第2話 絶望の街、卑屈な瞳
女騎士は、動けなかった。
目の前の男から放たれる気迫は、まるで物理的な圧力となって彼女の全身を締め付ける。剣を抜くどころか、指一本動かすことすら躊躇われた。男は何もしていない。ただ、そこに「在る」だけで、歴戦の騎士であるはずの自分の生存本能が警鐘を乱打していた。
やがて、絞り出すようなうめき声を一つ残し、女騎士は後ずさるようにしてその場を去っていった 。その背中は、来た時とは比べ物にならないほど小さく見えた。
嵐が去った路地裏で、壁にへばりついていた男たちが、恐る恐るジョウイチを遠巻きに見つめる。その瞳に宿るのは、感謝や称賛ではない。得体の知れない怪物を見るような、恐怖と警戒の色だった。ジョウイチは彼らに一瞥もくれず、大通りへと足を踏み出した。
街の様子を観察し、情報を収集するためだ 。
そして、彼の目に映った光景は、先ほどの路地裏の光景がこの街の日常であることを、雄弁に物語っていた。
市場では、骨と皮ばかりに痩せた男たちが、うず高く積まれた荷物を背負い、奴隷のように働かされている 。彼らの首には、所有者を示すのであろう首輪のようなものが嵌められていた。少しでも足がもつれようものなら、監督役の女性から罵声と共に鞭が飛ぶ。だが、男たちはただ俯き、無言で立ち上がり、再び荷を背負うだけだった。
大通りを闊歩するのは、武装した女性兵士や、色鮮やかなドレスをまとった女性商人たち。彼女たちの顔には、絶対的な支配者としての自信と傲慢さが満ち溢れている。すれ違う男たちは、皆一様に道を譲り、壁際に寄って深く頭を垂れていた。その瞳は一様に濁り、生気が感じられない。まるで魂を抜かれた人形のようだった。
絶望。諦観。無気力。
それが、この街の男たちを支配する空気の正体だった。
ジョウイチは、その光景の一つ一つを、鋼のような精神に刻み付けていく。彼の内側で、静かな怒りがマグマのように沸々と燃え上がっていた 。
(これが、男の姿か…? 違う。断じて違う!)
肉体を鍛え、精神を磨き、己の限界に挑戦する。その先にある誇りと尊厳。ジョウイチが信じ、教えてきた「男の在り方」とは、あまりにもかけ離れた世界。これは、間違っている。断じて、許されるべきではない。
彼の怒りは、爆発的な激情ではなかった。より深く、より静かに、世界の根源的な歪みそのものに向けられた、冷徹な憤怒だった。
情報収集を続けながら、いくつかの通りを抜けた時だった。
建物の隙間から伸びる、ひときわ薄暗い路地裏から、甲高い嘲笑と、何かを殴りつける鈍い音、そしてか細い懇願の声が聞こえてきた。ジョウイチは眉をひそめ、音のする方へと足を向ける。
路地裏の奥では、三人の若い女が、一人の少年を取り囲んでいた。身なりからして、チンピラといったところだろう。少年はまだ十代半ばか、ひょろりと痩せた体に、サイズの合わない汚れた服を着ている。
「ほらよっ!」
女の一人が、少年の腹を蹴り上げた。少年は「うぐっ」と呻き声をあげ、地面に蹲る。だが、彼は抵抗する素振りすら見せない。ただ、震える声で許しを乞うだけだった 。
「ごめんなさい…許してください…もうしませんから…」
「口答えしてんじゃねえよ、レオン!」
「お前みたいな役立たずの男は、こうやって痛い目に遭わないと分かんないんだからさ!」
女たちは楽しげに罵声を浴びせ、少年を嬲る。それは、あまりにも一方的で、醜悪な光景だった。
ジョウイチはすぐには動かず、物陰からその様子を観察していた。彼の目は、無抵抗に暴力を受け入れている少年の、その瞳を見つめていた。
恐怖と絶望に支配された瞳。この街の男たちと、何も変わらないように見えた。
だが。
リーダー格の女が、少年の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた、その瞬間。ジョウイチは見逃さなかった。
少年の瞳の奥、絶望の闇のさらに底で、ほんの一瞬、チリッと火花が散るような光が宿ったのを 。
それは、あまりにも弱々しく、すぐに消えてしまいそうな光だった。だが、それは間違いなく「悔しさ」の色をしていた。この理不尽な状況に対する、魂の最後の抵抗。まだ、この少年の魂は死にきってはいない。
――ダイヤの原石だ。
ジョウイチは確信した。磨けば光る。いや、磨かなければならない。この少年こそ、この歪んだ世界に変革をもたらす、最初の一人になる可能性を秘めている。
ジョウイチは静かに物陰から姿を現し、路地裏へと歩を進めた。
彼の接近に、最初に気づいたのは女たちだった。
「あ? なんだてめえ」
女の一人が、威嚇するように声を上げる。だが、ジョウイチの全身を見上げた瞬間、その声はかすかにひきつった。
薄汚れたタンクトップ姿。だが、その布地の下で蠢く筋肉の塊は、彼女たちが今まで見てきたどの男とも異質だった。まるで、岩を削って作り上げたかのような、圧倒的な肉体。そして、何よりもその眼光。値踏みするような視線を向けただけで、魂の芯まで凍り付くような威圧感を放っていた。
「…な、なんだよ…」
「ひっ…」
虚勢は、一瞬で剥がれ落ちた。女たちは、本能的な恐怖に突き動かされるようにじりじりと後ずさる。ジョウイチは一言も発しない。ただ、黙って歩み寄るだけ。その無言の圧力が、何よりも雄弁に「消えろ」と告げていた。
チンピラたちは、もはや悲鳴を上げる余裕もなく、脱兎のごとく路地裏から逃げ去っていった 。
後に残されたのは、蹲ったまま震えている少年と、静かに彼を見下ろすジョウイチだけだった。
ジョウイチは少年の前に屈むと、その分厚く、節くれだった手を差し伸べた。
「立てるか、少年」
助け起こそうとした、その時だった。
少年――レオンは、差し出された手を見て、ビクッと肩を震わせた。そして、まるで恐ろしいものから逃れるように、必死の形相で後ずさった。
「ひぃっ! や、やめてください!」
感謝の言葉ではなかった。安堵の表情でもなかった。彼の顔を支配していたのは、純粋な恐怖だった。
「な、なんで…余計なことをしないでください…! 」
レオンは涙目でジョウイチを睨みつけ、叫んだ。
「あの人たちを怒らせたら、僕はもっと酷い目に遭うんだ! あなたがいなくなった後、僕がどれだけ殴られるか分からないじゃないか! なのに、どうして…!」
その言葉は、この世界の男性にどれほど根深い恐怖と諦めが染みついているかを物語っていた 。助けられることすら、さらなる絶望の始まりでしかない。誰かが手を差し伸べてくれるという希望など、とうの昔に捨て去っている。理不尽にはただ耐え忍び、嵐が過ぎ去るのを待つ。それが、彼らが生きるために身につけた、唯一の術だった。
ジョウイチは、差し伸べた手をゆっくりと下ろした。
レオンの絶望的な叫びを聞いても、彼の表情は変わらない。失望も、憐憫も浮かんでいなかった 。彼はただ、この少年の魂が置かれている状況を、冷静に分析していた。
そして、彼は信じていた。先ほど垣間見えた、あの「悔しさ」の光を 。
ジョウイチは再び少年の前に深く屈みこみ、その震える瞳と、自分の視線の高さを合わせた。逃げようとするレオンの視線を、有無を言わさぬ力で捕らえる。
そして、静かに、だが腹の底から響くような力強い声で、問いかけた。
「お前は、このままでいいのか? 」
その言葉は、暴力的な怒声よりも、優しい慰めよりも、ずっと深くレオンの心に突き刺さった。
いいのか? いいわけがない。悔しい。苦しい。こんなのは間違っている。心の奥底で、ずっと叫んでいた声。だが、諦めという分厚い壁に閉ざされ、自分自身にすら届かなくなっていた、魂の叫び。
ジョウイチの問いは、その壁に初めて亀裂を入れる一撃となった。
レオンの瞳が、大きく見開かれる。恐怖とは違う種類の震えが、彼の全身を駆け巡った。その心の波紋が、止まることなく広がっていくところで、ジョウイチは静かに立ち上がった 。