第1話 鋼の魂、異世界に立つ
「ラスト一回! 限界の向こう側を見ろ、佐々木! そこにお前の進化がある!」
むせ返るような熱気が充満するジムに、城之内譲一――通称ジョウイチの声が轟いた 。
鉄と汗の匂いが混じり合い、男たちの荒い息遣いがBGMとなるこの空間こそ、彼の主戦場であり、聖域だった。
彼の目の前では、中肉中背のサラリーマンである佐々木が、100キロのバーベルを胸の前で震わせている。限界だった。プルプルと小刻みに痙攣する腕は、もう1ミリたりとも持ち上がりそうにない。瞳からは光が消え、諦めが色濃く浮かんでいる。
「だ…ダメです、コーチ…もう…」
「ダメじゃない! 貴様はまだ、自分の限界を勝手に決めているだけだ!」
ジョウイチは吼える。彼の指導は常に熱く、情け容赦がない 。だが、その瞳の奥には、クライアントの可能性を誰よりも信じる灼熱の光が宿っていた 。
「いいか! 筋肉は裏切らない! お前が応えれば、必ず応えてくれる唯一無二の“筋肉”だ! その裏切れない相棒に、てめえの甘ったれた精神を見せてみろ! それでいいのかと!」
彼の言葉は単なる精神論ではない。人体の構造を完璧に理解し、栄養学から心理学まで網羅した、緻密な理論に裏打ちされた哲学だった。ひ弱な男たちを「男の中の男」に鍛え上げるカリスマメンズコーチ 。それが現代日本における城之内譲一の姿だった。
身長190センチに迫る長身は、神々が彫り上げた彫刻のように、完璧な筋肉の鎧で覆われている 。指導のために着ている薄手のタンクトップは、その肉体の躍動を隠しきれず、大胸筋から広背筋、腹直筋に至るまで、一つ一つの筋肉の輪郭が芸術品のように浮かび上がっていた。彼の肉体そのものが、彼の哲学の最も雄弁な証明だった 。
「う…うおおおおおおっ!」
ジョウイチの魂の檄が、佐々木の枯れかけた精神に火をつけた。諦めかけていた瞳に再び闘志の光が宿り、喉が張り裂けんばかりの雄叫びと共に、震えていたバーベルがゆっくりと持ち上がっていく。一ミリ、また一ミリと、重力に逆らって。
「そうだ! それだ! 己に勝て!」
最後の瞬間、バーベルがラックに戻される甲高い金属音が響き渡った。ジムにいた誰もが、佐々木の成し遂げた一回に息を飲み、そして次の瞬間、熱狂的な拍手と歓声が沸き起こった。
佐々木は胸を大きく上下させながら、達成感に満ちた目でジョウイチを見つめる。
「コーチ…や、やりました…」
「当たり前だ。お前はやれる男だ」
ジョウイチはニヤリと笑い、分厚い手で佐々木の肩を力強く叩いた。その一瞬の承認が、男にとっては何物にも代えがたい報酬となるのだ。
その日のコーチングを終え、プロテインシェイカーを片手にジムを出たジョウイチは、夜風に火照った体を冷ましていた。彼の頭の中は、次世代の「男」をどう育成していくかのプランで満ちていた。
「まだまだだ。この国には、真の強さを知らずに燻っている男たちが多すぎる。俺が、彼らの魂に火をつけなければ…」
そんな決意を新たに、横断歩道に足を踏み出した瞬間だった。
強いヘッドライトの光。けたたましいブレーキ音。そして、世界がスローモーションになる感覚。
(…ああ、そうか)
大型トラックに跳ね飛ばされ、宙を舞う体の中で、ジョウイチの意識は妙に冷静だった。痛みは感じない。ただ、一つの無念だけが、彼の胸を焦がしていた。
(まだ…まだ真の男を育てきれていない… 俺の理論は、まだ完成じゃない…)
アスファルトに叩きつけられる衝撃と共に、彼の意識は深い闇に沈んでいった 。
次に目覚めた時、鼻腔を突いたのは鉄と汗の匂いではなく、嗅いだことのない香辛料と、ほのかな下水のような臭いだった。
背中には硬く冷たい石の感触 。ゆっくりと目を開けると、視界に映ったのは、曇り空の下に広がる、見慣れない石造りの街並みだった。自分は、汚れた路地裏に倒れているらしかった。
「…どこだ、ここは」
体を起こし、周囲を見渡す。服装はジムを出た時のタンクトップとトレーニングパンツのままだ。だが、周囲の風景は、彼が知る日本のどの景色とも異なっていた。中世ヨーロッパを思わせる古びた建物、石畳の道。明らかに異世界だった。
状況を把握しようと、彼はゆっくりと立ち上がった。その長身が路地裏に影を落とす。その時、カツン、カツン、と硬質な足音が近づいてきた。
路地の入り口に現れたのは、全身を銀色の鎧で包んだ一人の騎士だった。優美な曲線を描く鎧は、明らかに女性用だった。兜のスリットから覗く瞳は、鋭く、そして冷たい。
ジョウイチの視線が、その騎士の姿を捉えた。状況を把握するため、情報を得るため、相手を観察するのは当然の行為だった。
しかし、その行為が、この世界では許されざる罪であるらしいことを、彼はまだ知らなかった。
女騎士はジョウイチを認めると、眉をひそめ、汚物でも見るかのような侮蔑の視線を向けた 。
「…何だ、その目は。 filthy male (汚らわしい男) が、気安く私を見るな」
吐き捨てるような言葉。その声に反応して、路地の奥や建物の陰から、数人の男たちが顔を覗かせた。だが、彼らは皆、女騎士の姿を認めると、蜘蛛の子を散らすように怯え、目を伏せ、壁にへばりつくようにして体を縮こませた 。その姿は、まるで絶対的な捕食者を前にした草食動物のようだった。覇気も、思考力も、魂さえも失っているかのように 。
この世界の異常性 。力を持つ者が女であり、男は虐げられる存在であるという歪んだ常識 。ジョウイチはその光景から、瞬時に本質を読み取った。
だが、彼は現代日本のカリスマメンズコーチ、城之内譲一。理不尽に膝を屈する生き方など、彼の哲学には存在しない。彼はただ黙って、目の前の女騎士を真正面から見据え続けた。
その態度が、女騎士の逆鱗に触れた。
「…まだ見るか。この国では、男が女を許可なく直視することは不敬罪にあたると知らないのか? その場でひれ伏し、許しを乞うなら、今回は見逃してやらんでもない」
ジョウイチは動かない。謝罪もしない。ただ、その瞳に宿る灼熱の光で、女騎士の魂を射抜くように見つめ続ける。
女騎士の顔が怒りで歪んだ。
「…いいだろう。その蛮勇に免じ、法の裁きを与えてやる。その首、刎ね飛ばした後に悔いるがいい!」
女騎士が腰の剣の柄に手をかける 。周囲の男たちが、息を飲むのが分かった。誰もが、次の瞬間には路地裏が血に染まる光景を疑わなかった。
女騎士が剣を抜こうとした、その刹那。
「黙れ」
地を這うような、低く、重い声が響いた 。それは、この世界に来て、ジョウイチが初めて発した言葉だった。
たった三文字。だが、その声には、あらゆる理不尽を薙ぎ払うほどの圧倒的な質量と気迫が込められていた 。
女騎士の動きが、ピタリと止まる。
彼女が見下していた、薄汚れた衣服をまとっただけの男から放たれているとは思えない、想像を絶する威圧感 。まるで、巨大な龍に睨みつけられたかのような、原始的な恐怖が背筋を駆け上がった。
目の前の男は、ただ立っているだけだ。だが、その鍛え上げられた肉体は、鎧などなくとも鋼鉄の要塞のように見えた 。タンクトップ越しに隆起する筋肉の一つ一つが、致死の威力を秘めた兵器のように感じられる。
そして何より、その瞳。
怒りでも、憎しみでもない。ただ、己の信念だけを燃やし続ける、灼熱の太陽のような光 。その光に射抜かれた女騎士は、自分が「女」であり「騎士」であるという優位性を忘れ、ただ一匹の生物として、目の前の規格外の存在に圧倒されていた 。
彼女の額から、一筋の冷や汗が流れ落ちた。柄を握る手が、カタカタと震えていることに、彼女自身、ようやく気づいた。
路地裏の支配者は、もはや女騎士ではなかった。鋼の魂を持つ一人の男が、この歪んだ世界の常識を、その存在感だけで粉々に砕き始めていた。