第7話 トラウマとの再戦
ジョウイチの言葉に勇気づけられ、レオンは再び前を向いた。だが、彼らが広げた波紋は、想像以上に速く、そして悪意に満ちた形で反動を返してきた。
その日、レオンはジョウイチから言いつけられた単独トレーニングの仕上げとして、一人で森へ薪割りに来ていた。鍛えた体は、以前なら半日かかった作業を、わずか一時間ほどで終えさせてくれた。確かな成長を実感しながら、薪を背負って帰路につく。その、ほんの少しの油断が、彼の危機を招いた。
「よう、レオン。精が出るじゃねえか」
聞き慣れた、しかし今は聞きたくない声だった。
路地の角から、かつての女チンピラたちが姿を現した。今回は三人組だ。リーダー格の女が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、レオンの行く手を塞ぐ。
「最近、妙に威勢がいいそうじゃねえか。あのデカい男に、何か変なことでも教わったか?」
「……道を、開けてください」
レオンは、ジョウイチの教えを思い出し、努めて冷静に、そしてはっきりとした声で言った。だが、その声は自分でも分かるほど、わずかに震えていた。
女たちは、レオンのその態度が気に食わないらしかった。リーダーの女が、レオンの胸を指で突く。
「ああ? 男のくせに口答えか? ちょっと体鍛えたからって、調子に乗ってんじゃねえぞ」
「お前は昔みたいに、私らに怯えてりゃいいんだよ!」
じりじりと、三人が包囲網を狭めてくる。
まずい、と思った。ジョウイチはいない。たった一人だ。その事実が、レオンの心に冷たい影を落とす。
その瞬間、レオンの脳裏に、過去の光景が鮮明にフラッシュバックした 。
―――殴られる痛み。腹を蹴り上げられ、息ができなくなる苦しさ。地面に押さえつけられ、髪を掴まれる屈辱。そして、それを嘲笑う女たちの甲高い声。助けを求めても、誰も見て見ぬふりをする大人たち。無力な自分。抵抗することすら許されない、絶対的な理不尽。
「ひっ…!」
心臓が、耳元で鳴っているかのように激しく鼓動を始めた 。全身から血の気が引き、指先が氷のように冷たくなる。額には、脂汗がじっとりと滲み出ていた 。
ガタガタと、膝が笑い始めた。背負っていた薪が、ガラガラと音を立てて地面に崩れ落ちる。
「あ…あ…」
せっかく真っ直ぐになったはずの背骨が、再び丸まっていく。胸を張ることも、前を向くこともできない。体が、魂が、過去の恐怖を思い出し、完全にすくんでしまっていた 。
「はっ! なんだよ、やっぱり中身は変わってねえじゃねえか!」
「そうそう、これがお前だよ、レオン!」
レオンの怯えきった姿を見て、女たちは満足げに笑う。そうだ。これが、あるべき姿なのだと。
リーダーの女が、一歩前に出る。その手が、レオンを殴ろうと振り上げられた。
レオンは、固く目をつぶった。もう、ダメだ。僕は、変われてなんかいなかったんだ。
衝撃を待った、その時。
「レオン」
凛とした、静かな声が響いた。
レオンが恐る恐る目を開けると、路地の入り口に、ジョウイチが腕を組んで立っていた。いつからそこにいたのか、全く気づかなかった。
「コーチ!」
救世主の登場に、レオンは思わず安堵の声を上げる。女たちも、ジョウイチの姿を認めてギョッとした表情を浮かべた。
助かった。コーチが来てくれた。これで、この悪夢は終わる。
レオンがそう思った、次の瞬間。ジョウイチは、意外にも一歩も動こうとしなかった 。ただ、静かにそこに佇み、まるで舞台の観客のように、目の前の光景を眺めているだけだった。
女たちは、ジョウイチが手を出してこないことに気づくと、再び獰猛な笑みを浮かべた。
「なんだよ、あのデカブツ、助けに来たわけじゃねえのか」
「まあ、いいさ。こいつをいたぶって、あいつの鼻を明かしてやろうぜ」
絶望が、再びレオンの心を支配する。どうして、助けてくれないんだ。
レオンが、懇願するような目でジョウイチを見つめた。その視線を受け止め、ジョウイチは静かに口を開いた。彼の言葉は、レオンの甘えを打ち砕く、厳しくも愛のある問いだった。
「どうする、レオン? ここでまた膝を折るか?」
その言葉は、冷たい水のようにレオンの頭に降りかかった。
そうだ。これは、僕の戦いだ。ここでまたコーチに助けを求めて、この場をやり過ごしたとして、何になる? 僕は、また一人になった時に、同じようにこの恐怖に屈するだけだ。それでは、何も変わらない。
ジョウイチは、僕に選択を委ねているのだ。過去のトラウマにひれ伏し、元の卑屈な自分に戻るのか。それとも、この恐怖と対峙し、自分の足で一歩前に進むのか。
レオンの体は、まだ恐怖で震えていた。心臓はうるさいほどに鳴り響き、冷や汗が止まらない。
だが、その震えの中心で、小さな、しかし確かな決意の炎が灯った。
もう、逃げるのはやめだ。
もう、言いなりになるのは、ごめんだ。
レオンは、震える足に、必死に力を込めた。ゆっくりと、だが確かに、丸まっていた背中を伸ばし、顔を上げる。
そして、目の前で拳を振り上げている女を、まっすぐに見据えた。
その瞳に宿る光は、もはや単なる怯えの色だけではなかった。恐怖の奥に、確かな「闘志」が燃え始めていた。
彼は、この理不尽なトラウマとの再戦に、自らの意志で臨むことを決意したのだ 。