望まぬ宿命
オイビソノは、部屋の壁に掛けられた曇った鏡の前に立っていた。
淡い傷跡が残る顔。その映像は、必要以上に多くの地獄を見てきた男のものだった。
鷹のような鋭い眼差しが、自らの影を追い詰めるように睨み返す。
探しているのは――失われた威厳か、それともかつての自分か。
部屋の隅、古びた木の机の上に仮面が置かれている。
沈黙のまま、ただ時を待つように。
彼を知る者なら誰もが言うだろう。
―― オイビソノはただの人間ではない、と。
かつて軍の諜報員として名を馳せた男。
歩けば羽毛のように軽やか。
だが次の瞬間には、獣のように鋭く、素早い。
一挙手一投足、その全てに隠された力が宿っていた。
人々が彼を恐れた理由。
異名――「鉄の拳」。
選ばれし者のみが知る秘術。
孤独な修練と追放の果てに刻まれた力。
その力こそが、彼を諜報機関の頂点へと押し上げた。
――だが今、その名は皮肉にも「死生の闘技場」で呼ばれる。
かつて祖国のために戦った男が、今は闇の輪に堕ちようとしているのだ。
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スカルノ・ハッタ国際空港、タンゲランの夜。
人の波がターミナルを出入りする中、その喧騒を切り裂くように、一人の男が確かな足取りで歩いていた――オイビソノ。
護衛もなく、ただ黒い鞄を片手に固く握りしめて。
雑踏の中からジョンが姿を現す。黒いスーツに身を包み、その存在感は際立っていた。
彼はすぐに歩み寄り、オイビソノの腕を軽く叩き、低い声で囁く。
「こちらへ。」
言葉少なに二人は歩き出す。外の駐車場には一台の車が待っていた。
運転席にはマックスが座っている。表情は穏やかだが、その目は油断なく周囲を警戒している。
ジョンは助手席へ。後部座席のドアが開かれ、オイビソノのために用意されていた。そこにはすでにアビマニュが座っている。
オイビソノが腰を下ろした瞬間、アビマニュはそれを感じ取った。
重く、濃く、圧し掛かるような気配――。
それは馴染みのあるもの。ダルマスータの気。目に見えぬ震動が、オイビソノの身体そのものから滲み出ていた。
オイビソノは言葉を交わさず、鞄を開けた。
中から数枚の書類を取り出し、ジョンへ差し出す。
ジョンは真剣に目を通し、その文面を読み上げるように心で確認する。そこには明確に記されていた――
「オイビソノの素顔は、決して誰にも知られてはならない」 と。
ジョンは眉をわずかに上げ、静かに問いかける。
「では……顔を隠すために、何を使うつもりだ?」
オイビソノは答えず、再び鞄の中に手を伸ばす。
取り出したのは一つの仮面。柔らかな素材で頭部全体を覆い、残されたのは二つの眼孔だけ。
闇のように黒い地に、白い髑髏の紋様が鮮烈に浮かび上がっている。
彼は迷いなく、それを顔に装着した。
瞬間、男の素顔は消え失せ――そこに残ったのは冷たく、幽鬼のごとき闘士の姿。
仮面越しに響く声は低く、揺るぎない決意を帯びていた。
「俺が戦うのは……これを身に着けた時だけだ。以後、二度と外すことはない。」
沈黙が車内を支配した。
アビマニュは目を逸らさずに見つめ、ジョンは薄く笑みを浮かべる。
薄暗い駐車場の灯りの下で――新たな仮面の闘士が、今まさに産声を上げた。
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アリーナは息苦しいほどの熱気に包まれていた。
汗とアルコール、半分燃えたタバコの匂いが入り混じり、重く沈殿している。
薄暗い照明が観客の顔を照らし出す。その目は血走り、欲望と暴力を求めてぎらついていた。
アビマニュはジョンとウィンと並んで座り、周囲を警戒する。
マックスは別行動で、ウィビソノの登録手続きを済ませに行っていた。
ジョンは身を乗り出し、低い声で囁く。
「見ろ、アビ…ここに集まってる奴らがどんな連中かわかるか?」
彼の視線が客席を舐める。そこには、犯罪者の顔、復讐に取り憑かれた顔、勝利に飢えた顔があった。
「こいつら全員、罪と欲でできている。」
アビマニュは無言のまま観察を続けた。
ジョンはさらに声を落とす。
「だがな…この地獄をまとめ上げたのは、まだ二十一の若造だ。」
アビマニュが眉をひそめる。
ジョンは乾いた笑みを浮かべ、呟いた。
「ジョナサン・ワン…奴は天才だ。噂じゃ、一千万に一人の頭脳。俺たちみたいな人間を、知らぬ間に盤上の駒にしてしまう。」
一瞬、二人の視線が交わる。
ジョンの瞳は焦燥に濁っていた。
「このアリーナはただの入り口に過ぎない。奴はここで強者を集め、血の娯楽を演出している。だがその裏には、もっと大きな計画が隠されてる。」
言葉が終わる前に、場内に轟音のような歓声が湧いた。
司会者がマイクを握り、試合開始を告げている。
床が震えるほどの叫び声。熱気は一気に臨界点に達した。
アビマニュの胸に、得体の知れない圧力がのしかかる。
ジョンは唾を飲み込み、視線を上げた。
バルコニー席。ガラス張りのVIPルームが、闇の中で不気味に光っている。
「クーデター…」
その一言に、アビマニュの表情が固まる。
ジョンは声を潜め、ほとんど聞き取れないほどの調子で続けた。
「もしジョナサン・ワンが今夜ここにいるなら…奴は必ずあそこにいる。」
そこは特権階級の檻。
入れるのは選ばれた少数だけ。
そして今夜、運命はあの部屋で決まろうとしていた。




