ラワ・ロンテック ― 不滅身法
ここに集う皆さまは、これから特別な物語へと導かれる。
それは――ジャワの大地に封じられた秘術を核としながらも、
日本の叙事詩の気配を纏う、唯一無二のサーガ。
そこにいるのは“英雄”ではない。
血にまみれた選択を重ねる者、
闇に生き、光をも裏切る者。
『バタラカラ:ザ・ラスト・ブラッドライン』
――それは時代を越え、誰も知らぬ視点から語られる叙事詩である。
正義か、悪か。
その境界線が溶け落ちるとき、
物語は新たな貌を見せる。
東の狼は、地下闘技場の控室に立っていた。
鉄で覆われた壁はくすんだ塗料をまとい、ジリジリと唸る蛍光灯の光を反射している。空気は冷たく重く、だが血と影の匂いがまだ残っていた。
床の黒いタイルには、消しきれない血痕が斑点のように残り、消毒液の匂いすら混ざり合っていた。
彼は隅にある鋼鉄の蛇口をひねった。
流れ落ちる水が新たな傷口を洗い流し、真紅の血が混ざって床へと滴った。赤い水溜まりは光を反射し、鈍く輝いた。
扉の両脇には二人の護衛が立つ。
黒いスーツに身を包み、無線イヤホンを耳に付け、わずかな動きにも反応する鋭い眼差し。
東の狼は俯き、赤く染まった流水を見つめる。
身体は震え、傷の痛みだけでなく、別の何かが彼を内側から焼いていた。血管が青白く脈打ち、まるで青い炎が流れ込んでいるかのようだった。
――記憶がよみがえる。
試合の数時間前。
煙草の煙と酒の匂いが漂う狭い廊下で、ひとりの男が近づいてきた。
見知らぬ顔。しかし、その眼差しは鋭く、底知れぬ冷気を帯びていた。
男は黒いジャケットの内側から、小さなバイアルを取り出した。瓶の中には青い結晶のような液体が揺らめき、不気味な光を放っている。
「相手は強すぎる。」
低い声が闇に響いた。
「奴はただの闘士ではない。特別な存在だ。このままでは、お前は数秒で死ぬ。」
瓶が光を浴び、青い液体が生き物のように震えた。
「――ファントム・アイス。」
囁きは冷酷だった。
「十分钟。それだけだ。その間だけ人の限界を超える。使え……奴を殺せ。そして勝利を持ち帰れ。」
東の狼は答えなかった。ただ瓶を睨みつけ、憎悪と迷いを抱えたまま握りしめた。
そして今――控室の中で。
息は荒く、心臓は戦鼓のように鳴り、全身の筋肉が硬直していた。
目は血走り、身体は制御を失いかけている。
ファントム・アイス……
その名が頭の中でこだまする。
力は確かに得た。
だが、同時に彼は悟っていた。
これはただの薬ではない。魂を蝕む毒、その始まりであることを――。
_____
その夜、地下闘技場の熱狂はすでに終わりを告げていた。
観客たちは賭けに敗れ、失望の溜息を残しながら一人、また一人と去っていく。
勝者の名を叫んでいた喧騒は消え、ただ冷たい煙と血の匂いだけが空間に漂っていた。
最上階のVIPルーム。
厚い硝子越しに、まだ汗と鉄の臭いを残すリングを見下ろしながら、二人の男が向かい合っていた。
ひとりは年老いた中国系の男――張偉(Zhang Wei)。
白髪を後ろへ撫でつけ、深い皺の奥に獰猛な眼光を宿す。
もうひとりは若き後継者。名をジョナサンという。
鋭い目と冷ややかな笑みは、すでに獲物を捕らえた猛禽のようであった。
「……今日も盛況だな。」
張偉が低く呟いた。
「闘士、賭場、そして薬。すべてが金を生む。お前の商才は見事だ。」
ジョナサンは硝子の外に視線を投げた。
観客の残滓、空席の列、そしてまだ血の染みついた鉄の檻。
彼の瞳には、そこが単なる闘技場ではなく、世界を揺るがす舞台に映っていた。
「計算通りです。」
彼は冷たく答える。
「だが……一つ、腑に落ちないことがあります。
なぜ我々自身で〈ファントム・アイス〉を製造しないのか。
あれを支配すれば、利益は今の十倍、いや百倍にもなる。」
張偉はゆっくりと首を振る。
「……軽々しく踏み込むな。あれはダササカ(Dasasaka)の領分だ。
奴らの聖域を荒らせば、戦火は避けられぬ。」
その言葉を聞いた途端、ジョナサンの口元が歪む。
笑みが次第に大きくなり、やがて声を抑えきれずに嗤った。
「戦い、か……」
彼は楽しげに呟く。
「いいじゃないか。
戦争など、俺にとっては祝宴にすぎない。
時が来れば――すべては俺のものになる。」
ガラスに映るその笑顔は、若さよりも老獪さを孕んでいた。
野望に酔うその姿を見て、張偉はしばし沈黙し、目を細める。
その夜の静けさの中、確かに新たな嵐の胎動が響いていた。
_____
真夜中――
地下闘技場の灯りはすでに落とされ、薄暗い非常灯だけが冷たい光を放っていた。
ジョナサンの足音が静寂を裂き、二人の黒衣の護衛がその背に従って歩む。
彼の目的は明白だった。
最奥にある部屋――死体安置所。
家族に引き取られることのない闘士たちが、冷たい鉄の棺に押し込まれる場所。
扉の前に立つと、ジョナサンは低く告げた。
「……ここで待て。」
護衛たちは頭を垂れ、一歩も踏み込もうとはしなかった。
重い鉄扉が軋みながら開く。
冷気と鉄錆の匂いが溢れ出し、静寂をさらに重くした。
機械音が低く唸り続け、まるで死者への祈りのように響く。
ジョナサンは一つの大きな引き出しに手を伸ばす。
冷たい取っ手を引き出すと――そこにあったのは、白い髑髏の仮面。
乾ききった血に覆われた、オイビソノの亡骸。
彼は黙ってそれを見つめ、ポケットから小さな黒い袋を取り出す。
袋の中には――黒き大地の土。
彼はその土を死体の上に撒いた。
――沈黙。
次の瞬間、
「……ッ、ゴホッ!」
オイビソノの胸が震え、冷え切った肺が空気を求めて動き出す。
虚ろな眼が開かれ、死者は蘇った。
ジョナサンの唇がゆっくりと吊り上がる。
亡骸が起き上がり、傷口は音もなく塞がっていく。
やがて手が仮面を外し、蒼白な顔が露わとなった。
ジョナサンは低く囁く。
「……アジアン・ラワ・ロンテック(不滅身法)。
土に触れる限り、汝は何度でも甦る。
死を拒み、終わりなき命を得る――忌まわしき術。」
彼は一歩近づき、狂気を帯びた笑みを浮かべる。
「だからこそ……お前はこれから、私の側に在り続ける。
――我が“兄弟”としてな。」
冷気漂う安置所に、ふたつの呼吸が重なる。
そしてジョナサンの瞳には、地下闘技場よりも遥かに大きな野望の炎が、妖しく燃え上がっていた。