鼠の歳月
アビマニュは薄いゴザの上に胡坐をかいて座っていた。
背中には相変わらず古びた鞄がしっかりと掛けられ、まるで彼の身体の一部のようだった。
この部屋は狭く、人の数に対して余裕はなかったが、不思議と温かさが満ちており、まるで何かがこの空間を守っているかのようだった。
隅には小さなテレビが置かれ、弱々しい光を放ちながら、時折映像が揺れては消えそうになっていた。
彼の隣ではジョンが気楽そうに座り、その向かいでは優しい顔立ちの女性が赤ん坊を抱いている。
子どもたちが無邪気に走り回り、笑い声やおしゃべりが部屋を満たしていた。
ふいに、一人の小さな子がアビマニュの膝に飛び乗った。
五歳ほどの少年、髪は少し乱れていたが、その瞳は好奇心に満ちてキラキラと輝いていた。
「お、そいつはガブリエルだ」
ジョンは笑いながら、そばにいた小さな女の子を抱き上げる。
「長男で五歳。で、こっちはミカエラ、三歳。そしてあれだな…」
彼は眠っている赤ん坊を指差した。
「アーサー、三番目の子だ。まだ一歳にもなってない。そして彼を抱いてるのが――この世で一番美しい俺の妻、リナだ。」
リナは自分の名前が出たのを感じ取ったのか、ジョンをじろりと見て肘で小突く。
手話で問いかける。
「私がどうかしたの?」
ジョンはすぐに手を動かした。
「なんでもないさ。ただ、世界一の美人だって言っただけだよ。」
リナはわざとらしく怒ったような表情をしたが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
アビマニュは黙ってその様子を見つめた。
――なるほど。ジョンが手話を流暢に使える理由はここにあったのか。
リナは確かに美しい。中国系を思わせる顔立ちに加え、動きはしなやかで生き生きとしている。だが同時に、彼女は「聞くことも、話すこともできない」という静かな真実を背負っていた。
アビマニュは手を動かし、静かに尋ねる。
「なぜ、君は…?」
リナは優しく笑みを浮かべ、滑らかな手の動きで答えた。
「私は声を持たず、音を持たないの。」
アビマニュは静かにうなずき、わずかに微笑んだ。
そのとき、小さな声が横から加わった。
「そうだよ、オジサン」ガブリエルが元気に言う。
「お母さんは喋れないし聞こえないんだ。だからここにジェニーおばちゃんがいるんだよ!」
アビマニュはふと目を向けた。
先ほどジョンと一緒に部屋を片付けていた若い女性――ジョンの妹ジェニー。
彼女は、リナと外の世界をつなぐ存在なのだと、アビマニュは理解した。
そのとき、胸の奥で何かが揺れた。
ジョン――市場のチンピラ。
かつて自分の家族を奪った世界に属する男。
だが今、目の前にいるのはただの「プレマン」ではなかった。
ここでは、彼は一人の夫であり、一人の父親だった。
外の世界でどれほど荒んでいようと、この小さな部屋で、彼は守るべきものを全力で抱えて生きていた。
____
夜はさらに更けていった。
街の喧騒は次第に薄れ、残されたのは湿った匂いを帯びた風と、わずかな霧だけだった。
家の中では、灯りの多くがすでに落とされていた。
台所から漏れる淡い光が、かろうじて部屋の輪郭を照らし出す。
ジョンの子どもたちはすでに眠りにつき、小さな身体は薄い毛布に包まれて静かな寝息を立てていた。
外、家の戸口。
二人の男が並んで、軋む古びた木の椅子に腰を下ろしていた。
ジョンは煙草に火をつけ、深く吸い込み、夜の冷たい空気に煙を吐き出した。
足元には、すでに冷めきったコーヒーのカップが転がっている。
ジョンは背を柵に預け、吐き出した煙を見送りながら、アビマニュの背中の鞄に視線を向けた。
まるで身体の一部であるかのように、彼はそれを片時も離さなかった。
「その鞄……ずいぶん大事そうだな。」
ジョンは好奇心を隠しきれずに目を細めた。
「さっきから一度も外してねぇじゃねえか。」
アビマニュは答えず、ただ薄く微笑んだ。
ジョンは眉をひそめ、空を見上げる。
だが心の奥では考えが渦巻いていた。
(チッ……なんで笑うだけなんだよ。あの鞄の中身……どうせ全部金だろ。間違いねぇ。)
彼の視線は再び鞄へと吸い寄せられる。
しかし、問いただす前にアビマニュがこちらを向いた。
静かな手の動きが闇の中に浮かぶ。
――「俺は妹を探している。十年前に行方不明になった。」
ジョンはその手話をじっと見つめ、意味を読み取ろうとした。
数秒後、彼は小さく頷いた。
「……そうか。妹さんか。」
横へ煙を吐きながら、少し柔らかい声色で続ける。
「女の子なんだな?」
アビマニュは無言で頷いた。
その表情は変わらぬ静けさを保ちながらも、その瞳の奥には深い、言葉にできぬ痛みが宿っていた。
ジョンは彼をしばらく見つめ、それから大きく息を吐いた。
(世の中ってのは……やっぱり不公平だ。)
だが、その言葉を声にすることはなかった。
ジョンは煙草に火を点けた。
火が赤く揺れ、暗闇の中で彼の顔を照らす。
「……妹の行方か。」
低い声が夜風に混ざった。
彼は深く吸い込み、灰を落とす。
「道は二つだ。」
アビマニュは微動だにしない。ただ、眼差しだけが鋭く燃えていた。
ジョンは指を一本立てる。
「ひとつ目――生きている。だが……娼婦にされてる。」
彼の口元が歪む。
「地下で、声も光も届かねぇ檻だ。俺の力を借りりゃ……辿り着けるかもしれん。」
沈黙。
アビマニュの胸がわずかに上下する。
ジョンはさらに続ける。指を二本に。
「ふたつ目……逃げたか、拒んだか。」
声が一段低くなる。
「そっちなら――地獄だ。」
夜の静寂が濃くなる。遠くで犬が吠えた。
「十年前から七年前にかけて、女と子供が消えた。跡形もなく。」
ジョンの目が光を失い、闇に沈む。
「人はその時代を“鼠の年”と呼んでいる。」
煙草の火が赤く落ちる。
「噂じゃ、奴らは海外に送られ……実験台にされた。鼠みてぇにな。」
灰が地面に散る。
「もしそうなら……」
彼は短く息を吐いた。
「……もう、生きちゃいねぇ。」
風が吹き抜けた。
二人の間に、言葉より重い沈黙だけが残った。




