第9話 不倒の勝利
殴る拳に込めた力が、そのまま自分に返ってくるような不気味な感覚。何度殴っても倒れないどころか、その瞳の光がますます強くなっていく少年を前に、女チンピラたちの心は、ついに限界を迎えた。
最初に攻撃の手を止めたのは、リーダーの女だった。
「はぁ…はぁ…」
肩で息を切りながら、彼女はレオンを睨みつけた。その表情に、もはやサディスティックな愉悦はない。ただ、自分の理解を超えた存在に対する、混乱と恐怖だけが浮かんでいた。
「…なんなんだよ、お前…気色悪い…!」
悪態をつく声にも、以前のような威勢はない。
「…行くぞ!」
彼女は仲間たちにそう吐き捨てると、レオンに背を向けた。それは、勝利宣言とはほど遠い、明らかに敗走の姿だった。仲間たちも、怯えたように一度だけレオンを振り返ると、慌ててリーダーの後に続く。
「覚えてろよ、化け物が…!」
最後に投げつけられた捨て台詞も、遠吠えのように虚しく響くだけだった 。
嵐が、去った。
チンピラたちの足音が完全に聞こえなくなると、路地裏には深い静寂が訪れた。アドレナリンが切れ、興奮が冷めていくと共に、全身の痛みが一気にレオンを襲う。
唇の端が切れ、じわりと血が滲んでいる。片方の頬は熱を持ち、大きく腫れ上がっているのが自分でも分かった。腕も、腹も、背中も、殴られた箇所全てが、悲鳴を上げていた。
立っているのが、やっとだった。意識が朦朧とし、膝が何度も砕けそうになる。今すぐ、この場に崩れ落ちてしまいたかった。
だが、レオンは倒れなかった。
最後の意地だった。ここで倒れてしまえば、今までの自分の頑張りが、全て無駄になってしまうような気がした。彼は、朦朧とする意識の中で、ただひたすらに、自分の足で立つことだけを考えた。
ボロボロになりながらも、最後まで自分の足で天と地を繋いでいた 。
その姿は、静寂の中で、まるで一体の彫像のように見えた。傷だらけで、不格好で、しかし、何者にも屈しなかった意志の象徴として、そこに確固として存在していた。
カツン、と。静寂を破って、一つの足音が近づいてきた。
ジョウイチだった。彼は、ゆっくりとした足取りでレオンの前に歩み寄ると、その傷だらけの顔を、じっと見つめた。
レオンは、コーチの顔を見て、安堵からか、それとも緊張からか、思わずゴクリと唾を飲んだ。何を言われるのだろうか。無謀だったと叱られるのか。それとも、よくやったと褒めてくれるのか。
ジョウイチは、何も言わなかった。ただ、その灼熱の瞳に、深い深い承認の色を浮かべていた。そして、まるで珠玉の言葉を置くように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「見事だ。それがお前の『勝利』だ」
勝利。
その一言が、レオンにはすぐには理解できなかった。
(勝利…? 僕は、ただ殴られていただけなのに…? 一度も、やり返せなかったのに…?)
混乱するレオンの心を見透かすように、ジョウイチは続けた。
「お前は今日、誰かに勝ったわけじゃない。お前は、お前自身のトラウマに勝ったんだ。ひれ伏し、許しを乞うだけだった、過去の自分に打ち勝ったんだ」
その言葉に、レオンはハッとした。
「勝利とは、必ずしも相手を打ち負かすことだけではない。理不尽に屈しないこと。暴力に、恐怖に、己の弱さに魂を明け渡さず、最後まで自分の尊厳を守り抜くこと。それもまた、何物にも代えがたい、気高い『勝利』の形なのだ」
ジョウイチの言葉が、ゆっくりと、しかし確実に、レオンの心に染み渡っていく。
そうか。僕は、勝ったんだ。
相手を打ち負かすことだけが勝利ではないと学び、「理不尽に屈しない」という、生まれて初めての成功体験を得たのだ 。
その事実に気づいた瞬間、全身の痛みなど些細なことだと思えた。それ以上に、心の奥底から、今までに感じたことのない、熱い達成感が込み上げてくる。
それは、誰かに与えられたものではない。自分の意志で、自分の足で、自分の心で勝ち取った、正真正銘、自分だけの勝利だった。
まだ震えの止まらない足で、それでも確かに大地を踏みしめて立つレオンの姿を、夕暮れの赤い光が、神々しく照らし出していた。