首領の怒り
二十年以上もの間、マイケル・ワンは自らの帝国を築き上げてきた。
それは翡翠の塔のごとく――堅牢で、滑らかで、容易に触れることすら許さぬもの。
だが、
ここ三日間――
「黒虎」創設以来、最大の嵐が到来していた。
敵はあらゆる方面から同時に牙を剥き、周到に、そして鋭利に突き刺してくる。
ひとりの重鎮が倒れたその時から、盤石に見えた権力の塔にはひびが走り始めた。
いくつもの領域が突如として揺さぶられる。
長年守られてきた縄張りを、次々と覆い尽くす奇妙な「民衆」の影。
それは抗議運動の仮面を被りながら、暴力と破壊を伴う計画的な侵攻であった。
今回の敵は、かつて相対してきたライバル組織でも、裏切った官憲でもない。
もっと恐ろしく――もっと不気味な何かを背後に隠している。
王・マイケル・ワンは今や二重の苦境に直面していた。
背後の黒幕を暴き出すだけでは足りない。
再び押し寄せるであろう「群衆」という怪物に備えなければならないのだ。
組織犯罪を否定する旗を振り、
路地裏から立ち現れる濃霧のように、奴らは現れる。
叫び、煽り、そして破壊を撒き散らす。
わずか数日のうちに――
七つの戦略拠点が陥落した。
ただ壊されたのではない。
根こそぎ飲み込まれたのだ。
出自も正体も知れぬ影の群れに。
七つのセクター――忠実なキャプテンたちが治めていた領域――が、
血の戦争もなく、崩れ落ちたのだ。
敗北したのではない。
彼らは「消えた」。大地に呑まれたかのように、跡形もなく。
そして今日、再びニュースが炸裂する。
セクター78。
また一つ、同じ手口で崩壊した。
群衆の突入、建物の破壊、そして指揮官の失踪。
冷えた闇の執務室で、マイケル・ワンは窓を背に立っていた。
街の夜景を映すガラスの向こう、壁一面のスクリーンに映るニュースを睨みつける。
アナウンサーの落ち着いた声は、彼の胸中の緊張とは釣り合わなかった。
「セクター78で再び暴動が発生。
住民の一部が、犯罪組織の隠れ拠点とされる建物を襲撃しました。
警察は未だ明確な動機を発表していません――」
「明確な動機だと?」
マイケルは嗤うように吐き捨てる。
これはただの民衆ではない。
緻密に設計され、仕組まれた攻撃だ。
そして、彼の眠りを奪う最大の理由は――沈黙。
沈黙する治安部隊。
これまで鉄壁の防波堤であった警察上層部、将軍たちが、誰一人として動かぬ。
掃討はない。
捜査もない。
庇護すらない。
ただの――沈黙。
マイケルは低く唸り、荒々しく机に歩み寄る。
衛星電話を掴み、番号を押す。
あの大将の番号を。
一度…
二度…
三度…
応答はない。
三日間、その将軍は雲隠れしていた。
マイケルの拳が震える。
抑えきれぬ怒りが体を突き破る。
この世界で沈黙とは、最高の裏切りに他ならぬ。
そして今、その沈黙は彼の忍耐を焼き尽くしていた。
「畜生がッ!」
机を叩きつけ、ペンが宙を舞う。
「……何を企んでいる……?」
低く吐き出すその声は、まるで幽霊への問いかけのようだった。
だが次の瞬間、爆ぜるように吠える。
「我らに何を仕掛けている――この土着どもがァ!!」
その叫びは、胸奥に閉じ込められていた暗黒の呪詛が解き放たれたかのようだった。
外の世界は静かに、だが確実に姿を変えていた。
反逆者たちの足音が、彼の支配領域を一つひとつ侵食していく。
権勢の影は縮まり、逃げ場は消えていく。
そしてマイケル・ワン――黒虎の帝王は悟り始めていた。
彼はもはや「狩人」ではない。
今や「狩られる獲物」となり果てていたのだ。
____
カリマス橋。
鋼鉄のアーチの上に、漆黒の外套を纏う影がただひとり腰を下ろしていた。
夜風がその外套をはためかせ、黒き翼のごとく不気味に揺れる。
街灯の光と闇に覆われ、顔は決してはっきりとは見えぬ。
ただ、白骸の仮面の奥から、二つの瞳が燐のように淡く燃え、下界を射抜いていた。
その手に握られているのは、一枚の湿りきった写真。
皺だらけのその紙片には、張りつけたような笑みを浮かべる中年の男の顔が写っていた――
沈林評議の一角、張偉。
耳の奥には、数刻前の声がまだ残響していた。
「次の標的は奴だ。
土着を見下し、虐げてきたあの腐った老人。
ああいう人間は……生きるに値せぬ。」
冷徹な判決のようなその声――ジョナサン・ワン。
その命に従い、闇の処刑者・バタラカラは今、獲物を待つ。
獲物はやがて通る。
橋の下を。
そして――それは来た。
黒塗りの車列三台。
中央の一台はひときわ大きく、厚き鋼で覆われ、守られている。
その奥に、獲物は座す。己が命運など露ほども知らずに。
ドォンッ――!
突如として、鉄を砕く隕石のごとき衝撃音。
重装の車体が軋み、フロントガラスが蜘蛛の巣のように砕け散る。
運転手の悲鳴が闇夜に響く。
「屋根だ! 屋根に何かが――!」
銃声が轟いた。
タタタタタッ!
銃口が閃き、火花が舞い、鉛の雨が降り注ぐ。
だが――落ちぬ。倒れぬ。沈まぬ。
屋根の上から、ただ無音の気配が這い寄るのみ。
慌てふためいた護衛たちは車外へ飛び出し、銃を構え周囲を探る。
しかし――奴はそこにいた。
沈黙を引き裂くように、ゆっくりと立ち上がる影。
弾痕に穿たれた外套、穴だらけの肉体。
それでも直立し、屹立する黒き死神。
処刑者――バタラカラ。
護衛たちの喉は凍りつき、一瞬だけ世界が止まった。
次の刹那、再び火線が走る。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
だが、奴は歩む。
一歩、また一歩。
鉛を浴びながらも倒れぬ。
まるで「死」そのものが彼を拒んでいるかのように。
「な、何者だ貴様はァァァ!」
張偉の絶叫。
その声には、もはや長老の威厳は欠片もなかった。
ただ怯え切った小児のように、彼は走り出す。
護衛が次々と地に沈む。
骨の砕ける音、肉の裂ける音、断末魔が混ざり合い、車道は地獄と化した。
張偉は震える手で拳銃を抜き、乱射する。
五発、六発――確かに肉を穿つ。
それでも、奴は歩を止めぬ。
「くそぉぉぉ!」
弾が尽き、彼は銃を投げ捨てた。
必死に電話を掴み、助けを呼ぼうとする。
だが指は痙攣し、声は詰まり、言葉は出ぬ。
背後から――迫る足音。
コツ… コツ… コツ…
闇に刻まれるその律動は、死の宣告そのものだった。
やがて――道の端に追い詰められる張偉。
前は深き闇の谷。後ろには死そのもの。
「誰に命じられたァァ! ジョナサンか!? あの私生児かァァァ!」
叫びは悲鳴に変わり、嗚咽に変わる。
バタラカラは答えぬ。
ただ見据えるのみ。
刃より鋭き眼光。沈黙の裁き。
張偉の膝が砕ける。喉から絶叫がほとばしる。
そして――
彼は自ら闇へと身を投じた。
ドシャアァァン――!
鈍い音が谷底から響き、全てを呑み込む。
処刑者はただ、欄干の前に立ち尽くす。
その瞳には光も情もなく。
ただ一つの言葉だけが、胸奥に刻まれていた。
「また一つ、世界の穢れが消えた。」




