第8話 震える足で、第一歩を
恐怖は、消えてはいなかった。
心臓は依然として警鐘を鳴らし続け、足は鉛のように重い。だが、レオンは自らの意志で、その恐怖の只中に留まることを選んだ。
彼は、ジョウイチとの日々のトレーニングを思い出す。それは、ただ筋肉を鍛えるだけの時間ではなかった。
『いいか、レオン。戦いとは、必ずしも相手を打ち負かすことではない。まず学ぶべきは、己の守り方だ』
ジョウイチは、実戦における防御の重要性を説いていた。
『攻撃は最大の防御、などと嘯くのは、圧倒的な強者が許される驕りだ。弱者には弱者の戦い方がある。まず、負けないこと。倒れないこと。嵐の中で、ただ一本、しっかりと大地に根を張る樫の木のように、立ち続けることだ』
その教えが、今、レオンの体を動かしていた。
彼は震える足を叱咤し、肩幅に開いてどっしりと大地を踏みしめる。膝をわずかに曲げて重心を落とし、両腕を上げて顔と体の中心線を守る。それはジョウイチに叩き込まれた、最も基本的で、最も重要な防御の構えだった。
その姿は、まだ頼りなく、震えてはいたが、そこには確かな「抵抗」の意志が宿っていた。
レオンは、目の前のチンピラたちを睨み据え、震える唇から、魂の言葉を絞り出した。
「もう…言いなりには、ならない」
その一言が、戦いのゴングとなった。
「…このガキがぁっ!」
レオンの初めて見せる反抗的な態度に、リーダーの女は逆上した。振りかぶられた拳が、容赦なくレオンの顔面に叩き込まれる。
ゴッ、という鈍い音が響き、レオンの視界が火花で散った。口の中に、鉄の味が広がる。
だが、彼は倒れなかった。咄嗟に顔を逸らし、腕でガードしたことで、直撃は免れたのだ。よろめきながらも、必死に踏みとどまる。
「まだ立つか!」
「生意気なんだよ!」
他の二人も加わり、暴行は激しさを増した。殴る、蹴るの雨が、レオンの全身に降り注ぐ。
レオンは、ただひたすら耐えた。教えられた通り、頭を守り、腹や脇腹といった急所を庇い、衝撃を背中や肩で受け流す 。痛みで意識が遠のきそうになる。足の力も抜けそうだ。だが、そのたびに、路地の入り口で静かに自分を見つめる、コーチの姿が脳裏をよぎった。
(倒れるな。膝を折るな)
コーチの声が、心の中で響く。
(これは、お前の戦いだ。お前が、お前の足で立つと決めたんだろうが!)
そうだ。これは、僕が決めたことだ。
痛い。苦しい。今すぐ、うずくまって泣き出してしまいたい。
だが、ここで倒れたら、僕はまた元の無力な自分に戻ってしまう。鏡の前で誓った決意も、流した涙も、全てが嘘になる。
レオンは、奥歯をギリリと噛み締めた。痛みで歪む顔を上げ、殴りかかってくる女たちの顔を、真正面から見据える。その瞳には、もはや恐怖の色はなかった。ただ、何があろうと倒れないという、鋼の意志だけが燃え盛っていた。
その、レオンの異様な姿に、攻撃を加えていた女たちの手が、次第に鈍り始めた。
おかしい。何かが、おかしい。
今までのレオンなら、一発殴られただけで泣き喚き、地面を這って許しを乞うはずだった。なのに、目の前の少年は、何度殴っても、何度蹴っても、倒れない。それどころか、ボロボロになりながらも、決して自分たちから目を逸らそうとしない。
その姿は、もはや「か弱い男」ではなかった。まるで、殴っても殴っても手応えのない、巨大な岩に拳を打ち付けているかのようだ。
女たちのサディスティックな愉悦は、いつしか困惑へと変わり、そして、じわりじわりと得体の知れない恐怖へと変質していった 。
攻撃を受けても倒れないレオンの姿に、殴っているはずの自分たちの方が、精神的に追い詰められていくのを感じていた。
レオンは、全身を貫く痛みの中で、一つの不思議な感覚に包まれていた。
それは、達成感とも、喜びとも違う、もっと根源的な実感だった。
今までは、ただ無力に暴力を「受けている」だけだった。だが、今は違う。自分の意志で構え、自分の意志で耐え、自分の意志で、この場所に「立っている」。
痛みの一つ一つが、自分が今、過去のトラウマと、この理不尽な世界と、真正面から対峙している証のように感じられた。
それは、彼が人生で初めて掴んだ、確かな手応えだった。
(ああ…そうか…)
全身の骨が軋むほどの痛みの中で、レオンは、はっきりと自覚した。
(僕は今、戦っているんだ)