哀悼の祭壇
その日のジャカルタの空は低く垂れ込め、鉛色に沈んでいた。
雲は重く垂れ下がり、まるで街全体を覆い尽くす帳のよう。
ポンドック・インダの豪奢な弔問館には、哀しみと陰謀の影が漂っていた。
玄関前には白菊や胡蝶蘭、百合が山のように積まれ、黒い布に包まれた弔意の札が並んでいる。そこには政財界の大物の名もあれば、裏社会の顔役の名も混じっていた。
館の奥、祭壇が朱に燃える。
その中央に置かれたのは、漆黒に金をあしらった棺――龍と鳳凰の彫刻が施され、不滅と威光を象徴している。
左右には二本の巨大な赤い蝋燭が立ち、炎は揺れ、息絶えぬ命の残り火のように震えていた。
遺影は白黒。鋭い眼光と強靭な面差しが、訪れる者すべてを睨み返す。
「誰が我を葬ったのか」と問いただすかのように。
棺の前に立つのは、長子・リコ・ウェイ。
白衣に白い頭巾を纏い、蒼ざめた顔で香を受け取る。瞼は腫れ、しかし眼差しは遺影に釘付けで離れなかった。
親族も白の喪服を着け、来客は黒か灰色の衣を纏い、白封筒を供え、香を捧げ、三度ひざまずいて頭を垂れる。
道教の道士と仏教の僧侶が読経を続け、低く響く太鼓が一定の間隔で鳴り渡る。
外には張偉の名が書かれた白灯籠が吊るされ、魂を導く灯となって揺れていた。
だが荘厳の影には、裏社会の緊張が蠢いていた。
黒虎の幹部たちが並び、中央にはマイケル・ワンが腰を据える。彼の眼光は静かに、しかし猛虎のように鋭く、周囲を見透かす。
その傍らで将軍ランディ・ジャオが囁いた。
「一人、また一人と狙われている……。これで二つ目の葬儀だ。次は誰だ?」
さらに黄徳勝が口を開いた。
「敵は古き仇か、それとも……内部の牙か?」
マイケルは黙したまま。
だが空気は張り詰め、やがて震風が声を絞り出す。
「…閣下、噂されております。ご子息のことを――」
その名を告げる前に、場は凍り付いた。
誰もが伏し目となり、声を失う。
だが、答えは外から響いた。
――轟音。
黒いスポーツカーのエンジンが唸り、やがて大扉が開かれた。
ジョナサン・ワンが現れた。
護衛も随伴もなく、ただ一人。冷ややかな影を引き連れて。
人々は道を開けた。
それは敬意ではなく、驚愕と畏怖ゆえであった。
リコ・ウェイが顔を上げ、血走った眼で睨む。
「何をしに来た……?」
ジョナサンは答えず、香を手に取り、棺の前で三度礼をする。
「最後の敬意を示しに来ただけだ。」
声は静かで、冷たく、波紋を広げる。
ざわめきが広がる。
親族の一人がすすり泣きながら呟く。
「噂されている張本人が……来ただなんて。」
リコは怒りを抑えきれず、前に進み出る。
「父の棺の前で偽りの涙を流すな。皆、知っている。お前が敵対していたことを。…そして、父の死にお前が関わったと!」
沈黙が爆ぜる。
幹部らが身を乗り出す。
ジョナサンはただ冷ややかに返す。
「戯言に答える必要はない。……私ではない。」
「だが、お前には理由があった! そして狂った手下も!」
その瞬間、重い声が場を裂いた。
「よせ!」
将軍アンダ・プルタマが立ち上がり、雷鳴のように叫ぶ。
「ここは葬儀の場だ! 争う所ではない!」
リコは唇を噛み、俯いて最後の拝礼をする。
ジョナサンは一瞥を投げ、踵を返した。
だが階上から声が飛ぶ。
「霊は安らがぬ! 真の仇を告げるだろう!」
張偉の娘の嗄れ声、泣き叫ぶような呪詛。
ジョナサンの足は一瞬止まる。
だが振り返らず、そのまま歩み去った。
残された者たちの胸には、一つの問いが焼き付いていた。
「張偉を葬ったのは誰なのか――?」
⸻
僧侶たちの読経が静かに響く中、マイケル・ワンはゆっくりと祭壇を離れた。線香と花の匂いが胸を締めつける。しかし彼の歩みを重くしているのは香煙ではなく、長く押し殺してきた怒りだった。
彼は足を止め、一人の男の前に立った。整った制服、鋭い顔つき、肩には二つ星。アンダカ・プルタマ将軍。長年の関係者、影から均衡を守ってきた盟友だった。
「将軍殿」マイケルの声は低く、圧を帯びていた。
「こちらへ来ていただきたい。」
アンダカは黙って立ち上がり、マイケルの後に続いた。二人は弔問客の群れを抜け、会場の片隅へ向かう。そこには 大きな木 の下に二脚の椅子が並んでいた。祭壇や参列者はまだ視界に入るが、読経の声は遠くに霞んでいた。
二人は腰を下ろした。マイケルは背を預け、ゆっくりと横を向く。その眼差しは刃のように鋭く、相手を切り裂くかのようだった。
「これで二人目だ。高位の評議員が。将軍、意味はわかるか? これはただの喪失ではない。我らの民に対する最大の侮辱だ……黒虎が立ち上がって以来の。」
マイケルの声は低かったが、圧倒的な重みを持っていた。
「それを、お前は黙って見ていた。」
アンダカ将軍は深く息を吐き、表情を崩さずに少し視線を落とした。
「もちろん理解しております、マイケル殿。あなたが私に失望するのも無理はない。だが知っていただきたい。私の上に立つ者たちにも、それぞれの利害があるのです。もしかすれば……彼らはすでに、あなたの敵と繋がっているのかもしれません。」
マイケルの顎が固く引き締まる。指先が椅子の肘掛を叩き、そして再び声を放つ。
「私はこれまで、すべてが順調に進んでいると思っていた。だが……どうやら見誤ったようだ。」
彼はわずかに身を乗り出し、声を低くして吐き捨てるように言った。
「お前の周りの者たちに聞け——いくら欲しいのか、と。私はもう十分に譲歩してきた。だが、私の忍耐にも限界がある。」
その瞳は鋭く突き刺さり、声は毒を含んでいた。
「お前たち土着の者は……我らに安らぎを与えることはできないのか? この地を豊かにしたのは我らだ。経済を築き、市場を回し、世界をここに育てた。我らはその果実を味わう資格すらないのか?」
マイケルの言葉は冷たく、皮肉に満ちて宙に漂った。
アンダカは沈黙を守った。風が吹き抜け、大きな木 の影が二人を覆ったが、その空気は触れられるほど濃い緊張で満ちていた。
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葬儀場から遠くない場所に、二台の黒塗りの車が古びた中国建築様式の建物の前に停まった。
龍の彫刻が施された木の扉が静かに開き、薄暗い長い廊下が姿を現す。わずかな線香の香りが漂い、赤く塗られた木の柱には時の埃がまとわりつき、古びて色あせていた。
主室の北側の壁一面には、巨大な黒虎の絵が掛かっている。その筆致は荒々しく、まるで虎の眼が、見つめる者を逃さないかのようであった。
その下には精巧な彫刻の施された二脚の椅子が並べられ、そこに二人の老齢の男が腰を下ろしていた。
一方、部屋の隅には植民地時代から残るヨーロッパ製の古時計が立っていた。その鐘の音は重く、遅々とした時を刻む。しかしその針は、ただ時を測るのではなく、一つの時代の終焉を数えているかのようであった。
彼らは黄徳勝と趙雲岐、黒虎会の最高評議会「神麟の十龍」に名を連ねる十人のうちの二人。かつて尊敬を集めた「龍」であったが、今は過去に縛られた老いた獅子のような存在に見えた。
黄が口を開いた。声は重く、掠れ、その顔に刻まれた皺が不安の深さを物語っていた。
「十人の評議のうち、あの子に最も反対したのは我ら四人。そして今…そのうち二人はすでに死んだ。」
彼はユンチーを見据え、瞳は暗くも鋭い。
「残るは我ら二人だ。…奴が犯人だと、信じるか?」
ユンチーは腕を組み、長い息を吐いた。目を細め、その視線は壁を突き抜けるかのように深く沈んでいた。
「確かだ。」彼は低く答えた。「あの子は…まるで魔物だ。血で手を染めることをためらわぬ。恐ろしいのは、それを静かに、まるで何もしていないかのようにやってのけることだ。」
再び沈黙が降りた。古時計の音だけが、迫る終わりを告げるように空気を貫いた。
「お前はどう思う?」ユンチーが再び口を開く。声は低く囁くようだった。
「もしかして総帥は、これを黙認しているのではないか? 我らがあの子の構想を阻む存在だと考え、未来の足枷だと思っているのでは?」
黄は苦く笑った。
「私は誰よりも長く奴を知っている。黒虎会が立ち上がる前から、私はそばにいた。奴は厳しく、冷酷だ。だが、先祖の遺産を手放すことはなかった。そんな考え…奴の心に浮かぶはずがない。」
再び静寂。部屋の隅で燻る線香が白い煙をゆっくりと立ちのぼらせ、声なき祈りのように空気を満たす。
黄は顔を向け、低い声で問う。
「お前は諦めるか? 先祖の価値を守ることを、命を賭してもなお、捨てるのか?」
ユンチーは窓の外を見た。ジャカルタの青空は晴れているはずなのに、嵐のただ中にいるように感じられた。
「否。」彼は囁くように、しかし確かに答えた。「それが運命ならば、私は闘い続ける。先祖の価値なくして…我らは無に等しい。」
黄は頷いた。
「気づいているな? あの二人の死に様は…人の業ではない。」
「そうだ。」ユンチーは冷たく応じた。「奴はずっと前から準備していたのだ。あの闘技場はただの商売の場ではない。奴は執行人を探していた。計画を寸分違わず遂行できる者を。」
「奴は聡明だ。」黄は悔しげに囁いた。「だが、我らの文化の真の意味を理解していない。それを支えではなく、重荷としか見ていないのだ。」
その時、古時計の鐘が再び鳴った。先ほどよりも強く、鋭く。まるで時が迫ることを告げるかのように。
黄は深い溜息を吐いた。
「次は私か、お前か…どちらが先か分からん。我らは共に老い、苦難を越え、この世界を手にしても…安息の時などなかった。だが、終わりが訪れる前に——」
彼は言葉を切り、ユンチーを見据えた。
「——私はすでに一つの策を用意してある。」
その部屋では、時の流れが遅く感じられた。歴史の影に押し潰されながらも、二人の老人は黙して座り続ける。そして胸の奥に、ただ一つの問いが沈んでいた。
「我らに残された時は、あとどれほどか?」




