十五パーセントと見ています。」
部屋の空気が一瞬凍りついた。マイケルの視線が鋭く光る。
「可能性の本命はやはりダササカだ」とフェリックスは付け加える。「しかし今、我々がダササカに誤った手を打てば、より大きな騒乱を招く恐れがある。それがリスクだ。」
マイケルは間を置いてから、情報工作部門の長、チャン・リーレン(チアン・リレン)に視線を向けた。期待と圧力が混ざった眼差しだ。
「チアン、スリヤディ・タンの娘の動向を徹底的に監視しろ。もし一片の証拠でも出てきたら――私は彼女の持つものすべてを潰す。」
「承知しました、議長。」チアンは淡々と応えた。
マイケルは再び全員を見渡し、声を低く締めくくった。
「警備を強化しろ。守りを固めよ。今回の相手は尋常ではないかもしれぬ。生き延びることを最優先にするのだ。必要なら国外へ一時退避し、動きを公から隠せ。共にこの嵐を乗り切る。」
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黄徳勝の屋敷は、小高い丘の頂にそびえ立ち、高い塀と鉄の門に囲まれていた――脆く崩れやすい世界を守るための砦のように。
その夜は、いつも以上に張り詰めた空気が漂っていた。警備兵は増員され、巡回は途切れることなく続き、監視カメラは至る所で点灯し、警備システムは完全警戒態勢にあった。
その中に、一人の新しい護衛の姿があった。異界から来たと噂される暗殺者――“神の血”を宿す者――数日前、ジョナサン・ワンを狩る追跡劇に加わった男である。
二階では、黄が静かな私室にいた。大きな黒いトランクに最後の書類を丁寧に収めていく。パスポート、ビザ、家族と共に中国へ渡るための航空券。
その日、急ぎの商談や処理はすべて片付けてあった。黒虎の二人の上級将が相次いで殺された以上、直感が告げていた――次は自分だ、と。
彼は大きな窓越しに外を見た。霧雨が世界を濡らし、硝子に映る自分の影が滲んで揺らめいていた。その時、不意に――。
屋敷の明かりがすべて落ちた。
カチリ。
非常灯が自動で点き、廊下と部屋を照らす。しかし監視モニターには漆黒だけが映っていた。全てのカメラが同時に沈黙する。技術的な不具合などあり得ない。
黄は机の引き出しから自動拳銃を取り出した。
「狩人か……奴が来たのか。……ジョナサンが裏で糸を引いている?奴は死んだはずでは……?」と低く呟いた。
すぐに下の階から兵士たちが駆け込んでくる。
「黄様!システムがすべてダウンしました!カメラは映りません!」
黄は手を上げて制止した。
「警戒を崩すな。……必ず来る。」
その時、屋敷の外。
一つの影が滑り込んだ。迅速に、淀みなく――意思を帯びた霧のように。銃声が咲き乱れ、火花が夜を裂く。しかし影は舞うように弾丸をかわし、実体を掴ませない。
一人の兵が跳び出し、長剣を振り下ろした。影を強引に顕現させようとするかのように。
金属がぶつかり合い、火花が散った。
ガァンッ!
影は片腕でその刃を受け止めていた。黒い手袋に覆われたその手。仮面の下から覗くのは、二つの眼光だけだった。
兵は後方へと跳び退き、アクロバティックに体勢を整えると、フードを脱ぎ捨て、嘲るように笑った。
「こいつが……“死神の天使”か!シンケツから逃亡した二人の法守――ジョジョとゴゴを倒したという……!」
その顔には、左の眉から右の頬へと走る深い傷跡が刻まれていた。その傷が、彼自身の伝説をさらに強調していた。
「だが残念だったな――俺は奴ら二人より強い。俺の名は……サンダカラ。今夜、お前の命を刈り取る!」
彼はそう叫び、誇りと確信に満ちた声で挑みかかった




