秘められたもの
アレックスは、ある晩、二人の兄弟の前で力強く言葉を放った。
「ギャングのいない世界……闇の組織のいない世界……きっと訪れる。
俺たちのような子どもを、もうこれ以上増やしてはいけないんだ。」
その言葉に、エンジェルとアビマニュは胸を打たれた。
だが同時に、それはあまりにも高く遠い夢のようにも思えた。
「もし平和な世界が来ないのなら、俺が迎えに行って、お前たちに届けてやる。」
そう言って、アレックスは二人を見つめ、大きく笑った。
――その明るさこそが、二人にとって救いだった。
彼が放つ前向きな空気は、どんな苦しい現実さえも一瞬だけ忘れさせてくれた。
しかし現実は残酷だ。
「このクソみたいな国に平和なんてあるか!」
アレックスは、街角で大人のチンピラと相対するたび、そう吐き捨てた。
生き延びるには、強くならねばならない。
アレックスは裏路地で開かれる小さな闘技会に参加し、少額の賞金を得ては日々をつないだ。
血と汗にまみれたその場で、彼は本物の戦士へと鍛えられていった。
――家族を守るために。
一方、アビマニュにもまた、別の戦いがあった。
彼はいつもエンジェルを気にかけていた。
少女として成長し始めた彼女に、街の不良たちの視線が集まり始めていたからだ。
そして、ある日。
エンジェルが五人のチンピラに取り囲まれた。
その瞬間、アビマニュの中で何かが目を覚ました。
気がつけば、彼は一人で全員を倒していた。
――なぜ、自分の体が勝手に動いたのか。
――なぜ、自分にこんな力があるのか。
不思議なことに、働いていても決して疲れを感じることはなかった。
底なしの体力、そして見知らぬ戦いの技術。
彼の脳裏によみがえる。
あの物乞いの老人の言葉。
「これは私のことではない。……お前自身のことだ。
お前は、大きな運命を背負う子なのだ。」
――そう、すべての始まりは、あの日からだった。
____
「はぁ…はぁ…」
荒い息がアビマニュの口から漏れた。
背後では、エンジェルが震えながら座り込んでいる。
その前方には、五人の不良たちが地面に倒れ、苦しそうに呻いていた。
アビマニュは自分の両手を見つめ、困惑する。
(これは……一体なんだ。あの日と同じ……両親が死んだ日のことを思い出す。でも違う。今回は意識がはっきりしている。身体が勝手に動いて、敵を倒した。けれど誰も死んではいない……。この身体の奥に、一体何が隠されているんだ? あの乞食が言った“偉大な運命”とは――?)
頭の中に疑問が渦を巻く。
やがて、不良たちは怯えたように立ち上がり、逃げ去っていった。
「アビ兄……こわいよ……」
泣きながらしがみつくエンジェルを、アビマニュは言葉もなく、ただ強く抱きしめ、震える背中を優しく叩いた。
――夜。
高架下の隅、彼らがいつも身を寄せる場所にて。
そこへアレックスが戻ってきた。
顔は殴られた痕で青あざだらけだ。
エンジェルは泣き出す。
アビマニュが立ちふさがり、手話で問いかけた。
「どこへ行っていた?」
アレックスは無理に笑顔を作り、小さな紙袋を差し出した。
「見ろよ、アビ。金だ。もっと早く稼ぐ方法を見つけたんだ。もう少ししたら、部屋を借りられるはずだ……。エンジェル、泣くなよ。これがあれば、きっともうすぐまともな場所で暮らせるんだ。」
しかし、アビマニュはその手を強く掴み、必死に手話を送る。
「……さっき、不良たちが来た。お前の仲間だろう。五人も連れてきて……エンジェルを、あいつらは……!」
アレックスの目が見開かれ、膝から崩れ落ちた。
「……なんだと? くそっ……あいつら……! 許せない……!」
荒く乱れる呼吸。怒りで拳を握りしめる。
「もうすぐだったのに……あと少しで……! そうしたらお前たち二人で、穏やかに暮らせるはずだったんだ……。俺が不良の輪に入ったのは……全部理由がある……。」
声が震え、目から涙が零れる。
「俺は……あの呪われた組織に潜り込む。中から壊してやる……! それが、俺が姿を消す理由だ……」
アビマニュの頬にも涙が伝い落ちる。
彼は言葉にならない声をあげ、兄弟を強く抱きしめた。
エンジェルも近づき、二人に寄り添う。
小さな三つの身体が、夜の闇の中で一つに重なった。
しばしの間、三人の呼吸は重なり合い、涙が一つになって溢れ出した。
それは、心が確かに繋がっている証だった。
不完全で、不器用であっても――彼らは家族。互いを支え合うことでしか、生きられない家族だった。
「いいえ、アレックス兄さん……」
エンジェルは涙を拭いながら、必死に言葉を紡いだ。
「私たちは、もう兄さんを一人で戦わせたりしない。三人で一緒なら、きっとどんなことだって乗り越えられる。私も……必要なら武術を覚える。悪い人たちにだって立ち向かう……!」
その小さな声には、震えと同時に、確かな決意が宿っていた。
――夜が更けていく。
だが現実は、容赦なく彼らの希望を打ち砕こうとする。
それでも胸の奥には、消えることのない小さな灯火が、確かに残っていた。




