第4章 クーデター
アビマニュの指先には、まだ稲妻の残光が踊っていた。
蒼と黄金の光が皮膚の上でかすかに揺らめき、やがて静かに消えていく。
彼は掌を見下ろした――先ほど放たれたプラナの余韻。
それは、人の限界を越えた己の姿を映す証のようであった。
その前方では、オイビソノがよろめき、ついに倒れ込む。
倒木にもたれかかりながら、左胸を押さえ、裂けた口端から鮮血をこぼす。
荒い呼吸の合間にも、その瞳にはなお揺るがぬ光――誇りの炎が宿っていた。
「……お前の勝ちだ。」
声はかすれ、しかし誠実だった。
「その力は……俺が手に入れられなかったもの。だから――歩め。お前の道を。目指すべきものへ…。」
アビマニュは歩み寄る。
勝者の傲慢はそこにはなく、ただ静かな敬意と揺るぎなき決意だけがあった。
「無論だ。」
低く響く声が空気を震わせる。
「これこそが俺の道。世界に刻んだ誓いだ。」
彼は一瞬、頭を垂れる。
それは言葉以上の敬意であった。
そして真っ直ぐにオイビソノを見据え、告げる。
「これより先――お前は世の目から消えよ。
家族を守れ。彼らを連れ、唯一の聖域へ行け。
血脈が初めて鍛えられし場所――蒼血の寺院へ。
そこにこそ、この腐り果てた世界が与えられぬ安寧がある。」
一週間が過ぎた。
アビマニュは右手を見つめていた――いま、その手は黒い手袋に覆われ、決して晒してはならない刺青を隠している。
その視線の先に広がるのは「生死の闘技場」。
鉄の輪に囲まれ、観客の咆哮に包まれた空間。
そこでは血が娯楽となり、命が賭けの数字にすぎない。
だが今宵、彼はもはやアビマニュではない。
――今、この場に立つのはオイビソノ。
白き髑髏の仮面を纏い、
東のバイソンとして観衆の前に現れたその姿――
誰も知らない。
ここに立つ男が、先週と同じ人物ではないことを。
だが真実など何の意味がある?
観客が求めるのはただ一つ――残酷な死闘。賭けの興奮。血の勝敗。
これは「オイビソノ」にとって二度目の試合。
しかし「アビマニュ」にとっては最初の戦い。
その胸にあるのはただ一つの誓い。
目の前に立つ者が誰であろうと――必ず打ち倒す。
⸻
司会者の声が闘技場全体に轟く。
「諸君!
今宵、“白き髑髏”に挑むのは、ただの男ではない!」
観客が沸き立ち、叫び、次なる名を待つ。
「終身刑の囚人――
幾十人もの囚人を屠り、さらには刑務官までも殺したと噂される男!
しかしその罪を裏付ける証拠は、ただの一片も存在しない!」
一瞬の静寂。
次いで、地響きのような声が響き渡る。
「奴こそが、“ヌサカンバンガンの悪鬼”と恐れられる存在――
スバリ!!!」
鉄の扉が開き、闇の奥から巨躯の影がゆっくりと姿を現す。
____
部屋の中。
ジョナサン・ワンは白い光に照らされていた。鋭い照明が暗いガラスの壁に反射し、その向こうからは観客の歓声が微かに響いてくる。まるで遠い世界の残響のように。
彼の正面には、神麟十人衆の一人、ゼンセンが静かに腰を下ろしていた。
その眼差しは鋭く、冷静な声音の奥に隠された探求心が垣間見える。
「……それで、例の品はすでに試されているのか?」
ゼンセンの声は重く、しかし抑制の効いた調子だった。
ジョナサンは椅子に深くもたれ、指先で机を軽く叩いた。
唇に浮かぶのは冷たい微笑。
「ええ、ゼンセン殿。もう国家の残した実験に頼ることはできません。
かつて彼らは“筋肉は鋼線、骨は鉄”という兵士を作ろうとした。しかし結果は……失敗でした。」
短く息を吐き、続ける。
「過程に耐えられず死ぬ者も多く、生き残った者も理想とは程遠い。無数の弱点を抱え、しかも莫大な費用がかかる。」
ゼンセンはゆっくりと頷き、昨日の戦いを思い出すように目を細めた。
「……インドラジット。確かに、あれが証明となった。三戦しか耐えられず、最後は白き髑髏に屠られた。」
その声音は囁きのように低く響いた。
ジョナサンの瞳が細められる。微笑は崩れず、しかしそこに宿るのは冷酷な光。
「だからこそ、気になるのだ……」
身をわずかに乗り出し、低く呟く。
「――あの稀血。ダルマスータ。
あの血ならば……我らの“薬”に耐えられるのか。」
ゼンセンの目がかすかに光を帯びる。
一方ジョナサンは闇に揺れるアリーナを見据え、その眼差しはもはや単なる遊戯以上のものを射抜いていた。
____
二人の拳闘士が、リングの中央で向かい合う。
互いを測り、睨み合う視線。
――カァーン!
ゴングが鳴った瞬間、二つの拳がぶつかり合う。
ドガァッ!
スバリの身体が揺れる。
指が砕けるような痛みが走り、思わず一歩退く。
オイビソノは静かだ。
ただ一撃で相手の力量を見抜き、心の中で冷ややかに評価していた。
だがスバリは、不敵に笑う。
ポケットから取り出した小瓶。
中には怪しく光る青い液体。
一気に飲み干すと、全身が震え、目が蒼く燃え上がった。
「……十分。」
心の中で呟く。
「十分のうちに、必ず叩き潰す!」
ドシュッ! ドガッ! ドガッ!
連打が空を裂き、右、左、右、さらに膝が迫る。
回転蹴り――ブォンッ! ドガァッ!
オイビソノの肩に炸裂!
しかし鉄の拳が支え、彼は踏み止まる。
すぐさま相手の足を掴み――グルルルッ! バシャァン!
スバリの身体を振り回し、鎖のフェンスへと叩きつけた。
観客は狂喜乱舞。
それでもスバリは立ち上がり、再び突進する。
まるで痛みを知らぬ獣。
リング上に轟く怒号。
観客の熱狂。
その上階、ガラス越しの特別室では、ジョナサン・ワンが目を細める。
「……いい……この感覚……“白き髑髏”……」
狂気を孕んだ囁き。
「やはり……求めていた者は、奴か。」
ドガッ!
蹴りが再び炸裂するが、鉄拳が防ぐ。
すかさずオイビソノは反撃に転じ、体をひねって――バキィッ!
回し蹴りがスバリの頭部を打ち抜く。
血が飛ぶ。だがその血は赤ではなかった。
青い光が混ざり、不気味に輝く。
「……」
スバリがゆらりと立ち上がる。
白目を剥き、意識は消え失せている。
しかし肉体だけが暴走を続ける。
ドガガガッ! ドゴォッ! バキィッ!
拳、蹴り、肘――嵐のような猛撃。
オイビソノの防御を突き破り、顎に肘が炸裂。
ガッ!
後退する。
そこへ――ドスゥン!
蹴りが頭を直撃。
オイビソノの身体が宙を舞い、床に叩きつけられる。
観客が沸き立つ。
だが、倒れたオイビソノの口元に、笑みが浮かぶ。
冷酷な、獲物を見極めた戦士の笑み。
「……」
ジョナサンは興奮を隠せず、ガラス越しに前のめりになる。
ゼン・センが横で呟く。
「……随分と熱が入っているな、ジョナサン。」
しかしジョナサンは答えない。視線はただ一点、リングの上へ。
オイビソノが立ち上がる。
拳を握ると――バチッ! バチチッ!
電流が迸り、青白い稲光が指先を這う。
スバリが吠え、再び突進。
その瞬間、鉄拳が閃き――
ドオオォォンッ!!!
雷鳴の如き轟音。
拳がスバリの胸を貫き、全身を焼き尽くす。
ジジジジッ! バチバチィィッ!
血が噴き出す。だがその血は紫に染まり、蒸気と焦げた肉の匂いを漂わせる。
巨体が震え、痙攣し――ドシャァッ!
リングに崩れ落ちた。
静寂。
次の瞬間――
「ウォオオオオオーーッ!!!」
観客の咆哮が爆発し、闘技場が揺れる。
実況の声が響く。
「勝者――“白き髑髏”オイビソノ!!!」
「あるいは……“東の野牛”!!!」
歓喜と狂気が入り混じる夜。
その中心に立つのは、鉄拳を纏う亡霊。




