地下闘技場 ― 2020年
この物語に流れる力――「アジアン」は、
インドネシアのジャワ島に秘められた古代の術を源とする。
しかしそれは、ただの伝承ではない。
日本の血脈と交わり、新たなる叙事詩となって息づく。
民の伝説、権力の策略、そして密かに受け継がれてきた禁じられた力。
すべてが交錯し、ひとつの物語となる。
ガシャン――!
鉄のきしむ音が響き渡る。血と汗、そして煙草の煙が入り混じり、地下の空気は息苦しいほどに淀んでいた。
天井から吊るされた薄暗い灯りが不気味に揺れ、中央の鉄の円形闘技場を照らす。
観客たちは飢えた獣のように咆哮し、血に飢えた瞳を赤く光らせていた。
「殺せぇぇ!! やれぇぇ! 殺すまで叩き潰せ!!」
今夜、賭けられているのは金ではない。
命だ。
生き残れるのは、勝者ただ一人。
幕の奥から、二つの影が現れる。
ひとり目――オイビソノ。
屈強な肉体、白い髑髏の仮面で顔を隠した男。
すでに五度の死闘を制し、観客からは“死の化身”と囁かれる存在。
その素性を知る者は誰もいない。彼は一言も口を開かない。まるで人の世に迷い込んだ怨霊のように。
ふたり目――東の狼。
寒風吹きすさぶ山岳の村から現れた武人。
故郷は強欲な支配者に奪われ、滅びの淵にあった。
その支配者たちは観客席に座り、酒をあおりながら人の苦悩を嘲笑っている。
彼は村を救うため、そして絶望を打ち砕くために、この地獄の舞台に立ったのだ。
二人の戦士。
二つの運命。
これは血で時代を賭ける舞台。
合図はない。鐘も鳴らない。
ただ二対の眼光が、猛獣のようにぶつかり合う。
――時が止まったかのように。
ドガァァン!!
先に動いたのは“東の狼”。
風のように駆け抜け、鋼の鉤爪のごとき手で敵の胸を引き裂かんとする。
オイビソノは微動だにしない。
その巨腕で攻撃を受け止め、骨と骨がぶつかる衝撃が闘技場を揺るがす。
彼は一歩踏み込み、死の槌のごとき拳を相手の胸へ叩き込んだ。
ドゴォォン!!
“東の狼”の身体は宙を舞う。
しかし地に落ちる直前、彼は身を翻し、軽やかに着地。
次の瞬間、咆哮が轟く。
それは、血に飢えた傷ついた狼の叫び。
「オイビソノォォ!!」
「ヒガシのおおかみィィ!!」
観客が二人の名を叫ぶ。
金が舞い、狂気が弾け、地獄の熱気はさらに煮えたぎる。
だが、彼らはただの闘士ではなかった。
遊びの余地など、一片もない。
オイビソノの身体が震え始める。
毛穴から蒸気が噴き出し、空気が蜃気楼のように揺らめく。
それは古の禁断の呼吸――
アジアン・ウェシ・プティ(鉄白) ――ハクケツの息。
肉体を鋼のように硬化させる術。
一方、“東の狼”は膝を折り、掌を冷たい鉄の床に押し当てた。
ドンッ!
足を踏み鳴らすと、大地の力をその身へと引き込む。
その動きはさらに速く、さらに獰猛に変貌する。
彼はもはや人ではなかった。
古の時代から蘇った原始の狼、その魂を纏っていた。
拳と鉤爪。
禁断の術と原始の本能。
これは単なる喧嘩ではない。
単なる賭博でもない。
これは――地獄の舞台。
そして、これから流れる血の中から、
千年前に終わったはずの戦い――バタラとアシュラの古き戦争が、
再び目を覚まそうとしていた。
――ドオオオガアアン!!
骨と鉄の衝突音が再び空気を切り裂き、鉄の闘技場を揺るがした。衝撃の余波が風となり観客席を震わせる。
オイビソノは泰然と立ち尽くす。敵など相手にならぬとばかりに、その身を銀白の気配で覆い――アジアン・ウェシ・プティ(鉄白)。
皮膚は鋼鉄のように硬化し、一撃ごとに大地を割る大槌のごとき破壊をもたらす。
拳と爪がぶつかり合う。
鋼と本能。
そのたびに血と汗が飛び散り、肉片が宙を舞った。
だが、東の狼はもはやただの人間ではなかった。
相手の拳を見切り、動きが鈍る瞬間を狙い続ける。
最後の一撃が空を切ったその刹那――。
息は荒く、口と額から血が滴る。
その瞳は炎のように赤く燃え、咆哮する。
「グロォオオオアアア!!」
山岳の古き武に鍛えられた爪が空を裂き、オイビソノの首筋――皮膚が柔らかく動くその一点を抉り取った。
白鉄の護りは破られた。
喉を裂かれたオイビソノはよろめき、やがて鉄の床に叩きつけられる。
血飛沫が舞い、骸骨の仮面を濡らした。
アジアン・ウェシ・プティ(鉄白)は砕かれ、原始の獣性によって粉々にされたのだ。
観客席は悲鳴と歓喜の渦に包まれた。
無敗の覇者が、新参者に打ち倒された。
「やれェェェ!! 殺せェェェ!!」
「狼だ!! オイビソノを殺せェェェ!!」
狂気の声を背に、東の狼は本能に従い、敵の胸を抉り、心臓を何度も突き刺す。
――だがやがて、人としての意識が戻り、その手は止まった。
ふらつきながらも立ち上がる。
勝利の味は、あまりに苦い。
全身から血が溢れ、鉄の床を赤で染め上げる。
その足取りは重く、しかし確かに観客の心を切り裂いた。
リングを去るその時。
会場は一瞬、静まり返った。
彼の瞳――憎悪と怒りに燃えるその視線は、血に飢えた観衆を凍り付かせた。
背後では、スタッフがオイビソノの死体を片付けていた。
もはや彼は「鉄の闘技場の伝説」としてしか語られぬ亡骸にすぎなかった。
その夜、真の勝者など存在しなかった。
残されたのは血と肉、そして空気にこびりついた怨嗟だけ。
――ガラス張りの観戦室。
漆黒のスーツに身を包んだ若者が、その光景を無言で見つめていた。
隣には中年の男が立っている。
「……もう計画は動き出したのか、ジョナサン?」
若者は微笑を浮かべ、冷静に答えた。
「ええ、もちろんです。張偉様。」