案内人
アビマニュの足取りは、ついに次の目的地へと辿り着いた。
しかし、そこにあったのは、彼の記憶に残る市場とはまるで別物だった。
十年前、この場所は木造の粗末な屋台が迷路のように並び、塩漬けの魚や香辛料の匂いが渦巻き、商人たちの値切りの声が飛び交う喧騒の場であった。
今では近代的な二階建ての建物に生まれ変わり、頑丈な壁と明るい照明、冷たい空調が昔の匂いを追い払っていた。
周囲には高層ビルが立ち並び、この市場は庶民の生活空間というよりショッピングモールのようであった。
だが、一つだけ変わらぬものがあった――この市場に巣食う闇の影。
不正なやり方で利益をむさぼる者たちは、いつの時代にも必ず存在する。
通路の端で、三人の男が屋台から屋台へと歩いていた。黒いスーツに身を包み、二人は痩せこけ顔に険しい皺を刻み、もう一人は太鼓腹をベルトの上に突き出している。
高級な服を纏っても隠せぬその空気――彼らは商人ではない。ゆすり屋だ。
アビマニュはその姿を見て悟った。用心棒代。過去の傷を抉る光景。
小さな屋台から、懇願の声が聞こえた。
「本当に、お金が足りないんです…」
痩せた中年の女性、眼鏡をかけたその人は必死に説明していた。
痩せたチンピラが鼻で笑う。
「誰だって金は持ってるんだよ。面倒かけるな。」
そう言って拳を振り上げ、女の顔を殴ろうとした瞬間――
アビマニュの手が、その手首を掴み取った。
力強く、そして冷静に。
三人の目が同時に彼へと向けられる。
「テメェ…誰だ!」
アビマニュは答えない。
長い乱れた髪が顔の半分を覆い、ぼろ布のような衣を纏ったその姿は、都会の市場には不釣り合いな浮浪者のようだった。だが、その瞳は鋭く、揺るぎない決意に燃えていた。
彼は女の前に立ちはだかり、ゆっくりと一歩踏み出した。
痩せた二人が顔を見合わせ、冷笑を浮かべる。
「何様のつもりだ?俺たちの邪魔する気か?」
アビマニュは沈黙を保つ。
唇が僅かに動き、指が空を切る――手話の動き。
「いくら…払えばいい?」
「チッ、バカにしてんのか!口も利けねぇのに偉そうにすんな!」
チンピラが殴りかかる。しかしアビマニュは軽く身をかわし、わずかな力で相手を床に叩きつけた。
もう一人も飛びかかるが、同じように倒れる。
「この野郎!」
空気が凍りつく。だがその時、太った男が手を挙げて制した。
「マックス、ウィン!やめろ!」
それでもマックスは立ち上がり、再び叩き伏せられる。
市場の視線が集まる中、太った男だけは違う目をしていた。警戒と同時に知性を宿した眼差し。
そして、彼は手を上げ…手話で告げた。
「何が目的だ?」
アビマニュの目がわずかに見開かれる。
手話を知る者――安堵が胸をかすめる。
彼は静かに、明確に指を動かした。
「この店の女主人はいくら払えばいい?」
右手で数字を示し、左手で屋台を指す。
そして耳に指を当て、口を指差した。
「聞こえる。だが、声が出せない。」
簡潔だが力強い動きだった。誤解を許さぬ意思表示。
太った男はしばらく睨みつけ、それから頷いた。
「五万ルピアだ。」
アビマニュは古びた鞄を探り、何枚かの紙幣を取り出す。要求額をはるかに超える金額。周囲の人々がざわめいた。あの風体で、なぜ金を持っているのか?
彼は金を差し出した。だがすぐには手を離さない。
その眼差しは鋭く、そして再び手が動いた。
「だが…お前と話がしたい。情報が必要だ。」
人差し指で相手の胸を示し、次に自分を指差す。はっきりとした“対話”の意志。
男は逡巡したが、やがて深いため息と共に頷いた。
「いいだろう。仕事が終わったら会おう。」
アビマニュは指で額を軽く叩き、次に地面を指差した。
「どこで?」
男の手が動く。
「北側の高架下、市場の裏だ。」
そして、低く声を添えた。
「遅れるなよ。」
アビマニュは頷き、最後にもう一度だけ問いかける。
指で空に文字を描き、自分を指差す。
「名は?」
男は薄く笑い、右手で文字を描き、胸に手を当てた。
「ジョン。俺の名はジョンだ。」
アビマニュは深く息を吐き、金を彼の手に渡す。
背を向け歩き去る彼を、ジョンの目は最後まで追っていた。
ただの厄介者ではない。
あの瞳と沈黙の奥に、何か巨大なものが潜んでいる――そう確信させる出会いだった。
そして、この市場で、新たな宿命の糸が結ばれた。
____
アビマニュはついに気づいた――周囲の人々が自分を奇異の目で見ていることに。
伸び放題の髪、ぼろぼろの衣服、擦り切れた古いサンダル。
彼は、この世界の一部ではないと感じた。
急速に動き続ける都市の只中に立ちながら、彼はまるで迷い込んだ歴史の亡霊のように見えていた。
彼は理解していた。さらに歩みを進めるためには、この世界に適応しなければならないと。
アビマニュは古びた鞄を開き、小さな袋を取り出す。
その中には、夕暮れの光に煌めく純金の小片が収められていた。
師であるバタラ・ワリからの贈り物。あの異界を去る直前に手渡されたものだ。
「いつの日か、必ずこれが必要になるだろう」
――まるで師は、この世界を力だけでは渡り歩けないことを知っていたかのように。
アビマニュは街の小さな店でその金を売り払い、そして人々の喧噪の中から姿を消した。
⸻
夕日が沈みゆき、空を朱と橙の光で染め上げていく。
その時、高層ビルの屋上に一人の新たな姿が立っていた。
彼は頭の大半を覆う大きな黒いフード付きジャケットを纏っていた。
背中には大きく刻まれた一文字――解放。
袖には幾つものポケットがあり、同じくポケットだらけの戦闘用のパンツを履いていた。
足元の靴は現代的で柔軟、彼の素早い動きを確実に支えるものだった。
吹きつける夕風がフードをめくり上げる。
そこに現れたのは、一人の若き男の顔。
整えられた髪、鋭い眼差し。八年に及ぶ苛烈な修練が、その端正な面立ちに刻まれていた。
アビマニュは高層ビルの縁に腰を下ろし、眼下に広がる光の海を見つめていた。
無数の車が川のように流れ、街灯とネオンが夜空を染める。
かつて山奥で耳にした風の音とは違う――ここでは鉄と煙の匂いが風に混じり、冷たい都会の夜を告げていた。
彼の心に、静かなる独白が響く。
――師よ……祖なるバタラ・ワリよ。
あなたはかつて、この高さから世界を見下ろしたことがあるのか。
そして……どの地平から、あの魔が再び姿を現すのだろうか。
アビマニュの瞳は鋭く光り、闇に潜む未来を射抜く。
拳を固め、胸奥から誓いが燃え上がる。
「奴が戻るその刻、我はここで待つ。
必ず迎え撃ち――打ち砕く。」
都市の喧噪は遠く、風と光だけが彼の誓いを見守っていた。
だがその静寂の裏で、運命の歯車はすでに軋みを上げて回り始めていた。




