汽笛の音、笑い声
きっと、恋ではない。背中合わせの沈黙が心地良いから。
本作含む短編3作は、連載予定の長編『紅華四季恋浪漫譚 夏の章』の一年前を描く前日譚です。
大正浪漫と魔術が息づく帝国。苛烈な令嬢・火花と、滅びた隣国の青年・玲。
正反対だがどこか似ている二人が出会い、ぶつかり合いながらも、運命の糸は絡まっていきます。
この短編だけでもお楽しみいただけますが、長編の前に触れていただくと二人の距離感がより鮮やかに味わえます。
紅華帝国随一の駅、紅霞駅の前は大賑わいである。洋装の紳士、和装の令嬢、新聞売りの少年、花売り娘…。荷物を積む駅員の声と、汽笛の音を聞きながら、数多の人々の中、火花もその中を闊歩していた。
服装は愛用している紅苑高等学院の制服である。漆黒の制服は通気性にやや難はあるものの、非常に動きやすく快適で、火花は学院外でも専ら好んで着用していた。
ひととおり駅前を歩き回ったあと、目当ての人物がいないことを悟り、駅舎の煉瓦の壁にもたれかかる。腕を組んで、火花は溜息をひとつ吐いた。
遅刻だな。
「知ってましたよーーだ。」
吐き捨てた小さな愚痴は、漂う石炭の香りとともに雑踏の中へ霧散した。
昨日の夕刻、黒宮の屋敷に急ぎの手紙が届いた。差出人は火花の主人、紅華帝国の第二皇子・雅臣である。
彼は火花より一つ歳上の、いつも笑顔を絶やさない魅力的な皇子である。軽薄な言動が多いのは事実だが、その実非常な努力家であり、社交能力も高い。その人柄に惚れ込んでいる従者は多く、火花はその筆頭だった。
幼い頃から、彼を主人として火花は生きてきた。
その主人から突然、「明日出かける。十時、紅霞駅」と、たった二文の簡潔なお手紙を受け取った。
鍛錬の予定しか入れていなかった火花は勿論その言葉に従い、朝から身支度をして、しっかりと予定時刻に到着したのである、が。
一向に主が姿を現わす様子はない。
もっとも、主の遅刻は珍しくもないので、火花に焦りはなかった。
最近遅刻の回数が増えている気がする、どころか、遅刻しないことの方が少ない。
昔はこんなこと無かったのに、最近私の時間を蔑ろにしすぎじゃあないですかねえ殿下。この暑い中無意味に待たされるお可哀想な従者の気持ちを考えたことあるんですか。きっと無いですよね。
主人が来たら絶対に嫌味を言ってやるんだと強く心に決めながら、滴る汗を拭いつつ、ぼんやりと周りを見渡していた。
忙しなく動く人々の中、ふと人通りの途切れた駅舎の壁沿いに、数人の人だかりを見つけた。
軽やかな笑い声、妙に甲高い声など、若い女性特有のものがいくつも聞こえてくる。興味を惹かれ凝視すると、火花にはケバケバしく感じる洋装に身を包んだ、数人の令嬢達が一人の男を囲んでいることに気がついた。
中央の男だけ背が高いので、こちらからも顔や服装がよく見える。火花と同じ黒い制服、いつもと変わらぬ黒髪と涼やかな紫の瞳。それでいていつもの無表情は少しだけ崩れ、困惑を滲ませていた。
紫苑、と火花が小さく呟く。
「まあ、あなた学生さんでしょ?その制服、あの紅苑学院のものよね!」
「少しくらいお話ししてくださらないかしら、この出会いも運命ですもの」
「お名前を伺いたいわ」
「あら、どうしてなにも言ってくださらないの。わたくしたち、怖いかしら」
「出会ったばかりですものね。少しお茶でもしませんこと?」
派手な声色の笑い声が、耳に痛い。
玲は時折口を僅かに動かすものの、特に何の言葉にもなっていないらしかった。
積極的な令嬢達に気圧され、明らかに困っている玲を見て、口角が上がる。いつも無表情でいけすかない男が、令嬢達にやられたい放題している。
「ぷっ」と思わず噴き出したその音が、玲に届いたわけではないだろう。雑踏の中では、火花の笑い声はかき消されるほど小さかったはずだ。
しかし事実として、玲は火花の姿を認めた。
困惑する自分を鑑賞して悪い笑みを浮かべる火花を確認して、玲は悪趣味だと言わんばかりに僅かに顔をしかめる。
歪んだ彼の表情に、火花はまた面白くなってしまう。
わざとらしく手を振ってやると、玲は不快感をますます露わにした。
暇つぶしにそんな玲を楽しんでいると、火花は待ち人に気がついた。
目立つ金髪をグレーの中折れ帽に隠し、色付き丸眼鏡で紅い瞳を誤魔化している。ベストに革製のショルダーバッグを手にしている姿は明らかに新聞記者を意識した変装だが、見慣れた火花には一目瞭然だった。
優雅な所作までは誤魔化しきれておらず、明らかに周囲の女性達の目を釘付けにしている。
遅刻している身分で、悪びれずに堂々と歩いてくる雅臣に苛立ちを覚えた火花はふと、良い意趣返しを思いついた。悪い笑みを深めた火花は、そのまま玲の周りを取り囲む令嬢たちへと歩を進める。
「お姉様方、そのくらいにしといてくださいな」
柔らかい声で、彼女達に声をかけた。
何よあなた、と令嬢たちが敵意を火花へ向ける。
しかしその刺すような視線からぐるりと囲まれても、火花は笑みを崩さなかった。
「そいつ、ご覧の通り喋れないんですよ。無表情だし、何考えてるか分からないし、面白くも何ともない男なんです」
玲を小馬鹿にするように視線をやりながら言うと、怒気を孕んだ視線が返ってくる。
心地よささえ感じながら、火花は振り返って思い切り指を指した。
「ここにはもっといい男がいますよ、ほら、例えばあそこの人とか」
火花の指先に誘導された令嬢達は、すぐにまあ、と歓声をあげる。
令嬢たちが雅臣をすぐさまロックオンしたようだ。
火花に気がついてこちらに歩みを進めていた雅臣は、令嬢たちの強い視線を一身に受けたことで、明らかに動揺している。
慌てた様子の主人をみて、火花は内心ほくそ笑んだ。
「お前、あれ…」
と言いかけた玲の腕をむんずと掴み、火花は素早く令嬢達の包囲網からするりと抜ける。
獲物を狙う狩人たちの標的はすでに主人へと移ったようだが、早くこの場を離れた方が良いのには違いない。
「大丈夫、あんたと違ってああいうの、殿下は慣れてるから」
令嬢達からは死角になる位置に移動したところで、火花は玲の腕を乱雑に離した。
遠くに黄色い声が聞こえる。今まさに雅臣は、あの声に囲まれて狼狽していることだろう。
「……。」
「それより、礼の一つでも言ってほしいんだけど」
「…面白がってただろ」
「まあね。でも助けたのは事実だし」
強気の姿勢を崩さない火花に、玲は唇を噛んだ。
そんな彼の様子すら面白い火花は腕を組み、自分より頭一つ分背の高い彼を見上げる。
ほら、お礼、と催促した。
「嫌だ」
「礼儀知らず」
「悪趣味」
バチバチと舌戦を繰り広げていたせいで、火花は黄色い声がいつの間にか落胆の声に変化していることに気が付かなかった。
優雅さを失った雅臣が、怒りを滲ませながら大股でこちらに歩いてくるのに気がついたのは、主人の荒げた声が耳に入ってからだった。
「ハナ、お前よくも…」
「おや、今日は時間がかかりましたね。今回のご令嬢達は中々積極的なようでしたし」
「主人にナンパをけしかけるやつがいるか!」
「そもそも殿下が遅れなければこんなことにならなかったんですよ。自業自得」
皇子に対して無礼千万な言動ではあるものの、火花はこの態度が許されることを知っていた。
雅臣も自業自得と言われ頭にきてはいるが、火花を罰する気は毛頭ない。この少女が、心底自分を敬愛していることは知っていたし、自分も彼女のことを誰よりも信頼していたからだ。
「君が、紫苑玲か」
視線が隣に動き、火花の隣に佇む紫の瞳を捉えた。雅臣が親しみを込めて笑うと、玲は頭を垂れる。やめてくれ、と雅臣が困ったように言った。
「ハナと仲良くしてくれてるみたいだな」
穏やかに言うその声に、二人はピクリと反応する。
「僭越ながら、殿下。仲は良くありません」
「はい、その通りです」
火花の訂正に、玲も強く頷く。
「ほら、仲が良いじゃないか」
くくく、とさっきまでの怒りはどこへやら、雅臣は楽しそうに笑った。
「兄とも話してるよ。すごく腕が立つって評判だって」
雅臣の言葉に、火花は分かりやすく顔を曇らせる。
明らかに機嫌を悪くした火花を、雅臣は可愛らしく思った。主人に他人の剣術の腕を褒められるのが嫌なのだろうとすぐに察しがつく。ぐりぐりとやや雑に、火花の髪をかき混ぜた。
「この子、粗野で剣術しか脳がないけど、いいやつなんだ」
「それは…知っています」
素直に髪をかき混ぜられながら、火花は苛立ちを隠さず問う。半ば返ってくる答えは予測できていたが。
「あんた、それはどっちについて言ってる?」
「粗野で脳なしなところ」
無表情で淡々と言う玲に腹立たしさを覚えながらも、なんとなく火花は理解した。先程の流れで、どうやらこの男は自分に苛立っているらしい。
「これからも仲良くしてやって」
満面の笑みで雅臣は言う。雅臣の笑い声が、賑わい続けている駅前の喧騒に溶けていった。
汽笛が短く鳴り、遠くで石炭を焚く匂いが風に乗って流れてくる。
嬉しそうな主を横目に、火花はじっと、紫の瞳を睨み続けていた。
この穏やかな夏の日が、嵐の前触れだと知る者はまだいない。
そして一年後、二人は再びーー刀を交えることになる。
次回より、「紅華四季恋浪漫譚・蛍夏の章」の連載を開始します。
読んでくだされば、嬉しいです。