ジョナサン・ワン
命懸けの闘技場。
有刺鉄線に囲まれた巨大な円形の檻。
灯りの下で鈍く光り、空気には血と汗、そして煙草の匂いが満ちていた。
観客の叫びは、拳が肉を打ち砕くたびに、骨が砕けるたびに、血が地面を染めるたびに爆発する。
そこには規則もなければ、名誉もない。
あるのはただ一つ――生き残るか、死ぬか。
観覧席には数百人の裏社会の人間が詰めかけている。闇の実業家、麻薬王、大博打を仕掛ける成金。
彼らは同情のためにここに来ているのではない。
命の灯火が絶たれる瞬間を愉しむために、巨額の金を賭けているのだ。
この冷酷な遊戯――誰が想像できただろう。
その発想の源が、一人の若者の頭脳であったことを。
その名はジョナサン・ワン。
暗黒組織「黒虎」の創設者の息子にして、地獄の舞台を築いた青年。
三年という短き歳月で、この「命懸けの闘技場」は地下世界の現象となり、今や権力者や富豪たちが、己の欲望と利権のために群がる場所と化していた。
だが、ジョナサンにとってこれは単なる商売ではない。
これは――巨大な盤上の遊戯。
闘う者も、賭ける者も、死にゆく者も、すべては駒。
そして彼にとって人生とは二つの選択肢しかない。
支配者となるか、犠牲者となるか。
彼は、すでに答えを選んでいた。
──
ジョナサン・ワン。
その名は、インドネシアの闇社会において確実に広がりつつあった。
彼は矛盾の化身である。
二十一歳という若さでありながら、誰もが畏れる知性を持つ存在。
十八歳にしてフランスの名門、パリ政治学院(Sciences Po)を博士課程まで修了した天才。
だが、その才能は父マイケル・ワンにとっては誇りではなかった。
黒虎を率いる父、マイケルは息子を「汚れ」としてしか見なかった。
土着の血を持つ母の存在とともに、彼を一族の恥としたのだ。
正妻の子であるジョンソンを溺愛し、ジョナサンを影のように扱った。
幼き頃から彼は怪物の片鱗を見せていた。
八歳で国際数学五輪を制覇し、十二歳でヨーロッパの企業を唸らせるアルゴリズムを組み上げた。
だが父は言う――
「頭が良いだけでは、この世界に居場所はない。」
拒絶の中で育った少年は、冷徹な天才へと変貌した。
十五歳で奨学金を得て渡仏。
国際法、経済、政治戦略を貪り学び、十八歳で博士号を手に入れる。
だが、帰国した彼を待っていたのは――さらなる拒絶。
「黒虎は純血の華僑のみだ。お前に席はない。」
父の言葉は氷より冷たく、刃より鋭かった。
それが転機だった。
彼は父のラップトップを侵し、政治家と富豪の腐敗を暴くデータを奪った。
その情報を握りしめ、金と権力を求める投資家を取り込み、たった十ヶ月で闘技場を築き上げたのだ。
闘いは常に満席、巨額の金が流れ込み、六ヶ月で一大事業に育った。
その成果を前に、マイケルもついに彼を組織に迎えざるを得なくなる。
だがそれは「養子」として――恥を隠すための言葉遊びに過ぎなかった。
ジョナサンは笑みを浮かべる。冷たい、だが決して折れない笑みを。
彼は心に刻んだ。
――いつの日か、父に後悔を刻み込むと。
その夜、豪奢な屋敷のバルコニーで、彼は虚空を見つめ呟いた。
「父よ、見ていろ。
お前が拒絶した息子は、今や悪魔となった。
そして――その悪魔は、お前の築いた帝国を食い尽くす。」
ジョナサン・ワン。
それは、単なる天才の物語ではない。
憎悪と叛逆が、黒虎の未来を呑み込む序章である。
____
2017年3月、ジャカルタ
黒虎会の会議室は、単なる会合の場ではない――それは権力の舞台であった。
黒檀の壁には精巧な彫刻が施され、黄金の虎の意匠が散りばめられている。葉巻と苦い茶の香り、そして高級香水の匂いが混じり合い、表面上は優雅、だがその奥底には常に脅威が潜んでいた。
北の壁には巨大な日本画が掛けられている。断崖に座す黒き虎。その周囲を取り巻く十頭の龍。睨みつける龍もあれば、護るように身をくねらせる龍もいる。それは象徴だった――虎は中心、龍はその力を支える存在。
中央には黒光りする楕円形の大机。周囲の椅子には十人の「神鱗」の長老たちが座る。
仕立ての良いスーツに絹のネクタイを締める者もいれば、昔気質のマフィア然とした、ゆったりとしたスーツに金の鎖、指には無数の指輪を光らせる者もいる。
彼らの視線は静か、しかしその奥にはいつでも首を刎ねる刃が潜んでいた。
重い振り子時計が時を刻む。沈黙。
やがて、ミカエル・ワンが立ち上がった。
――
五十を越えた体躯は未だ精悍。側頭に銀の髪を混じらせた顔は厳しく、威圧感に満ちている。
「今日は一人を紹介する。私が育てた者だ。この円卓に加わることになる。」
言葉を切り、低く重ねる。
「…養子だ。彼が我々に新たな事業を提示する。」
そして扉の方へ振り返った。
「ジョナサン、入れ。」
その「養子」という一言は、意図的に強調された境界線だった。
――
扉が開く。ジョナサン・ワンが歩み入る。
まだ二十一歳。だが瞳はあまりに冷静、若者のそれではない。
黒いスーツ、白いシャツ、姿勢は揺るぎなく、怯えもない。
十頭の龍――十人の長老を一瞥し、静かに一礼した。
沈黙を破ったのは、白髪交じりの老いた長老だった。指には大きな翡翠の指輪。
「養子だと?ミカエル…純血の華僑ではない者を、この円卓に座らせるつもりか?
伝統を忘れたのか?」
ミカエルの目が鋭く光った。
「私の忠誠を疑うのか、張翁?
この場に軽々しく人を連れて来ると思うか?」
空気が張り詰める。
その隙を縫うように、ジョナサンが静かに口を開いた。
「初めまして。ジョナサン・ワンと申します。
私は乱しに来たのではない。この組織の一部となるために来ました。」
一瞬、視線をミカエルに流す。そこには鋭い皮肉が潜んでいた。
そして長老たちを見渡す。
「すでに耳にされているでしょう。『生死の闘技場』。
血と金が同時に流れる独占的な賭けの場。あれを築いたのは私です。
三年間で、それは中規模の麻薬事業に匹敵する利益を生み出しました。しかも背後には警察の後援すらある。」
低いざわめき。数人の長老は互いに視線を交わす。興味と計算がその目に浮かんでいた。
だが一人の壮年の長老が白いスーツの袖を整え、問いを突きつけた。
「それほど儲かるものを、なぜ差し出す?
黄金を手放してまで、この円卓に座りたい理由は何だ?
…隠された目的があるのではないか?」
場が凍り付く。
ジョナサンは眉一つ動かさず、口元に薄笑みを浮かべた。
「隠された目的…?
これ以上に高い目的などあるでしょうか。
私はただ、父への感謝を返すだけです。」
再びミカエルへ視線を送る。
「彼は私を“ゴミ”の中から拾い上げ、最高の環境を与えてくれた。
だから私は、己の全ての成果をこの組織に差し出す。
それが――子としての忠義です。」
「ゴミ」という言葉が鋭く強調された。刃のように、ミカエルへ突き刺さる。
だがミカエルは無表情のまま、そのまま受け流した。
――
ざわめきが再び広がる。賛同の目もあれば、未だ疑念に満ちた目もある。
その時、ミカエルが声を張った。
「勘違いするな。私は承認を乞うためにここへ来たのではない。
決断は既に下している。これからジョナサンを組織の道具として使え。
養子であろうと、お前たちと肩を並べることは決してない。
虎を支えるのは龍――それは変わらん。彼はただの器だ。」
ミカエルの視線がジョナサンを射抜く。
「そうだな?」
ジョナサンは深く一礼し、口角をわずかに上げた。
「もちろんです。父上――いや、王閣下。
私はただの道具。だが、この道具は必ず成果をもたらします。」
沈黙。やがて最年長の長老が低く呟いた。
「よかろう。…だが忘れるな。お前の一挙一動、すべて我らが見張っている。」
会議は閉じられた。
だがジョナサンの心には、既に鮮やかに刻まれていた――
味方にすべき者と、消すべき者と。
この夜、礼儀正しい微笑みの裏で、巨大な企みが静かに動き始めた。




